私たちの生活している領域の、向こう側。私たちのいる時間や空間の外側に、それはある。
世間でもっとも有名な「異界」といえば、地獄と極楽だろう。ほかにも、亀に連れられて行った海底の竜宮、おむすびを追いかけて辿りついた洞穴など、異界への入口は意外にも身近な場所に転がっている。
待ってさえいれば誰でもそのうち行くことになる異界もあれば、迷い込んだ末に辿りつく異界もあるし、さらに言えば、わざわざこちらから出向かなくたって、異界がどんな場所なのか、今この場で見ることもできる。
〈股のぞき〉で異界をのぞき見
異界というのは、ふつうなら見ることのできない特別な場所だ。そんな場所を、こっそりのぞくための呪術的な方法がある。その名も、股のぞき。書いて字のごとく、自分の股のあいだからひょっこりと顔を出して、逆さまにものを見るというもの。
股のぞきをすれば、通常なら見ることのできない幽霊や妖怪の類を眼にすることができる、と言われている。逆さまにものを見る、というこの単純な動作には、怪異の本性を見抜く呪術的な意味が隠されているのだ。
逆さまになって、幽霊船を見る
これは民俗学者の宮本常一が、とある漁師から聞いた話。
この漁師、かつて幽霊船に遭遇したことがあるという。幽霊船の真偽のほどは不明だが、こうした不気味なものに出会ったときこそ、股のぞきが役に立つ。
漁師の話によれば、もし海の上で、いかにも怪しい船に遭遇したときには、股のあいだから逆さまに船を見るのが有効らしい。股のあいだから逆さまに見て、船が海面を走っていれば、ただの難破船。もし船が海面に浮いていれば、それはまちがいなく幽霊船だという。
よく似た話が、べつの地方にも伝わっている。
それによると、海の上で怪異現象に巻き込まれた際には、股のぞきをすることで怪異を消すことができるという。しかも、この方法は海だけでなく、地上でも有効らしい。
たとえば、あまりないかもしれないけれど、道端で大入道に遭遇したとしよう。「怖い、どうしよう」と震えるより先に、股のぞきをしてみよう。そうすれば、相手の方が消えてくれるはずだ。なんとも簡単で、心強い方法ではないか。というわけで、怪異に出くわしたときには、まず逆さまになることを覚えておいてください。
逆さまになって、人の家をのぞき見る
江戸時代の堀麦水が加賀、能登、越中の不思議な話をまとめた『三州奇談』の「唐島の異観」に不思議な話がある。
“俚諺(りげん)に此堂の縁にうつむきになり、股の間より海畔を望めば、必ず異国の人家か蛮界の人家を見ると云ふ。故に多く唐を見んとて、内股の間に首をいれて興ず。人家或時はふしぎにも見え、又見馴れざる所の見ゆることもあり。”
唐島は漁港の沖の小さな島で、ここのお堂に弁財天が祀られており、お堂の縁で股のぞきをすると異国の人の家が見える、というもの。これがほんとうなら、見られたほうはなんとも迷惑な話である。とはいえ、聞いてしまえば確かめてみたくなるのが人の性。もちろん作者も身をもって試している。
作者の記述によると「酒に興じ、打倒れて夢も半ばの頃」に噂話を思い出し、股から逆さまにのぞいてみたところ、「山上より来る一人あり」。その人物は唐の装束で、髪は女性のように唐子髷(からこまげ)、手には大きな旗を持っていた、という。そうして「不思議不思議と感ずる間に、異人間近く来り、ハンメリハンメリ」と言った、とある。
ちなみにこの話にはつづきがあって、件の謎の影は、ただの旗をもって歩いてきた薬売りだった、というもの。
見えないものを見たいなら
ところで股のぞきは特別な行為ではなくて、日常でも無意識にしている動作のひとつだ。
たとえば日本三景のひとつ、天橋立で股のぞきをしている観光客たちもそう。なにか見えますか、と一人一人の肩を叩いて聞いてまわりたいところだけど、見えないものが見えるかどうかは、運次第なところもある。知ってか知らずか、みんなで一緒に異界を見るためのまじないをしているのだから、ちょっと異様な光景ではある。
もし股のぞきで幽霊や妖怪の類が見えなかったとしても気を落とさなくていい。異界をのぞくための方法は、存外たくさんあるのだ。
たとえば、左右の指を互いちがいに組んで「狐の窓」を作ると、狐の嫁入りが見えるそう。ほかにも、左右の手をうしろ前にして指を組み合わせ、中に穴があくようにし、そこからのぞくと狐火が見えるとか。
あるいは、二股になっているもののあいだからのぞくと、魔性のものかどうか見分けることができると伝えられている。成功すれば、妖怪の正体を見破ったり、こちらとあちらの境界を超えることができる。どれも噂にすぎないが、異界というのは未知なる場所なので、なにが起こったっておかしくない。試してみる価値はありそうだ。
股のあいだに要注意
股のぞきで幽霊船を見分けたり、他人の家が見えたり、見えなかったり。股から顔を出すことで異界をのぞくことができる、なんて怪しい話をどうして人々は信じていたのだろう。考えてみれば、人間誰しも股のあいだから生まれてきたのだ。股とは、人の命が出入りする神聖な空間でもある。そんな場所をくぐり抜けるのだから、不吉が起こっても仕方ないのかもしれない。
だから、むやみやたらに股のぞきをするのは危険なので気をつけたほうがいい。こちらからあちらが見える、ということは、あちらからもこちらが見えている可能性がある。もしも、あちら側の誰かと眼が合ってしまったら、股のあいだから引っ張られでもしたら、二度とこちらへは戻ってこれないかもしれない。やっぱり、異界なんて末恐ろしい場所、見たいなんて思うべきじゃないのかも。
【参考文献】
『近世民間異聞怪談集成(江戸怪異綺想文芸大系)』国書刊行会、2003年