あなたは河井寬次郎(かわいかんじろう)を知っていますか? 大正から昭和にかけて「民藝運動」の中心的人物として活躍した、京都の陶工です。彼は陶芸のみならず、家具や照明、木彫、書などあらゆる「もの」と「ものづくり」に情熱を注ぐ人でした。そんな寬次郎の長年生活していた住居兼工房が、ほとんど当時の姿のまま記念館として公開されています。
寬次郎自ら設計を手掛けたこだわりの建築、バラエティに富んだ作品の数々。京都市内で唯一、一般公開されている貴重な登り窯など、見どころ満載の記念館。その訪問レポートをお届けします。
土と炎の詩人! 河井寬次郎とは?
河井寬次郎は、島根県の港町、安来(やすぎ)の大工の棟梁の家に生まれました。幼い頃に実母を亡くし、幼少期は里親の家で過ごします。中学時代に叔父の勧めで陶芸の道を志し、東京高等工業学校窯業科に進学。そこで陶芸の科学的基礎を学びます。他の学生たちが大会社の技師になることを目指すなか、陶芸家を目指していた寬次郎は異色の存在でした。
卒業後は、陶磁器の原料や釉薬、技術を研究する京都市立陶磁器試験場で、3年間研究と制作に励みます。30歳の時に五代清水六兵衞が所持していた五条坂の窯場(記念館内に現存)を譲り受け、「鐘溪窯(しょうけいよう)」と名付けました。
本格的に作家の道を歩み始めた寬次郎は、卓越した釉薬技術と独創的な造形力により多彩な作品を制作。「土と炎の詩人」と形容されました。また、柳宗悦(やなぎむねよし)、濱田庄司たちと、“名もなき職人が生み出した日常の道具の中に「用の美」が宿る”とする「民藝運動」を牽引しました。