団子や饅頭とおなじく、和菓子の代表とされる羊羹。日本人に長く愛されてきた羊羹についてまとめた『ようかん』(新潮社刊)が出版された。驚愕のルーツ、ドラマチックな変容、そして虎屋の羊羹の歴史まで、さまざま視点から羊羹をとらえた一冊だ。手掛けた虎屋の菓子資料室「虎屋文庫」の話とともに、驚くべき羊羹の実体に迫る。
歴史から文学作品まで、羊羹の魅力が詰まった『ようかん』
最近の家計調査によれば、羊羹に使う金額はひと家族につき年間700円。ちなみにケーキは7000円弱、チョコレートは6000円代というから、かなり少ないのがわかるだろう(総務省統計局「2018年家計調査」より)。特に10代、20代では食べたことのない人も多いとか。餡好きであり和菓子好きな私でも、団子や饅頭または生菓子は「ひとつ、いや、ふたつ買っちゃおう」となるものの、隣にならぶ羊羹を「よし一棹買っちゃおう♡」とはなかなかならない。団子や饅頭に比べると菓子屋の羊羹はちょっと敷居が高く、生菓子に比べるとやや華やかさに欠けるのだ。ただむっちりした食感やどこを食べても甘い羊羹は、ほかの菓子にはない代えがたい魅力がある。
そんな個性溢れた菓子が『ようかん』という本になった。まとめたのは、凡そ500年の歴史を紡ぐ老舗菓子屋、虎屋の菓子資料室「虎屋文庫」だ。虎屋文庫の仕事に関しては「羊羹愛が詰まった本に展示会!和菓子文化を伝える「虎屋文庫」のスタッフ」で取り上げているが、虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集や調査研究、その成果を展示会や学術誌で発表をしている。そんな虎屋文庫が手掛けた『ようかん』は、そのルーツや歴史、虎屋との関わり、材料や製造方法、全国のご当地羊羹、と羊羹愛あふれた内容がみっちりと詰まっている。
羊肉のスープがルーツ!菓子としての羊羹は室町時代後期から
そもそも羊羹のルーツは中国である。その漢字から読み解くと羊羹は、羊の羹(あつもの)のこと。羹とは汁物のことで、つまり羊肉のスープを指す。なぜ羊肉スープがあのむっちり甘い羊羹になるのか?そんな意外すぎるルーツに、かえって興味が湧いてくる。
鎌倉から室町時代、中国に留学していた禅僧が点心のひとつとして羊羹を日本に伝えた。禅宗では肉食を禁じるために、(また当時、日本には羊はおらず)、小豆や小麦粉などを使った蒸し物を羊肉に見立て、汁物にした精進料理へ。それがやがて武家や貴族社会へとひろがり、武家のおもてなし料理である本膳料理の品書きにも取り入れられるように。また茶の湯にも登場しはじめたことで、汁気のないものが作られるように進化してきた。
菓子としての羊羹が史料に出てくるのは室町時代後期から。江戸時代には、料理としての羊羹はほぼ姿を消す。羊羹といえば棹ものイメージがあるけれども、初期の羊羹は蒸した材料をこねて様々な形にした菓子だったとか。これが前述の「ひとつ買っちゃおう♡」となる、伝統意匠や季節を映した生菓子の製法のひとつ、一般的には「こなし」と呼ばれる製法へとつながったとか。その根拠のひとつとして、虎屋では昔から「こなし」を羊羹製と呼んできたことがあげられる。そして形ある蒸羊羹から棹の蒸羊羹、さらには寒天を使った水羊羹や煉羊羹へと発展を遂げていく。
かいつまんで紹介したけれども、ルーツから現代の羊羹事情までが同書の「ようかん全史」に詳しく記されている。膨大な資料を丹念に読み解いたことでつながった歴史!さぞや大変な仕事であろうことは疑うべくもない。お話しをうかがった虎屋文庫の主席研究員・中山圭子さんと研究主事・河上可央理さんは、「江戸時代以前の羊羹の資料がとても少ないためにその実体がつかみにくく、謎や空白を推測などで補いながら埋めていきました。非常に苦労はしましたが、断片的な記録を全史としてつなげられたことは本当に嬉しい。大変さよりも喜びのほうが大きいですね」と話してくれた。
虎屋には常に最上級を追求する羊羹マイスターの存在も!
虎屋と羊羹との関わりをまとめあげた「虎屋のようかんの歴史」には、江戸時代から現代にいたるまでの興味深い羊羹エピソードが数多く綴られている。虎屋の史料のなかで、羊羹の名が見られる最も古い記録は寛永12(1635)年の「院御所様行幸之御菓子通(いんのごしょさまぎょうこうのおかしかよい)」だ。明正天皇が後水尾上皇の御所に行幸した際に納めた菓子記録に記されている。なんと5日間のあいだに虎屋と二口屋(ふたくちや)という菓子屋の2軒で538棹もの羊羹(蒸羊羹だったとか)を納めたとか。
羊羹は宮中では婚礼などの慶事に用いられていたこと、代表銘菓「夜の梅」の銘は当初は干菓子につけられていたこと、輸出用に缶詰めの羊羹を作っていたことなど、虎屋の羊羹トリビアが続々と出てくる。担当したおふたりに印象的だった虎屋と羊羹の関わりやエピソードを尋ねると、「昭和の第二次大戦の際には、虎屋の赤坂の工場が空襲で焼けてしまい、商品にならない羊羹を近所の皆さんに差し上げた出来事がありました。作家の新田潤さんもエッセイに書かれていますが、めったに甘いものを口にできない時代でしたからすごく喜ばれたそう。お客様からもお話しいただいたことがある感慨深いエピソードですね」と、中山さん。日々戦況が苦しくなるなか、激しい空襲を生き延びた人々には希望を与えた甘い贈物だったろうと察せられる。
またはじめて食べた虎屋の羊羹が就職試験で配られた小形羊羹だった、河上さん。だから15代黒川武雄氏が気軽に羊羹を食べられるようにと、コティの香水箱サイズから着想した小形羊羹の誕生秘話が強く印象に残っているそうだ。「はじめて食べたときはその甘さに驚きましたが、今では大好物です」と笑う。
コティといえばフランスの香水会社だが、昭和55(1980)年に虎屋はパリへと出店。羊羹を初めて見たフランス人から「黒い石鹸?」と尋ねられたエピソードは有名だ。菓子に見えなかった羊羹を現地でも好まれるようにと工夫を重ね、果物やショコラを加えた新感覚の羊羹を生みだしてきた。そのかいもあって、いちじくや洋酒を取り入れた「とらや パリ店」限定羊羹は、今やフランスのお客様にも好評だそう。平成30(2018)年の秋に私が同店を訪ねた際にも、ご常連のフランス人が羊羹を選んでいるところに出くわした。オープンして約40年が経ち、パリ市民にも羊羹のおいしさが受け容れられてきたのかもしれない。
私が一番驚いたエピソードが、虎屋の『羊羹マイスター』制度だ。羊羹マイスターは羊羹をつくる職人ではなく、羊羹の味や食感を見極める検食のプロのこと。現在7名のマイスターが、日々商品の試食や評価、そして官能検査を行っている。味が落ちたと感じるのは製造何日目からか?などの機械では測定できない部分を評価しているそうだ。
さまざまなエピソードからは、代々受け継いできた羊羹の味を守るだけではなく(それだけでもすごいことだが)、つねに新しいことや最上級のおいしさを追求していくという虎屋の気迫が感じられる。その気迫に満ちた姿勢が、代表菓子である羊羹に風格を与えているのだろう。
世界はもちろん宇宙へも旅する羊羹、知れば知るほどおもしろい
伝来した際には、点心には猪羹(ちょかん)や魚羹(ぎょかん)などもあったのにそれらはなくなり、なぜ羊羹だけが残ったのか?長い歴史のなかで料理から菓子へと生まれ変わり、5種類へと進化を遂げて、今に続いている不思議。担当者の中山さんや河上さんが言うように、まさに羊羹はミステリアスで謎めいている菓子だ。
そんな謎めいた菓子は、古くより多くの人に愛され親しまれてきた。全国各地にその土地ならではの羊羹だって数多い。そんな全国各地のこだわり羊羹を集めたイベント「羊羹コレクション」が開催され、国内はもちろんパリやシンガポール、ニューヨークなどの海外でも好評を博している。そしてJAXAが宇宙飛行士へ提供する食品として「羊羹」を認定。世界のみならず、宇宙にまで羽ばたいている。
知れば知るほど羊羹は奥深くておもしろい。厚みで変わる食感についても記されているので、あなた好みにカットした羊羹(私は厚め派)とともに『ようかん』を味わい尽くしてほしい。
参考文献
ようかん(新潮社刊)/虎屋文庫
https://www.shinchosha.co.jp/book/352951/