関西随一の金融街として名高い大阪市北浜地区。江戸時代から商業地船場(せんば)の勘定方として役割を果たしてきました。谷崎潤一郎の「細雪」や、近年では古川智映子の「小説 土佐堀川」をモチーフとしたNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」などの舞台でもあります。
ビルの立ち並ぶイメージのこの北浜。中野島公会堂のレトロな建築は有名ですが、実は他にも明治や大正、昭和初期のレトロな建物が利用されていることをご存じでしょうか。
そんなレトロ建築を巡りながら、大阪屈指のビジネス街の歴史を紐解いてみました。
想像以上に多く残る、北浜に残る往年の美しき建造物たち
旧小西家住宅
薬種商人が集まっていた北浜道修町界隈。ここに残る「旧小西家住宅」は、木造建築の商家としての形を今に残し、北浜のレトロ建築の中でも特に有名です。谷崎潤一郎「春琴抄」の舞台のモデルにもなったといわれ、国の重要文化財にも指定されています。
小西家は旧株式会社小西儀助商店を経て、現在は「ボンド」の会社としても有名なコニシ株式会社として営業してます。この建物も現在でも関連会社が事務所として使っており内部は非公開ですが、地域のイベントなどで解放されることもあるそうです。
◆旧小西家住宅
住所:大阪府大阪市中央区道修町1丁目6−10
北浜レトロビルヂング
大阪証券取引所の向かい側に建つ北浜レトロビルヂングは明治45年(1912)に竣工。国の登録有形文化財にも指定されています。英国のグラスゴー派の影響を受けたアンティークな雰囲気が人気の建物で、現在はカフェなどに利用されています。
◆北浜レトロビルヂング
住所:大阪市中央区北浜1-1-26
新井ビル
報徳銀行大阪支店として1922年(大正11年)に竣工された建物です。登録有形文化財に指定されています。現在はショップなどに利用されています。
◆新井ビル
住所:大阪市中央区今橋2丁目1-1
芝川ビル
昭和2年(1927)に実業家であった芝川又四郎が自邸跡に建て替えたビルです。かねてから店を不燃性の建物に建替えたいと思っていた芝川又四郎は、鉄筋コンクリートの存在を知り立替を決意したといいます。そのためこの芝川ビルは、耐震・耐火性に細心の注意が払われています。
南米マヤ・インカの装飾が特徴的なこのビルは、自邸としても余裕があったため、「芝蘭社家政学園」という花嫁学校としても使われていました。
◆芝川ビル
住所:大阪市中央区伏見町3-3-3
生駒ビルヂング
昭和5年(1930)に建設された生駒ビルヂングは、国の登録有形文化財に指定されています。屋上の時計塔や振り子のデザインが施された出窓や丸窓が特徴的なデザインは宗兵蔵の設計によるものです。独特の外観とともに、ステンドグラスや、正面入り口の大理石の階段など往年の流行も取り入れられています。営業時間内であれば、見学も可能だそうです。
◆生駒ビルヂング
住所:大阪市中央区平野町2丁目2-12
船場ビルディング
吹き抜けになっているパティオ風の中庭がおしゃれで独特な 船場ビルディングは、大正14年(1925)に建築されました。地下1層、地上4階建てで、パティオは商人の街らしく、トラックや荷馬車などを引き込むためであったといいます。現在でも住宅兼事務所として使われています。
◆船場ビルディング
住所:大阪市中央区淡路町2丁目5番8号
日本基督教団浪花教会
昭和5年(1930)竣工の浪花教会の建物。浪花教会とは、明治10(1877)に10数名の信徒らによって設立された日本初の自給教会「浪花公会」を起源とするプロテスタント(新教)派の教会です。
派手さはありませんが、色ガラスで飾られた窓や優美な尖塔窓が美しい教会です。日曜日などに礼拝をおこなっており、誰でも参加することができます。
◆日本基督教団浪花教会
住所:大阪市中央区高麗橋2-6-2
いかがですか?
このように、多くのレトロな建築物が残る北浜地区。これらの建築物のほぼすべてが未だに実際に使用されていることに軽く驚きを覚えます。長い時を経ても変わらない街の力を感じますね。
北浜という場所と商人が作った街「大阪船場」
そんな大阪商人の活躍する舞台は、どのように形成されたのでしょうか。
大阪船場とは、一般に大阪市中央区西側にある商業地区のことです。北は土佐堀川(とさぼりがわ)、南は長堀(ながほり)、東西はそれぞれ東横堀、西横堀と今は埋め立てられた川に囲まれた一帯を指します。
現在でも大阪を代表する商業の街として有名な船場。その中でも特に大阪株式取引所が位置する北浜は、ビジネスを司る金融街として知られています。京阪本線・大阪市営地下鉄堺筋線の北浜駅があることから、土佐堀川の南側一帯を北浜と呼ぶことが多いようです。
船場には、伝統的な問屋街が多く存在し、薬種や繊維、小間物や両替商がそれぞれ街を形成していました。船場といえば、現代では卸売り商が集まる船場センタービルが有名ですが、その起源はこの繊維問屋街がルーツなのです。
大阪証券取引所の内部。ステンドグラスが美しい。
全国経済を自由に動かした、大阪商人が生まれた背景とは
伊勢商人、近江商人と並び、日本三大商人の一つとして数えられる大阪商人。豊臣秀吉の大阪城の築城の折に招かれた、千利休をはじめとする堺の商人がその起源といわれています。江戸時代には伏見商人が大挙してこの地に移されることになり、次第に各地の商人も集まるようになりました。ここに、古く堺から、近江や伊勢まで多くの商人を祖とする大坂商人が成立したのです。
武士の権力が強かった江戸とは異なり、「天下の台所」とも呼ばれていた大阪に君臨する大阪商人は特に経済に強い力を持っていました。
日常品の流通だけでなく、上層商人においては蔵元(くらもと)や掛屋(かけや)など両替商を営む者も多く、時には大名の死命や政の先を左右するほどの実力を持っていました。そのため、商人としての誇りを強く持ち、倹約心と才覚を重んじていたといわれています。
ドラマ「あさが来た」でも、主人公が嫁いだ「加野屋」を筆頭に、主要な家はすべて両替商を営んでいる設定でした。
主人公あさの夫も数寄者として描かれていましたが、実際に富裕な者も多かった大阪商人は文化への理解も深く、茶の湯や人形浄瑠璃(文楽)をはじめとし、現在における落語などの誕生発展にも大きな影響も与えました。
経済の安定が文化の発展に欠かせないことを、大阪商人たちの歴史が証明しているようです。
大阪商人の代表、世界を視野に成功した五代友厚
そんな大阪商人を語るには、大阪商工会議所を設立した五代友厚(ごだいともあつ)も忘れてはならないでしょう。
彼はもともとは薩摩の武士の生まれです。にも拘らず、先進的な考えを持っていました。子供時代に藩主・島津斉興(しまづなりおき)がポルトガル人から入手した世界地図を目にしたことが世界を意識するきっかけになったといわれています。
ペリーが来航した時には、「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったとの記録も残っています。
彼は早くから富国策として鉱山業を提唱し、海外から技術を導入して実業家として名を馳せました。明治維新の波を受けて豊かな両替商などの資産の消滅など大阪経済が低迷するようになると、米穀取引所を元に大阪株式取引所を設立しました。
これはのちに大阪商法会議所となり、大阪商人たちの相互扶助、現代の株式売買の場所として機能するようになったのです。
五代はいち早く西洋式の「造幣寮」を建築し貨幣を作る国家プロジェクトを先導したり、現大阪市立大学を設立するなど非常に革新的な人物でした。
大阪商人は上下ではなく、横のつながりで発展したといわれています。現代に通じる資本主義をいち早く取り入れていたのが、大阪商人達であり、五代達だったのかもしれません。
入り口前には発起人である大阪経済の祖、五代友厚の像が立っています。
なお、五代友厚の最初の自宅は、昭和35年まで残っていたものの、現在は大阪科学技術館になっています。その後、旧島原藩蔵屋敷跡に別邸を建てていますが、そこは現在「日本銀行大阪支店」になっています。昭和の半ばまで残っていたということにまた少し驚きますが、もしもこれらの建物がいまだに残っていたら、レトロ建築探索の一つとして、新たな歴史を感じさせてくれたことでしょう。
そんな歴史の宝庫、大阪北浜。川に囲まれた一地区には、多くの歴史の片鱗が残っています。ビジネス目的で通り過ぎるだけでなく、たまには新たな視点でゆっくり歩いてみるのも楽しいのではないでしょうか。
近年、古い建物などを利用した新しいショップなども誕生している船場・北浜地区。新たな発見に出会うかもしれません。
参考:大阪観光局公式サイト