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Culture
2020.04.03

気になる金の使い道は飲酒に賭博…鼠小僧のちょっと残念な実態

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江戸の大名屋敷から金を盗み、貧しい庶民に分け与えた義賊といえば、鼠小僧。古くは歌舞伎の演目として、他にも文学、映画、ドラマなど、さまざまな作品で扱われています。しかしその実態は賭博の金欲しさに盗みを働いたものでした……!

鼠小僧が盗みを働いた背景

鼠小僧、本名次郎吉は歌舞伎小屋・中村座の便利屋家業を務める家の息子として、現在の日本橋人形町に生まれました。大人になると鳶人足(とびにんそく)となりましたが、素行が悪かったようで25歳の時に父親から勘当されます。その後賭博を始め、その資金を稼ぐために盗人稼業に手を染めるようになったようです。
鼠小僧は、1. ひとりで忍び込む 2. 人を傷つけない 3. 器物の類を取らず金銀のみを盗むというスタイルで大名屋敷を次々に狙います。1823(文政6)年以降、10年間に荒らした屋敷の数は約100カ所、盗んだ金は3,000両(諸説あり)、現代の金額で3億円ともいわれます。10両盗んだら死罪という時代にそれだけのことをやってのけたのです。

『鼠小僧実記』 鶴声社 国立国会図書館デジタルコレクションより

貧しい人に配ったんじゃないの!?盗んだお金の使い道

鼠小僧が義賊だったという説は否定されることが多く、賭博の資金や飲酒、女性関係に使ったという見方が一般的です。庶民にもその名前が知れ渡った1832(天保3)年、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷で捕まります。

『踊形容外題尽 鼠小紋東君新形桶の口の場』豊国 国立国会図書館デジタルコレクションより 歌舞伎の演目にもなっている

判決は市中引き回しの上での獄門(裸の馬に乗せてさらしものにした後に処刑、切った首を獄門台にさらす)。本来放火や殺人など凶悪犯に限られているはずの重いものでした。

盲点をついたその手口

なぜ鼠小僧は10年も捕まらなかったのか、その理由は大きく分けると2つあります。

ひとつは鼠小僧の暮らし向きがつつましかったこと。日常的には派手な振る舞いをしなかったのです。
もうひとつは鼠小僧が盗みを働いた先にあります。彼は尾張家、紀伊家、水戸家、一橋家、田安家などの大名屋敷を狙いました。誇りが高い武士にとって、泥棒に入られたということはとても恥ずかしいことでした。そのため公表されない場合もあり、役人としても捕える機会が少なかったのです。そのほか、敷地面積が非常に広く、一旦中に入れば警備が手薄だったことや、謀反の疑いを幕府に抱かれないよう警備を厳重にできなかったということもありました。

なんで義賊扱い?

なぜ、鼠小僧を義賊とする見方があったのでしょうか。
そのひとつに、当時の社会背景があります。当時の老中は水野忠邦、天保の改革の真っ只中で、華美な祭礼や贅沢が禁止されました。厳しい締め付けに庶民の不満はたまっており、人道的な部分がありながら大名に痛手を与える鼠小僧のような存在がヒーロー化したのでしょう。なお、この時期の江戸町奉行はテレビドラマなどで有名な「遠山の金さん」のモデルとなった遠山景元です。水野の厳格な統制に対して見直しを進言するなど、その名声が後世にまで語り継がれたことからも、庶民の心境が伺えます。

『講談一席話 鼠小僧次郎吉 尾上菊五郎』 松雪斎銀光 国立国会図書館デジタルコレクションより

もうひとつは、彼が天涯孤独の身として刑を受けたことがあげられます。当時の重罪は連座制が敷かれていたため、本来であれば家族のものなども刑罰が及びます。しかし鼠小僧は親に勘当されており、数人いた妻や妾には予め離縁状(離婚証明)を渡す、細やかな心遣いをしていたのです。

人を傷つけず、ひとりで犯罪を犯しひとりで刑罰を受けた鼠小僧。ヒーロー化した鼠小僧の話はその後も語り継がれ、1857(安政4)年には彼を題材にした歌舞伎『鼠小紋東君新形』や、芥川龍之介の『鼠小僧次郎吉』などさまざまな作品のモチーフになり、現代でも語り継がれています。

【参考】
「謎解き! 江戸のススメ」監修:竹内誠 編集:「謎解き! 江戸のススメ」制作班 NTT出版
「殿様と鼠小僧 松浦静山『甲子夜話』の世界」 著:氏家幹人 講談社