現在、日本各地で「緊急事態宣言」が発令されています。目に見えない恐怖との戦いがいつまで続くのか、不安な日々を送っている方がほとんどでしょう。
このような緊急事態は、歴史を振り返ると日本でもたびたび起こっていました。そのひとつが「明暦の大火(めいれきのたいか)」。江戸の町が6割も焼失してしまった、歴史的な大火事です。この緊急事態から江戸の人々は多くのことを学びました。その工夫は今の東京にも残されています。
明暦の大火の惨状
明暦の大火が起こったのは1657年、第4代将軍・徳川家綱の時代です。火事の火元や原因には諸説あります。中でも、供養のために寺で焼いていた振袖が風に乗り、飛ばされて火が広がったとする見方が有力です。このため「振袖火事」とも呼ばれています。
炎は瞬く間に広がりました。当時の江戸は多くの地域で木造家屋が密集し、防火施設も現代ほど整備されていなかったためです。
火は2日間にわたって燃え続け、死者は10万人に上るとも伝えられています。庶民の家はもちろん、江戸城の天守閣・本丸・二の丸まで焼失し、そのまま天守閣が再建されることはありませんでした。
大事件で沸き上がる「陰謀説」
大きな事件が起こると、にわかに「陰謀説」が湧き上がるものです。明暦の大火でもさまざまな憶測が生まれました。例えば以下のような噂が残されています。
慶安事件で処罰された、由井正雪(ゆいしょうせつ)の仲間による放火説 都市改造を狙う幕府の放火説 老中・阿部忠秋(あべ ただあき)の失火説 その他伝説とも言えるさまざまな噂
火元の真相はわかりませんが、幕府や時の権力者に「陰謀」を感じてしまうのは、いつの時代も変わらないようです。庶民の家から火が出たという可能性だってあるはずなのに、です。
明暦の大火が、今の東京をつくる
この大火事をきっかけに、幕府は大規模な都市改造を行いました。それは今の東京の街並みにも大きな影響を与えています。
広小路
広小路とは、文字通り道幅の広い道のこと。火事の延焼を防ぐため、明暦の大火を契機に設置されるようになりました。駅名にもなっている「上野広小路」のほか、両国・浅草・本郷などに設けられています。
広小路は建物の建造を禁止されていましたが、移動可能な芝居小屋などが集まるようになり、徐々に文化や娯楽が生まれる地へと変貌。そして、今の賑やかな大通りの姿となったのです。
両国橋
火の手が迫る中、多くの人々が向島(墨田区)方面へと逃げました。しかし隅田川が行く手を阻み、多くの人が命を落としたのです。
これをきっかけに、防衛面から隅田川に架ける橋は「千住大橋」以外認めなかった幕府が、「両国橋」を架けたのです。また、橋の対岸にある「回向院(えこういん)」は、明暦の大火で亡くなった人々を弔うために建立されたお寺です。
本所・深川
明暦の大火では、大名藩邸や旗本屋敷など、武士の住居も数多く焼けました。そのため多くの武家屋敷や寺社が「本所・深川」と呼ばれる地域に移転したのです。
東京下町の賑わいは、実は明暦の大火をきっかけに生まれたものだったのです。
困難を乗り越えたから、今の賑やかな東京がある
東京の6割が焼失してしまったら、私たちの生活はどうなってしまうのでしょう。考えたくもないことでしょうが、江戸の人々は大きな困難を乗り越えて、今の賑やかな東京の街並みをつくりました。
緊急事態の最中にいる時は、明日をも知れぬ恐怖と不安に包まれてしまうかもしれません。それでも江戸は復興し、長く平和な「江戸時代」と、東京という一大都市の礎を築いたのです。
今、世界中で外出禁止が叫ばれる中、新たな取り組みやライフスタイルが生まれつつあります。この困難を乗り越えれば、新たな世界の誕生に立ち会えるかもしれません。きっと、もう少しの辛抱です。
アイキャッチ画像:「江戸大火之図」国立国会図書館デジタルコレクションより
主な参考書籍:『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』『日本国語大辞典』『世界大百科事典』