SNSでは、「おうち時間」や「STAYHOME」などのハッシュタグとともに、ご贔屓店のおいしそうなテイクアウトをご紹介するひとが増えてきました。あれもおいしそう、これも食べてみたい、どんな状況下でも食欲だけは沸くものです。さてテイクアウトの定番といえば、今も昔もお弁当ではないでしょうか。楽しむためのお弁当が登場したのは、江戸時代中期ごろと言われています。花見や歌舞伎の幕間に弁当をほおばる江戸っ子の姿が浮世絵にも描かれています。江戸市民は、どんな風に弁当を楽しんだのか、お菜はなんだったのか、その味つけとは?など、気になってきませんか。江戸の味を受け継ぎ170年、老舗・日本橋弁松総本店の八代目樋口純一さんのお話しとともに、江戸の弁当を紐解いていきます。
江戸時代の“幕の内弁当”には玉子焼が入っていた?
そもそもお弁当は、外で食べるための携行食。昔から農作業や林業など仕事の合間に食べるものとして、日常的に携行食を必要とした人びとは、柳や竹の皮で編んだ行季など通気性を重視した容器にいれて持参していました。また戦国時代には、戦力を維持するものとして携行食は重要性を増していきます。戦国時代を回想した正徳3(1713)年刊行の『老人雑話』には、「安土にて出来し弁当というものあり」という記述がみられます。また慶長8(1603)年ごろ、イエズス会の宣教師たちによって編纂された『邦訳日葡辞書』には、弁当は「携行食」と「便利なもの」のふたつの意味で収載されています。
実用一辺倒な携行食からわくわく心躍る行楽弁当へと変わってきたのは、江戸の中期以降のこと。花見や潮干狩りなどの行楽や芝居の見物が盛んになり、江戸市民はそこにお弁当の楽しみを加えるようになります。天保8(1837)年より編纂の江戸風俗史『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、「芳町(日本橋人形町)の万久では『幕の内』の名で、握り飯や蒟蒻、焼き豆腐、芋、玉子焼をあわせたものを売っていた」とあります。お菜の定番の玉子焼は、江戸の弁当にも入っていたようです。この美味しそうな幕の内弁当は、芝居見物だけでなく、病気見舞いにも使われていたとか。気になる値段は、一人前100文。一杯16文の蕎麦ならば6杯分と考えると、なかなか高級なお弁当だったのではないでしょうか。
飯屋店主の心遣いから生まれた江戸の折詰弁当
日本橋には、江戸の味を受け継ぐ折詰弁当専門店・日本橋弁松総本店(以下、弁松)があります。江戸は文化7年(1810)年、日本橋魚河岸に一軒の飯屋が開店します。この町に暮らす妻をめとり、樋口与一がはじめた飯屋「樋口屋」です。魚市場をはじめとして、野菜や乾物などすべての食材が集まってきた日本橋は店をはじめるには格好の場所。魚河岸で働く男衆で樋口屋は、常に賑わっていたそう。料理を食べ切らずに席を立つ忙しい客が多かったため、残ったお菜を竹の皮などに包んで持ち帰らせたところ評判に。持ち帰りだけを注文する客も増えてきたそうです。
そこで嘉永3(1850)年、三代目・松次郎は弁当専門店へと商いを絞ります。また屋号を新たに弁松と改めました。この屋号、“弁”当屋の“松”次郎だから“弁松”と客が名づけた愛称だそう。弁松の八代目・樋口純一さんはこう言います。「初代の与一の心遣いではじまった弁当ですが、三代目のころにはお客さんも弁当屋として認識していたようですね」。
働く男たちが好んだ高カロリーで日持ちする濃い味
弁松の弁当は、甘辛く濃ゆぅい味(弁松語録)が特徴。代々受け継いだ味と言いますが、江戸時代から変わらぬお弁当だったのでしょうか。江戸時代の店の史料は残っていないと前置きしつつ、「働く男たち向けの食事処からはじまったために、お菜すべて醤油や砂糖をたっぷり入れた高カロリーの濃い味つけだったと思います。魚市場があるため魚の焼き物は入っていたでしょうし、弁当の定番な玉子焼や煮物など今とさほど変わらないのではないでしょうか」と樋口さんは語ります。
江戸の味といえば、江戸時代後期に急成長を遂げた関東醤油は欠くことができない存在です。江戸付近の醸造家は上方の薄口醤油を真似るのではなく、江戸市民の嗜好にあわせて醤油を改良。小麦を使い香りの高い関東の濃口醤油を生みだします。蕎麦や鰻など濃い味付けにぴしゃりとはまり、大江戸ならではの濃い味が誕生するのです。弁松では、関東醤油とともに当時は高価だった砂糖を惜しみなく使いました。江戸っ子ならではの見栄もあったでしょうが、弁当が日持ちするように腐敗を防ぐ砂糖をたっぷりと使っていたのでしょうね。
大久保利通の暗殺事件に登場する弁松の弁当
明治の頃に、弁松がいかに知られていたかを示す逸話があります。「大久保利通の暗殺事件『紀尾井坂の変』が起きたときに、いち早く行動したのが大久保を敬愛していた西郷隆盛の弟の西郷従道(さいごうじゅうどう・つぐみち)でした。突然の出来事に衝撃を受けたとはいえ、明治政界のリーダー・大久保邸へと大勢のひとが集まることを見越して、部下に弁松の料理150人前を手配させたそうです」。西郷従道の冷静でいて、細やかで温かな心遣いを感じるとともに、弁当といえばまず思いつく店であったことがよくわかります。ほかにも徳川御三家の使者が馬車でたびたび注文に訪れたことも。
煮物を煮て玉子を焼く、夜明け前からはじまる弁当づくり
明治期には仕出し中心と高級路線に走った弁松でしたが、昭和に足を踏み入れるころにはふたたび大衆むけの折詰弁当専門店へ。平成、令和と、職人たちが変わらぬ味を手掛けてきました。昔は店内の厨房で、今では江東区の工場で弁当はつくられています。毎日夜中2時ごろには職人が集まり調理がはじまります。「煮物や玉子焼は、もちろん毎日つくっています。お弁当の個数が変わることもありますが、詰めるところまで考えると2時ごろからはじめないと終わらない」。
調理が一番難しいのは、里芋や椎茸などの煮物。「素材ごとに煮ていくわけですが味をしみこませていくなかで、焦がさぬように上手く煮詰めていくのは経験がものを言います」。もちろん他もたやすいわけではありません。「今は魚の焼き物は、オーブンを使っています。ただし身の厚さや個数によっては時間や温度に微妙な調整が必要となります。香ばしい焦げ目や美しい照りの加減をはかるのはなかなか難しい」。時代がかわり技術が進んでも、弁松のものづくりは江戸のころとあまり変わりません。
ツイッターから宅配まで、今できることで商いを繋ぐ
今年創業170周年を迎える弁松。樋口さんが170周年記念にと、新たにはじめたのがツイッターによる弁松の宣伝や紹介です。2020年2月からスタートして50日も立たぬ間にフォロワーが5000人以上に!煮物や玉子焼の調理風景をツイートしたときの反応のよさには驚いたそう。「私が思っていた以上に若い人たちが弁松を応援してくれることを実感しました」。また職人の間でも意識が変わったと言います。「普段の仕事に多くの人が関心を持ってくださることは、職人にとってとても嬉しいこと。彼らのやりがいにもつながっています」。宣伝のつもりではじめたSNSは、弁松社員の士気も高めているようです。
4月から宅配プロジェクトにも参加。今はまだ不定期の実験段階はありますが、ようやく百貨店1日分ぐらいの売り上げが見えるようになったとか。「冷めてもおいしい弁当は、行楽地でも家でも変わらぬ味を楽しんでいただけます。自粛要請を受けて閉めている店舗は半数になりますが、この時期だからできることをしていきたい」と力強く語る樋口さん。
ごはんのお菜としてだけではなく、お酒にもあう甘辛な濃ゆぅい味で、江戸情緒を盛り上げてくれるお弁当。私自身も歌舞伎や相撲に出掛ける際、弁松のお弁当をよく買い求めていました。以前ならば、行楽や江戸的な遊びのおともにどうぞ、と締めくくったはず……。今は唯一無二の味を思い出して(仕事でご近所に出掛けた際にはテイクアウトして)、録りためた歌舞伎や相撲、落語で江戸気分を高める「STAYHOME」を過ごします。
日本橋弁松総本店
住所:東京都中央区日本橋室町1-10-7
電話番号:03-3279-2361
営業時間:9:30~15:00〔月~金〕
(電話予約時間:8:30~16:00〔月~金〕、8:30~13:00〔土・日・祝日〕)
定休日:土日祝
(*緊急事態宣言のため営業時間や休日は通常期間と異なる。2020年4月25日現在のデータ)
http://www.benmatsu.com/
弁松のツイッター(https://twitter.com/benmatsu1850)では、工場の様子、また宅配プロジェクトや休業情報など毎日発信中。