日本人ならだれもが1度は聞いたことのある「奥の細道(おくのほそみち)」。日本を代表する文学作品のひとつですが、この作品にはいくつか謎があります。今回は、「奥の細道」についてくわしく解説しながらその謎を紐解きます。
「奥の細道」とは? そのルートは?
江戸時代中期の俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)が弟子の河合曾良(かわいそら)とともに、日本各地を旅した俳諧紀行。元禄2(1689)年江戸深川を出発、みちのく(奥州・北陸)の名所・旧跡を巡り、9月に大垣に至るまで約150日間、全行程約600里(2400キロメートル)を歩いたといわれています。旅を愛した芭蕉は、そこで見た風景から多くの句を生み出しました。ちなみに、一般的には「奥の細道」という表記で使われていますが、原文では「おくのほそ道」となっています。
「奥の細道」の作者であり俳諧師・松尾芭蕉とは?
芭蕉は寛永21(1644)年に伊賀上野で生まれ、幼名は金作(きんさく)、元服後は宗房(むねふさ)と名乗り、出仕してから俳諧を学びます。20代を京都で過ごし、29歳で江戸に移りますが、治水工事の現場監督を務めた記録がある程度で、当時の生活ぶりは不明。30歳を過ぎて、憧れていた中国の李白(りはく)になぞらえた桃青(とうせい)と号し、37歳で後に芭蕉庵と呼ばれる深川の庵に転居します。庭に繁った芭蕉の風情を気に入って、俳号を「芭蕉」に変更。40歳を過ぎて「蕉風」と呼ばれる俳諧世界を確立して、ようやく俳聖と呼ばれるにいたります。芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのは46歳のとき。51歳で没していますから、かなり晩年になってからのことです。
ちなみに、当時は複数で行う俳諧という形式だけで、独立した形式の俳句はありませんでした。つまり、芭蕉は俳人ではなく、俳諧師というのが正しい呼び方です。
「奥の細道」の序文と芭蕉が旅に出た経緯
俳諧の主流が貞門(ていもん)派から談林(だんりん)派へと移る中で、芭蕉は俳諧師としての腕をあげ、41歳で転機を迎えます。芭蕉庵の焼失、故郷の実母の死、飢饉などの心痛が重なったことを契機に、残り少ない人生を考え、自分の俳諧の完成を目指して旅に出ることにしました。冒頭部分に「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年も又旅人也」(現代語訳/時は永遠の旅人で、人生は旅そのものである)とあるようにその決意が表れています。さらに、「古人も多く旅に死せるあり」と記され、芭蕉が尊敬していた西行法師や宗祇(そうぎ)、中国の李白(りはく)や杜甫(とほ)などと同じように、自分も旅に生き、旅で死にたいと…。まさに人生を賭けた旅でした。
東京・深川にある芭蕉庵史跡展望庭園には芭蕉像が。
芭蕉の同行者、河合曾良って何者?
芭蕉の同行者は最初、句づくりに長けた八十村路通(やそむらろつう)が予定されていました。しかし、旅の相棒として、路通の性格には問題が……。芭蕉は急遽、河合曾良(かわいそら)を抜擢したのです。曾良は俳句の腕前はさておき、神道や地理、全国の神社仏閣に詳しく、性格も几帳面。一緒に旅するのに最適の人物でした。曾良は訪問先にあらかじめ書簡を送り、芭蕉が行きたい場所、会いたい人、食べたいものなどを知らせ、手配も完璧。おかげで、旅はスムーズそのものでした。曾良なくして「奥の細道」は生まれなかったかもしれません。
「奥の細道」3つの名句と現代翻訳
五月雨の降り残してや光堂
この寺が建てられてから、五百年にわたって毎年降り続いてきた五月雨も、さすがにこの光堂(金色堂)だけは遠慮して降り残したのだろうか。今でも光堂は昔のままに燦然と輝き、かつての栄光をしのばせている。
卯の花に兼房見ゆる白(しら)毛(が)かな(曾良)
真っ白く咲き乱れている卯の花を眺めていると、その中から、義経悲劇の最期を飾った武将、兼房が白髪を振り乱して奮戦した姿が彷彿とまぶたに浮かんでくる。真っ白に振り乱した彼のあの白髪が……。
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
高館に立って見てみると、あたりはただ夏草が生い茂っているだけ。ここは昔、義経以下の有志たちが功名を夢見て奮戦した場所であるが、それも夢と消えてしまった。目の前にぼうぼうと繁った夏草に、人生の興亡の姿を見る思いがする。
「奥の細道」5つの謎
その1 「奥の細道」は紀行文じゃない?!
松尾芭蕉にはいくつもの謎や誤認があります。まず、「奥の細道」が紀行文だと思われている人が多いようですが、それは間違いです。芭蕉がみちのくへ旅したのは、元禄2(1689)年の春から秋。その後、3年以上も推敲に費やして「奥の細道」を発表しています。旅の経緯は、「曾良の旅日記」に詳細に書かれていて、ルートをはじめ、宿泊地や情景の描写、人の名前、天候など、事実とは異なることがいくつも。
たとえば、人里離れた道を行き、宿泊に苦労したというのも、実はストーリーを盛り上げるための脚色がほとんど。さらに、連句の発句として当初「五月雨を集めて涼し最上川」と詠んだのが、「早し」に改められている点など、句に変更があったこともわかっています。このように、「奥の細道」は実際に旅した順序どおりに書かれた紀行文ではなく、構成を練りに練った文芸作品、すなわちフィクションだったのです。
『芭蕉文集』 小林風徳編 山寺芭蕉記念館蔵
その2 なぜ芭蕉はみちのくへ旅に出たのか?
伊賀上野という関西文化圏で育った芭蕉にとって、みちのくははるか彼方の「未知の国」。人生50年の江戸時代に、40代半ばで旅に出るというのは、死ぬまでに夢を叶えたいという一心からでした。その夢とは、芭蕉が尊敬する歌人や連歌師が詠んだ「歌枕(名所)」を訪ねること。みちのくは万葉時代からの歌枕の宝庫であり、名歌に登場する歌枕を、自分の目で見て確かめたいという欲求に突き動かされたのです。みちのくの旅のあと、芭蕉は九州の旅を予定しますが、大坂で倒れ、51歳で死亡。有名な辞世の句、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」のとおり、芭蕉は死しても旅に思いを馳せ、俳諧を追い求めてやまなかったのです。
その3 芭蕉忍者説は本当?
伊賀上野という忍者のふるさと出身というのが、芭蕉忍者説の発端。さらに、140日間で600里(2500㎞)、一日平均60㎞の歩行距離も疑われる要因でしょう。伊達藩を偵察する公儀隠密説というのもありますが、現在までに忍者や公儀隠密であったことを裏付けるものはありません。結局、芭蕉は健脚であったというだけで、忍者説は想像の域を出ません。ちなみに、曾良は「奥の細道」のあとで幕府の調査団に入ったことから、曾良忍者説がありますが、これもまゆつば物です。
その4 「奥の細道」の旅の費用はいくらぐらいかかった?
旅費についてくわしい記録はありませんが、「曾良の旅日記」の記述から推測すると、全行程で約100万円超というところ。曾良があらかじめ旅先の有力者に連絡しておいたおかげで、芭蕉は各地で歓待され、費用が節約できたようです。「奥の細道」を読むと、貧乏旅との印象を受けますが、それは脚色。実はゆとりある旅を楽しんでいたようです。
その5 芭蕉はグルメだった?!
「奥の細道」にはほとんど記されていませんが、「曾良の旅日記」には芭蕉の食事についての記録がいくつもあります。そこには酒、そば(そば切り)、うどんの順に記述が多く、芭蕉の好みと一致していると思われます。また、ウリなどの果物も好んだことも書かれています。それもこれも、曾良の手配のおかげ。各地の有力者が用意しておいた食事は、どれも当時貴重品とされたものばかり。芭蕉の「奥の細道」はグルメ旅だったといってもいいでしょう。
ー「和樂」2006年8月号より再編集ー
取材協力/石寒太
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