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葛飾応為。北斎の娘は、父を超える美人画の名手!

北斎の画業を支え続け、才能を受け継いだ三女の応為。その人生がTVドラマにもなり、今注目を集めています。性格も才能も父親ゆずりの「おんな北斎」が描いた、繊細で妖艶な美人画とは?
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2017年10・11月号では、葛飾北斎の壮絶人生約70年を、AからZまでの26字をキーワードにご紹介しています。技や作品だけでなく、浮世絵の秘密や、世界に与えた影響まで。北斎のすべてにとどまらず、アートの深みまでも味わうことができます。

今回は【O】の「応為」と、【U】の「歌麿」をピックアップ。

北斎も認めた美人画の名手、三女の応為

応為は葛飾北斎の三女の画号。いつも「おーい!」と呼びかけていたことから北斎がつけたという説があり、名前は栄とも阿栄とも記されていて、口の悪い北斎はその容貌から「アゴ」と呼んでいたといいます。

応為も一度は絵師のもとに嫁ぎますが、小事にこだわらず、衣服や食事も気にしないで、思ったことをすぐ口にしてしまうという父親ゆずりの性格で、夫の絵が自分よりもつたないことを指さして笑ったことから、三行半を突き付けられる始末。実家に出戻った応為は、北斎が息を引き取るその時まで面倒を見て、画業を助けたことが知られています。

葛飾応為「吉原格子先之図」紙本着色一幅 天保後期~嘉永7(1840~54)年ごろ 太田記念美術館

この応為こそ、北斎から絵師の才能を受け継いだ唯一の後継者であり、北斎をして「余の美人画は、阿栄におよばざるなり」と言わしめたほどの力量の持ち主でした。

「吉原格子先之図」のように陰影の強い作風には西洋画の影響が指摘されていて、「江戸のレンブラント」と呼ぶ向きもあります。しかし、北斎没後の記録はなく、応為が描いたことが確認されている現存作品は世界で10点ほど。そんなことから、応為はいまだに、謎に包まれた女浮世絵師とされているのです。

北斎と同時代のカリスマ絵師、喜多川歌麿

浮世絵が最も人気を博していたのは、江戸時代も後期にさしかかった寛政から文化・文政時代にかけてのこと。その時代をリードしたのが宝暦3(1753)年生まれの喜多川歌麿。北斎より7歳年上の実力派・浮世絵師です。

生まれも育ちも未詳の歌麿は、町絵師・鳥山石燕に弟子入りして浮世絵のイロハを教わり、23歳のころに北川豊章の名で浮世絵師としてデビュー。30歳を過ぎたころから喜多川歌麿を名乗り、狂歌絵本などで名を上げていきます。

喜多川歌麿「ポッピンを吹く娘」大判錦絵 寛政(1789~1801年)前期 写真提供/Alamy(PPS通信社)

その後、新興の版元であった蔦屋重三郎と出会ったことで、歌麿の画業は急展開を見せます。40歳のころに、それまでは役者絵にしか用いられていなかったバストアップの大首絵を美人画に採用し、光沢のある雲母摺やエンボス加工の空摺、背景を無地にする地潰しなどの技術を駆使して、美人大首絵は大ヒットします。

同じ時期に宗理様式の美人画を発表した北斎も、超人気絵師・歌麿の影響を受けていました。しかし、好事魔多しというように、歌麿は寛政の改革による風紀粛正を目ざしていた幕府に目をつけられており、52歳のころに筆禍事件を起こして手鎖50日の刑に服し、受刑後は創作意欲を失って54歳で病没。当時47歳の北斎は、絵手本に熱中。絵師としての地歩を固めていたころにあたります。

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