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2019.10.22

え!ブロマイドだったの?みんな持ってた歌麿の浮世絵が可愛すぎ!

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狩野派の門人や俳諧師に師事した町絵師より絵を習い、狂歌絵本で浮世絵師として名を成した喜多川歌麿。版元・蔦屋重三郎と出会い、美人大首絵を確立したことで第一人者となりました。今回は、そんな歌麿の美人画を徹底解剖。和樂webでも何度も取り上げてきましたが、実はまだまだ隠されてきた秘密がいっぱいあるのです。

1.美人大首絵で一世を風靡

浮世絵の祖とされる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の代表作が「見返り美人図」であるように、浮世絵には美人画というジャンルが最初から確立されていました。初期の美人画はいずれも全身が描かれていたのですが、歌麿は役者絵などに用いられていた大首絵(おおくびえ)の手法を取り入れ、上半身アップで顔に目が行く美人大首絵を考案。このアイディアが浮世絵の支持層であった江戸町民に大受けして、歌麿は瞬く間に人気絵師のトップに躍り出ます。

歌麿は単に構図を変えただけでなく、髪の毛の一本一本を丁寧に描き、地色の背景に雲母摺(きらずり)を用いたほかにも、空摺(エンボス加工)や無地の地潰しなどの技法を駆使して、作品としての美しさを追求。一世を風靡するほどの人気を獲得しました。

歌麿喜多川歌麿「歌撰恋之部 物思恋」大判錦絵 寛政5〜6(1793〜1794)年ごろ 写真提供/PPS通信社(Bridgeman Images)

美人大首絵の魅力を最もよく表したバストアップの構図は、歌麿が考案した技法の宝庫。繊細に描かれた髪の流れやきものの小紋のほか、顔と手の大きさがアンバランスながら、物憂げな様子を表しているのも見どころです。

2.実はブロマイドだった美人画

浮世絵が江戸時代に大人気を博した理由は、悪所(あくしょ)と呼ばれた遊里(ゆうり)や芝居町が主に描かれていたことがあげられます。悪所は庶民にとって簡単に足を踏み入れることができない世界で、そこで活躍する遊女や役者の絵は、まさに庶民にとって憧れの的。現代のアイドルのブロマイドやポスターとまったく同じ感覚だったのです。

歌麿
喜多川歌麿「青楼仁和嘉女芸者之部 浅妻船 扇売 歌枕」大判錦絵 寛政5(1793)年 写真提供/PPS通信社(Bridgeman Images)

青楼とは吉原のことで、吉原では様々な行事の際に芸者が好きな扮装をして郭の中を練り歩いていました。上の作品は、吉原俄における当時の売れっ子芸者3人が、若衆の扮装をしているところがポイントです。

美人画のモデルは遊女のほかに、寺社の境内や道ばたに店を構えていた水茶屋の看板娘にまで広がり、プロモーション的な意味合いももつようになります。そこに登場した歌麿の美人大首絵は、なかなかお目にかかることができない評判の美人が、艶っぽい様子で描かれていたことから男たちは熱狂し、モデルにも好評だったといいます。

歌麿喜多川歌麿「難波屋おきた」大判錦絵 寛政5(1793)年 山口県立萩美術館・浦上記念館

浅草観音の境内にあった水茶屋「難波屋」の看板娘おきたは、歌麿の美人画に最も多くモデルとして描かれた娘です。中でも本作は、歌麿の最充実期のもので、表情や仕草、きもの柄の描写まで、一分の隙もないほど。

3.浮世絵は流行の発信地

浮世絵制作に携わっていた者たちにとって、錦絵の販売数は最も気になるところ。少しでも多く売れることを狙って、それぞれが常に工夫を凝らし、それによって浮世絵の技法は長足の進歩を遂げました。

歌麿喜多川歌麿「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」大判錦絵 江戸時代(18世紀) 写真提供/PPS通信社(Alamy)

歌麿も浮世絵の技法を極めたひとりで、髪の毛の流れを繊細に描いた「毛割」や雲母摺を取り入れ、独自の美を追求したのです。さらに、流行という、今も昔も変わらない女性の興味を満たすため、髪型からきものの柄、組み合わせ方などを研究するだけでなく、ポッピンという最新のインポート・グッズをいち早く絵に導入。女性向けのファッション・メディアという役割も果たしていました。そんな背景を知ると、浮世絵はもっと身近に感じられてくるのでは。

4.美人画を拡大写真で見てみると…

ポッピンを吹く娘「ポッピンを吹く娘」で、流行を意識していたのがこの4か所。錦絵としての美しさもまた、歌麿人気を後押ししていた。右上は髪の毛の流れを繊細に描く「毛割」。下の2枚は帯ときものの柄。