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Keyword6「大典顕常」
厚い友情で結ばれた唯一無二の理解者
30代の半ば、相国寺の僧である大典顕常(だいてんけんじょう)と出会ったことで、その後の若冲の人生は大きく飛躍することになります。若冲より3歳年下で、京都屈指の知識人であった大典は、若冲の絵画の最大の理解者となり、生涯の友になりました。大典の詩文集『小雲棲稿(しょううんせいこう)』巻8に収められた「藤景和画記(とうけいわがのき)」と、大典が書いた、若冲の寿蔵(生前につくる墓)に刻まれた銘文「斗米庵若冲居士寿蔵碣銘(とべいあんじゃくちゅうこじじゅぞうけつめい)」は、若冲の生涯や人となりを知ることができる貴重な史料です。親しい間柄だったからか、大典の教養と文才ゆえか、若冲のことを理想的に記したと思われる箇所も見受けられます。
Keyword7「景和」
名は汝鈞、字は景和
若冲は、汝鈞(じょきん)という名をもち、成人後につける名前である字は景和(けいわ)といいました。江戸時代、教養のある人は姓を中国風に一字にして示す慣習があり、伊藤は藤に。初期の作品『雪中雄鶏図(せっちゅうゆうけいず)』(細見美術館)には「景和」の署名が。
Keyword8「大盈は冲しきが若し」
大典が名づけた!? 若冲という号
若冲という号は「大盈(だいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも其(そ)の用は窮(きわ)まらず」という老子の言葉がもとになりました。「大きく満ちたものは空虚に見えるが、その働きは尽きることがない」の意味で、大典が名づけたともいわれます。
Keyword9「禅」
絵画と仏教とが併行する人生
若冲は絵画とともに仏教、特に禅に傾倒しました。実家の伊藤家は浄土宗徒なので、何歳のころから禅が身近になったのかは定かではありませんが、禅僧である大典との出会いが影響したことは想像にかたくありません。在家のまま仏門に帰依(きえ)する男子には、居士の称号が与えられます。37歳の作品『松樹番鶏図』以降は「若冲居士」と記す落款(らっかん)や印章がある絵画が多く見られます。若冲にとっては仏画を描くような敬虔な気持ちで向き合った作品も多かったと思われます。
Keyword10「宝暦5年」
家督を弟に譲り、画業に専念
若冲にとって最大のエポックとなった年が、宝暦5(1755)年です。40歳のときに弟・宗巌(そうごん)に家督(かとく)を譲り、名前は茂右衛門(もえもん)に。俗世の生活を捨てて、仏門に入るかのように、画業に専念することを決めました。
Profile いとうじゃくちゅう
正徳6(1716)年、京都・錦市場の青物問屋「桝屋」の長男として生まれる。4代目当主となるが、40歳のときに家督を次弟に譲り、画業に専念。『動植綵絵』をはじめ、圧倒的な画力で作品を次々と発表し、京都屈指の人気絵師となる。寛政12(1800)年、85歳で没。
※本記事は雑誌『和樂(2021年10・11月号)』の転載です。構成/高橋亜弥子、後藤淳美(本誌)