水墨画の楽しみ方、はじめの一歩
鉛筆やボールペンで紙に文字を書く場合には、一定の圧力で手を紙のうえで動かし、その動きのとおりに紙の上に細い線がつきますね。一方、筆と墨を使って和紙に文字を書くと、変化に富んだ線を引くことができます。
ここで、小学校の書道の時間にタイムスリップ! 筆を手に持って、墨をつけ、和紙の上に描くという一連の動作を思い起こしてみてください。
ふさふさとした筆の穂を墨に浸すと、墨がじんわりと染みこんで、筆先が少し重くなります。墨を含ませた筆を和紙の上に置くと、柔らかく、すこし沈み込むような感じがして、あっという間に、墨が和紙に染みこんでいきます。
筆を動かすと黒い線がくっきりとつき、その周囲にも少し染みこんで広がっていきます。穂先だけを和紙につけて速く動かせば細い線になり、筆を倒してゆっくり動かせば太い線になります。描き始めは筆に含まれている墨が多いのでにじみやすく、書き続けるとだんだんとかすれていきます。また、筆を紙に軽く押しつけたり、勢いよく跳ね上げたり、徐々に浮かせて線を細くしたりと、筆の動かし方によってさまざまな線を引くことができます。

こうした感覚は、鉛筆では得られないものであり、筆と墨ならでは。そして水墨画は、このような多様な筆の動き、墨のにじみ、かすれによる線の表現を、自由かつ大胆に発展させてきた、東アジア特有の芸術です。
そして、水墨画を鑑賞するときにも、上述のような筆を動かしたときの感覚を知っていることが、大きなカギになります。
まずは一幅、有名作品をじっくり味わおう!
ここで日本の初期水墨画の名品《蜆子和尚図》を一緒に鑑賞してみましょう。

画面右下に押されている赤い印から、作者は可翁仁賀(かおうにんが)とされます。14世紀前半に活躍した禅僧ともいわれますが、詳しい伝記はわかっていません。
この絵には何が描かれているのでしょう。
老人が左手で網を持ち、右の指でエビをつまみ上げていますね。口角が上がっており、にっこりと嬉しそうな様子。この老人は、中国・唐時代末、9世紀頃の伝説の禅僧、蜆子和尚です。いつも同じ衣を着て、川辺でシジミやエビをとって食べる放浪生活を送っていたといわれ、その質素で自由な生き方のなかに、仏教の禅宗の真理や悟りが隠されていると考えられてきました。
そうした場面描写、ストーリー性を読み取るのと同時に、この絵から受け取る情報がほかにもたくさんありませんか? それが、先ほどご紹介した、多様な墨の線です。
まず、顔や手足は、濃く細い線でくっきりと描かれています。とはいえ、線の調子は一定ではなく、少し太くなったり、濃くなったり、途切れたりもしています。絵師は細い筆を使い、穂先を紙に滑らせるようにしてリズミカルに描いたのでしょう。
一方で、服は、薄い墨を使い、太い筆を少し横に倒して持って、素早く動かして描いています。じっくりと線をたどりながら見ていくと、筆を軽く紙に押し付けたり、少しずつ持ち上げたり、勢いよくはらったりしたことが感じ取れます。
この水墨画は、こうした多様な線から織りなされているのです。それにより私たち鑑賞者は、蜆子和尚のいきいきとした表情や動き、温かみのある存在感、周囲の自然の風や光といったものまで味わうことができます。
蜆子和尚の衣の線は、単なる輪郭線でもなければ、衣の立体感を表しているわけでもありません。線そのものの美しさを味わうものです。鑑賞者に、筆と墨を使って和紙に書いた(もしくは描いた)豊富な経験があれば、こうした線を見ているだけで、絵師がどこからどこへ向かって、どのくらいの強さ、速さで筆を動かしたのかを、感覚的に理解できます。絵は目で見るものですが、同時に体でも追体験できるわけです。
こうした感覚は伝統的に、東アジアの人々に特有のものでした。現代の私たちは、鉛筆やボールペンで書くどころか、主にキーボードやタッチパネルを使う生活になっていますが、近世の日本人は墨と筆を日常的に使っていたため、そうした筆の動きを想像しやすかったはずです。
このように、東洋の芸術である水墨画には古来、描かれているテーマと墨の線を同時に味わうという特性があったわけですが、その特異性をさらに理解するために、西洋画と比較してみましょう。
西洋の名画と比較すると、水墨画の魅力が見えてくる
西洋絵画には長らく、筆跡が残らないように描こうとする伝統がありました。イタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチが世に残した、16世紀の名画《モナ・リザ》は、たっぷりの油で溶いた絵の具をごく薄く塗り重ねる、「スフマート」の技法で描かれています。鑑賞者は、絵からダ・ヴィンチの筆の動きを読み取ることなく、描かれたモナ・リザを、なかばリアルな存在として捉え、ふっくらとした肌、ふんわりとした髪の毛の質感まで感じ取ります。
こうした西洋絵画の伝統を大きく塗り替えたのが、日本美術、とりわけ浮世絵の影響を大きく受けた、19世紀フランスの、モネやルノワールら印象派の画家たちでした。彼らは、絵の具をチューブから出して、絵の具同士を混ぜずに、澄んだ色のまま、画面の上に並べるように描きました。「筆触分割(ひっしょくぶんかつ)」と呼ばれる技法です。

モネの連作《睡蓮》をじっくりと見ると、さまざまな色の短い線が並んでいることがわかります。私たち鑑賞者は、目の中でこうした色を無意識に混ぜ合わせるようにして、全体の風景として眺めているのです。
筆の動きをあえて見せる描き方は、東洋の水墨画では当たり前だったわけですが、西洋では印象派に始まったのです。やがて、スーラやシニャックによる点描技法が生まれ、20世紀中盤には、ジャクソン・ポロックやリー・クラズナーによるアクションペインティングへと展開しました。これは、カンバスの上で絵の具が流れたり飛び散ったりした軌跡をそのまま残すことで、画家の身体の動きそのものを、鑑賞者に視覚的に感じさせる表現手法です。
こうして比較してみると、東アジアに特有の水墨画の魅力に、改めて興味を持たれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。次回もまた、水墨画の魅力を掘り下げてご紹介できればと思います。
アイキャッチ画像:国宝 松林図屏風 左隻 長谷川等伯筆 安土桃山時代・16世紀 紙本墨画 縦156.8 横356.0 東京国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

