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2020.10.21

イギリス人技師がその技量に驚愕!金工師・加納夏雄と明治の貨幣物語

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うん、人間の作ったものじゃないよね。

明治工芸の超絶技巧を見ると、本気でそう言いたくなる。
今にも動き出しそうな生き物の造形物(なんか関節がうにょうにょ動かせる金属製の置物もあるし)、くらくらするほど細密華麗な表現……どこをどうすれば、こんなとんでもないクオリティが出せるのだろう……。

そう思うのは無学者のあきみずに限らないらしく、令和の時代もこれらの作品は世界の人々を魅了し続けている。作品を眺める人々の口からは、おとしめる意図ではなく、こんな言葉がため息とともに漏れる。

イッツ ソー クレイジー……。

そして、明治期に作られた、とある貨幣にもまた、そんなソークレイジーな物語がてんこ盛りになっていたのである。

その名は加納夏雄

加納夏雄(かのうなつお)。金工ファンにとって彼は、野球における王・長嶋、といった意味を持つらしい。夏雄、の名前を出すだけで、パブロフの犬よろしく目の色が変わる。いやだって、夏雄なんて憧れの憧れで、手に入れようとしたってコレクターがまず手放さないし、そもそもお値段が……うんぬん。ふむ、さようか。

そんな熱風を浴びせられて香ばしく焼け焦げた後、にわかに夏雄が気になりはじめた。
そして知ったのだ、明治金工・加納夏雄の恐るべきエピソードを。

夏雄、地上に下ろされる

夏雄がこの世に生を受けたのは、黒船来航に湧く幕末――より少し前の文政11(1828)年である。漫画や小説・ドラマなどで圧倒的人気を誇る新選組の、近藤勇の6つ年上、土方歳三の7つ年上、沖田総司の14か16(2つ説があるため)年上である。

夏雄は京都御池通柳馬場の米穀商・伏見家の子として生まれたが、7歳で養子に出される。

群鷺図(ぐんろず)額(部分)。明治26年(1893)のシカゴ・コロンブス世界博覧会で、金属による絵画表現を試みたとして高い評価を得た夏雄の作。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)より加工使用

養子先は、刀剣商・播磨屋(はりまや)加納治助(かのう じすけ)。これが夏雄の素質を大きく開花させるきっかけとなった。
名を治三郎(じさぶろう)と改めた夏雄(※記事内では夏雄で統一)は、商売道具である刀剣の、特に金具に心惹かれていき、養父治助も目をみはるほどの鑑識眼を持つようになる。

やがて夏雄は自ら鏨(たがね)を持って製作に打ち込みはじめた。その非凡な才能を認めた治助は、奥村庄八(おくむら しょうはち)のもとへ本格的な技術を習いに行かせることを決意した。

夏雄、名金工養成ギプスを自らはめる

庄八のもとで金工の基本を学んだ夏雄は、名金工・大月派(おおつきは)の池田孝寿(いけだ たかとし)の門を叩く。そして夜間は四条円山派(しじょうまるやまは)の巨匠・中島来章(なかじま らいしょう)に絵を、朝には和歌や学術を儒学者・谷森善臣(たにもり よしおみ/後に種松[たねまつ]と改名)に学ぶなど、貪欲に知識と技術を身につけていった。

一輪牡丹図鐔。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)より加工使用

金工のみならず、絵や学問を学んだことが、後の夏雄の作風に多大な影響を及ぼしたといわれる。
なお、夏雄に並々ならぬ絵の才能を認めた来章は絵師の道を勧めたが、夏雄は養母(この頃には養父・治助は死去していた)への孝行のために金工の道を選ぶことにしたのだという。

なんだか、天は二物も三物もを、夏雄に与えたように思える。うらやまけしからん。ま、天は自ら助くる者を助く、といったところか。

夏雄、「温故知新」を地で行く

19の年、夏雄は京都で独立開業を果たす。自宅の2階に籠り、古来の金工名作を模造したり、円山応挙(まるやまおうきょ)や呉春(ごしゅん)の絵に学んだり、古名作をアレンジして独自のデザインを生み出したりと、大いに学び、楽しみ、また高評価も得ていった。

努力を努力だと感じた時点で、それは苦痛であって無理をしている状態なのだ、本当にやりたいことというのは、楽しいから、楽しむためにどこまでも突き進んでいくのだ、という格言(?)を耳にしたことがあるが、まさに夏雄は「楽しむために楽しんでいた」のではないかと思えてくる。
努力? 別にしてませんよ、みたいな成功者のコメントは、あれは別にスカしてカッコつけているわけではなくて、本人にしてみればそれが偽らざる実感なのかもしれない。知らんけど。

夏雄、悲喜こもごもの江戸へゆく

25か27の年(記録によって差異あり)、夏雄は新天地を求めて京から江戸へ下る。このころか、この数年前に、夏雄は正式に「夏雄」の名を使用しはじめたとされるのだが、こうした類の「数年のずれ」が資料にいくつも存在しているというのが、なんというかエモい。

江戸に着いた夏雄は、名手と謳われる金工師たちのもとへ出向き、批判を請うた。このうちの1人、東龍斎清寿(とうりゅうさいきよとし)は、夏雄の抜きん出た技術のみならず、その礼儀正しく驕らぬ立ち居振る舞いに感服して、傍らの弟子に「末恐ろしい男が出てきた」と呟いたという。なんなの、このスポ根マンガ展開。

ちなみに清寿の作品、動物たちがちょっとおマヌケな表情をしていたり、おいキミ鐔(つば/刀の手元にはめられている丸っこい金具)の裏側で何やってんのさ、というのがあったりと、実にユニークで見ていてハッピーになる。いつか拙宅にお招きしたいものだが、果たしてご縁があるだろうか。

東龍斎清寿『枝垂柳猿猴透鐔(しだれやなぎえんこうすかしつば)』。猿の体が透かしで表現されているのが実に洒落ている。これも裏側に粋な仕掛けが施されているので、ぜひご覧いただきたいcolbase 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)より加工使用

しかし、この頃の江戸には金工の大家が犇めいて(※この漢字の読みと言葉の由来はこちら!)いた。この煽(あお)りを受けたのか、夏雄はしばらく日々の糧にも困窮する有様となる。

ようやく注文が入りはじめた矢先の安政2(1855)年2月、夏雄は安政の大地震に遭遇する。成田参詣へ出発しようとしていた夏雄は提灯を手にして屋外にいたのだが、暗闇で困っている人々に火を分け与えるその姿は後に、「この道の大家となり、灯明台(とうみょうだい/=灯台、燭台)となる前兆であったのだ」と語り草になったという。

夏雄、イギリス人技術者に、俺ら出る幕なくね? と言われる

大地震で家を失った夏雄は、周囲の助けによって2カ月後、新居を構えた。
その後は順調に名声が高まり、店も繁盛していき、夏雄は確固たる地位を築いていく。

そして徳川幕府解体と新政府樹立を経た明治2(1869)年、いよいよ夏雄の痛快劇が開幕するのだ。って、もうここまででも充分すぎるくらいに痛快劇なのだろうが。

宮内省より天皇御太刀の金具製作を命じられたのに続き、明治政府に新通貨の図案作成を依頼されたのである。夏雄は弟子たちとともに古今の資料を収集・検討し、官僚らとも合議を重ねて、翌明治3(1870)年に原型を完成させた。

開基勝宝金銭(模造)加納夏雄彫刻・名越弥五郎鋳造 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)より加工使用

政府は高度な技術を持つ欧米の職人たちを招いており、当初、夏雄の仕事は原型までとのことだった。
しかし、この原型を目にしたイギリス人オートルスはこう告げた。「日本国内にこれだけの技術を持つ者がいるならば、我々は欧州式の製造方法を伝授するだけでよい」。

かくして夏雄は新貨幣12種における製作工程すべてに携わることとなり、製造方法の教授に訪れたイギリス人ミヤルドも、夏雄の担当する箇所には一言も口を挟むことはなかったという。
しかし、この時に目にした欧風の技術が、夏雄を更なる高みへと導くことになるのである。

夏雄の手彫りによる試作品の画像が『夏雄大鑑』に掲載されているのだが、なるほどこれはぞくぞくする。
実際に流通した明治貨幣も、現在ではプレミアムがついて高騰しているようだが、こうしたエピソードを聞くと、そのものの価値に加えてロマンも上乗せされて、ぞっくぞくする。

夏雄、明治天皇御剣の拵金具を作る

明治5(1872)年、夏雄はまたも大きな仕事の依頼を受ける。
明治天皇御剣の金具製作を命じられたのだ。現在、「水龍剣(すいりゅうけん)」として知られる、東京国立博物館の所蔵品が、それである。

水龍剣拵。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)より加工使用

聖武天皇御剣として正倉院に伝来していた直刀を、明治天皇がいたく気に入り、新たな拵(こしらえ)を製作して佩刀(はいとう)とされたのだが、その際、夏雄に白羽の矢が立ったのだった。

ちなみに、ゲームの必殺技みたいな「水龍剣」の名も、夏雄が製作した水龍文金具に由来する。夏雄、もはや無双である。
ただ、実は龍や獅子は苦手だったようで、夏雄によるこれらの作品は非常に稀なのだそうだ。苦手な意匠を天皇御剣として依頼される夏雄、どんだけ~、である。とはいえ、前項の貨幣の意匠にも龍があしらわれており、あくまでも「夏雄の中で」苦手、ということなのだろう。
夏雄はこの後も御太刀製作に携わっている。

明治22(1889)年に東京美術学校(現・東京藝術大学)が開校されると、夏雄は彫金科教授となり、翌明治23(1890)年に帝室技芸員制度が設けられると、他分野の数名とともに初の技芸員に選出される。
廃刀令が敷かれて久しかったこの時代には、もはや刀剣金具の需要はなく、名工夏雄にしても例外ではなかった。以降は宮内省依頼の御太刀製作を除き、花瓶や置物、香合や根付などを主に製作していくこととなった。

明治31(1898)年、夏雄は71年(※数え年)の生涯を閉じる。この世を去る2、3日前、この病が治ったら、改めて過去の偉大な金工作品に学ぼうと思う、と高弟に語ったという。

夏雄の作風

初めて実物に相対したときに感じた夏雄作品の印象は、「現代的スタイリッシュさを持ち、かつ、伝統的美意識を受け継いだ、かっちょええ金工作品」だった。それが正しいのかどうかは分からないが、従来の技法を用いながらも、どこか海の彼方の風を感じたのである。もしその感覚が正しいのだとすれば、それは夏雄の生きた幕末から明治という時代の一端を、肌で感じられる作品群ということなのかもしれない。

月に雁図額。夏雄最後の作品。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)より加工使用

技術的な面での夏雄作品最大の見どころは、「片切彫(かたきりぼり)」という技法である。これは片方を垂直に深く掘り下げ、次第に浅くなっていく形状で線を彫っていくものだ。横から断面を見ると彫った線が直角三角形に見えるのだが、描く線の内側を深くするか、外側を深くするか、2通りの方法がある。夏雄はこの両方ともを使いこなして新たな境地を見出した人物であった。

夏雄の人柄

せっかくだから、夏雄のお人柄についても触れてみよう。

吉田輝三・池田末松『加納夏雄名品集』(雄山閣出版)によると、夏雄は実直で探求心旺盛だが寛容で、人と争うことはせず、弟子の言うことも無下にせず、何事も軽率に扱うことがなかったという。押しも押されもせぬ大家でありながら、尊大さは微塵もなく、他者の作をけなすこともなく、技術と目を養うことを常に怠らなかった。

高弟・海野勝珉(うんのしょうみん)の作品を目にして、「この手の細工では、もはや勝珉君に敵わないよ」と言ったというエピソードまで残されている。これを口にしたとき、夏雄は何を思っていたのだろう。
そして勝珉もまた、金工史にその名を刻む名工となったのである。

わだば、夏雄になる

天才的な技術と、非の打ち所がない性格と。
できすぎている。出木杉君だ。『ドラえもん』の出木杉君のモデルは絶対夏雄だ(そんな事実はない)。実に実に、うらやまけしからん。

しかし、やっぱり憧れるのである。圧倒的実力を持ちながらも、それを鼻にかけることなく、謙虚で周囲への気遣いも忘れない。サウイフモノニ、ワタシハナリタイ。

うん、わだば、夏雄になる!
――世界はそれを高望みと呼ぶんだぜ……。

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アイキャッチ画像:開基勝宝金銭(模造)加納夏雄彫刻・名越弥五郎鋳造 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)より加工使用

書いた人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。