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2020.07.16

杉原千畝「命のビザ」を受け継いだ人々。根井三郎の生涯や功績・性格・発給ビザ画像も紹介

この記事を書いた人

2020年6月上旬、新聞各社に「もう一つの『命のビザ』」と書かれた記事が紹介されました。ユダヤ人難民救出のために、独断で「命のビザ」を発給した外交官・杉原千畝(すぎはらちうね)。実は彼以外にも尽力した外交官がいて、本人発給のビザが発見されたとのこと。名前は、根井三郎(ねいさぶろう)。学生時代は、杉原千畝の後輩でした。

外務省留学生として、日露協会学校へ

根井三郎の出生地、宮崎県宮崎市にある、「根井三郎を顕彰する会」。今回は、2019年3月2日に開催された、会主催の講演会の資料を元に、彼の生涯を見ていきます。

1902(明治35)年3月18日、宮崎県宮崎郡廣瀬村(現宮崎県宮崎市佐土原町)で生まれた根井三郎。ちなみに2年前の1900年、杉原千畝は生まれています。
1921(大正10)年3月、長崎県立大村中学校を卒業。4月に外務省留学生試験に合格し、6月留学生として、ハルビンの日露協会学校に入学しました。

宮崎県の日向灘

杉原千畝も通った、日露協会学校とは?

1919(大正8)年、満州鉄道初代総裁や東京市長を務めた後藤新平の提言により、日露協会学校が創設されました。文部省令に基づく、外国語専門学校です。ロシア革命後、日露をつなぐ人材育成を目的にし、「人のおせわにならぬやう、人のお世話をするやう、そしてむくいをもとめぬやう」の自治三訣を理念としていました。
杉原千畝はこの学校の1期生で、根井は2期生でした。
2人ともこの教えを心に刻み、外交官としての任務を果たしたのかもしれません。

後にハルビン学院と改称し、第二次世界大戦終戦の翌日(1946年8月16日)に閉校。次代の経済や文化を担う人材を、多数輩出しました。

根井は1924(大正13)年、日露協会学校を卒業。外交官としての道を歩み始めます。

ハルビン駅 ハルビンは中国の最北端黒竜江の省都

ウラジオストクを中心に、外交官として勤務

1925(大正14)年に、ハルビン日本総領事館勤務を皮切りに、外交官として働き始めた根井。異動を繰り返しつつも戻る先は、ソ連の極東ウラジオストク日本総領事館でした。
第二次世界大戦の戦火が激しくなった1940(昭和15)年8月、根井は4度目の着任でここにいました。同年12月には、総領事代理(副領事)に。

ウラジオストク駅 ウラジオストクはロシア極東の港湾都市。ウラジオストク駅は、シベリア鉄度の終点。

「命のビザ」を作った杉原千畝

1939(昭和14)年8月、リトアニアの日本領事館に杉原千畝が副領事として着任しました。
同年9月、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻(第二次世界大戦の始まり)。当時、ポーランドには300~400万人のユダヤ人が住んでいましたが、身の危険を感じ隣国のリトアニアに脱出し、難民となりました。
しかし1940(昭和15)年6月、ソ連軍はリトアニアに進駐。ユダヤ人難民は、さらなる避難を迫られ、他国のビザを求めて各国の在外公館が集まるカウナスを目指しました。ここに、日本領事館もありました。
同年の7月、日本領事館には毎日大勢のユダヤ人が、日本通過ビザを発給してもらうために押し寄せました。
彼らの中には、オランダ領事館発給のビザを所有している者もいました。といってもオランダ本国ではなく、当時の植民地カリブ海のキュラソー島行きのもの(キュラソービザ)。
目的地と通過地(日本)の2枚のビザを携えて、諸外国に移動する心積もりです。
杉原は外務省に問い合わせましたが、許可は得られませんでした。悩んだ末に、独断でビザを発給することを決意。7月から8月の領事館が閉鎖するまで、寝る間も惜しんで2000通以上のビザを発給しました。

「命のビザ」をつないだ根井三郎

シベリア鉄道でウラジオストクを目指すユダヤ人難民

杉原から「命のビザ」を受け取ったユダヤ人難民は、シベリア鉄道でソ連を横断してウラジオストクを目指しました。
1940(昭和15)年7月、ソ連はシベリア鉄道による外貨収入を主な目的に、ユダヤ人難民の通過を認めました。ウラジオストク行きの運賃は高額で、支払いはドルに限定。しかも、途中の駅では秘密警察の検閲が行われたり、高額な宿泊費用を求められたりと、過酷なものでした。そんな困難を乗り越え、何とか目的地にたどり着きました。

1941(昭和16)年1月、ウラジオストクでユダヤ人学生ルドウィックは、途方に暮れていました。杉原に発給してもらったビザを紛失! したのです。既にリトアニアの日本領事館は閉鎖しており、モスクワの日本大使館に行くも、発行してもらえず。最後の望みをかけて、ウラジオストクへ向かったのでした。

ウラジオストク総領事館で、ルドウィックは根井にビザ発給を懇願しました。

「ビザを」と頼み込むと、根井は困惑顔で聞いた。「モスクワへは行きましたか 」「行ったが、駄目でした」「ベルリンは」「殺されに行くようなものです」
根井は言った。「ここの仕事は漁業許可が中心です。通過ビザを出すと、越権行為になるんですよ」
それでもルドウィックは必死に食い下がる。「カウナスでは出してくれました」。根井がようやくうなずいた。「分かりました」。ビザは出た。
ルドウィックは言葉が出なかった。体を震わせ、三分も四分も立ち尽くし、やっと「ありがとう」とだけ言った。動揺ぶりを心配したのか、根井は彼をホテルまでそりで送った。

『自由への逃走 杉原ビザとユダヤ人』58ページより

「紛失なんて、しっかりしてよ」と言いたくなるルドウィックですが、日本からカナダを経て英国に安住したそうです。

その出来事からしばらくして、根井のもとに外務省から「ウラジオストクに集まったユダヤ人難民の持つビザを再検閲して、日本入国を厳しく取り締まるように」との命令が下りました。
再検閲といっても、要は杉原の発給したビザは認められない。さらに言うと、ユダヤ人難民は入国拒否、ということです。

外務省の命令に「面白からず」と反論

同年3月30日、根井は上記の命令に毅然と反論します。

避難民はウラジオストクに到着したが、現実的に引き返すことは無理である。連日、領事館に来て自分たちの窮状を訴え、通過ビザの発給または日本入国の検印を求めている。リトアニアの領事館が発給したビザを持ち、やっとの思いでウラジオストクへたどり着き、単に第三国のビザが中南米行きだけの理由で、日本入国の検印を拒否することは帝国在外公館が発給した国際的信用から考えて面白からず。又、ビザを持たない者に対しても、避難民を適切に取締るという目的の為だけに、当館でのビザ発給を停止することは、彼らがモスクワに引き返すことが困難な現状からして、適当ではない……。

2019年3月2日 根井三郎顕彰講演会の資料より

根井は、杉原が発行したビザを既成事実として擁護し、自身がウラジオストクでビザや渡航証明書を発行する妥当性を伝えました。そのとき彼は、ルドウィックとのやり取りを思い出したのかもしれません。

後年(1990年頃)、杉原の妻幸子は偶然根井と出会いました。

最初で最後の会話となったが、彼はぽつんと言ったという。
「杉原さんがビザを出したというのに、私たちが駄目だという理由はありませんよ」

『自由への逃走 杉原ビザとユダヤ人』59ページより

日露協会学校の先輩の命を懸けた行為に、根井は応えたのでした。

「命のビザ」を受け継ぐ人、運ぶ人、受ける人

その後根井は、ビザを持たないユダヤ人難民には独断でビザや渡航証明書を発給しました。これまで、杉原の発給したビザに根井が署名したものは確認されていましたが、根井単独のものは確認されていませんでした。
それが、2020年4月フリーライターの北出明氏の調査で、米国に亡命したユダヤ人の子孫が根井発給のビザを持っていることが分かりました。
ビザには「昭和16年2月28日 通過査証 」「敦賀横浜経由『アメリカ』行」(一部現代語訳)と記され根井の署名があります。

根井三郎発給のビザ (北出明氏提供)

この後、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現JTB)職員の大迫辰雄(おおさこたつお)が輸送船を手配してユダヤ人難民を敦賀まで送り届けます。詳しくはこちらをお読みください。

さらにユダヤ人難民を日本から希望の国に渡航できるように尽力した、小辻節三(こつじせつぞう)の存在もあるのですが、これはまた別の機会に紹介したいです。

こうして杉原千畝、根井三郎、大迫辰雄、小辻節三と「命のビザ」は、バトンのようにつながっていきました。

誰にも語らず引退、そして永眠

1946(昭和21)年、根井は外務省を退職。その後、入国管理事務所の所長を歴任し、1962(昭和37)年に引退。ユダヤ人難民を助けたことは誰にも語らず、1992(平成4)年、90歳で永眠しました。日露協会学校での、「むくいをもとめぬやう」の教えを大事にしたのでしょう。

年月を経て地元宮崎県では、根井の功績は少しずつ語り継がれていきました。
前述の講演会から3か月余り経った、2019(令和元)年6月18日の宮崎県議会6月定例会。横田照夫県議が河野俊嗣知事に、根井の功績に対する評価をどう考えているのか質問しました。それに対し、「人道的な行為として高く評価されるべきものと感じております」と答えました。

その1年後、2020(令和2)年6月に根井が単独で発給したビザが公表されました。

根井は自身の行動について、死後も注目されることは望んでいなかったと思います。しかし、戦争の記憶が風化していく中、当時の出来事を多くの人が知るきっかけができたことは、喜んでいるのではないでしょうか。

※アイキャッチ画像、根井三郎を顕彰する会提供

協力

根井三郎を顕彰する会(根井三郎の写真提供)
北出明(根井三郎ビザの写真提供)

参考資料

・日本経済新聞(夕刊)「もう一つの『命のビザ』 根井三郎発給の実物発見」(2020年、6月4日付)
・北出明『命のビザ、遥かなる旅路 杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(交通新聞社、2012年)
・岐阜新聞社編集局「千畝の記憶」取材班『千畝の記憶 岐阜からたどる「杉原リスト」』(2019年、岐阜新聞社)
・バンクーバー新報 企画・編 高橋文 編者『太平洋を渡った杉原ビザ』(2020年、岐阜新聞社)
・中日新聞社会部編『自由への逃走 杉原ビザとユダヤ人』(東京新聞出版局、1995年)
榎本武揚ら、開国のパイオニアの遺志を大陸に繋いだ「哈爾濱学院」とはー

書いた人

大学で日本史を専攻し、自治体史編纂の仕事に関わる。博物館や美術館巡りが好きな歴史オタク。最近の趣味は、フルコンタクトの意味も知らずに入会した極真空手。面白さにハマり、青あざを作りながら黒帯を目指す。もう一つの顔は、サウナが苦手でホットヨガができない「流行り」に乗れないヨガ講師。