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2022.06.28

なぜ日本に侵攻した?鎌倉幕府の脅威となったフビライ・ハンを3分で解説

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鎌倉時代、日本は2度にわたって大陸から攻め入られました。
この出来事は、元寇(げんこう)、または蒙古襲来(もうこしゅうらい)と言われます。
また、1度目の侵攻は「文永(ぶんえい)の役」、2度目の侵攻は「弘安(こうあん)の役」と呼ばれます。

歴史の授業で習ったけど、よく覚えていないなぁ。

攻め入ってきたのは、当時のモンゴル高原や中国大陸を支配していた元(げん/大元ウルス、元朝とも)と、その支配下にあった高麗(こうらい)です。
このときの元の皇帝はフビライ・ハン(クビライとも)。今回はこのフビライ・ハンについて、3分でご説明します。

画像出典:故宮Open Data 專區より『元代帝半身像 冊 元世祖』(台湾・国立故宮博物院所蔵)

フビライ・ハンってどんな人?

フビライは、モンゴル帝国の第5代皇帝、かつ元王朝の初代皇帝です。モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハンの孫にあたります。

チンギスからフビライまでの皇帝については、以下の家系図をご覧ください。

チンギスの死からフビライの即位までも、いろいろな争いがあったのですが、3分に収まりきらないため泣く泣くカットします。気になった方はぜひ調べてみてくださいね。

フビライは、チンギス・ハンの四男であるトルイの息子で、第4代皇帝モンケの弟でもありました。
1260年に第5代皇帝として即位した彼は、1271年には首都を移して元を建国します。

余談ですが、チンギス・ハン=源義経説がありますね。ロマンがあって好き。

第5代皇帝は2人いた? 実の弟との帝位争奪戦

フビライの他に、実はもう1人、第5代皇帝を名乗った人がいました。フビライの末弟、アリクブケです。
1259年にモンケが戦地で突然亡くなると、フビライとアリクブケは「自分こそが次の皇帝である」とそれぞれ宣言しました。

モンケの死の直後は、アリクブケを支持する声が相次ぎ、フビライは劣勢でした。
それは、フビライがモンケと戦いの方針で対立して一時期更迭されたからです。
また、末子相続の風習があるモンゴルでは、兄弟の末っ子であるアリクブケのほうが後継者としてよりふさわしいと見なされました(モンケの子たちは若すぎるため候補にならず)。

しかし、フビライは策を練ります。モンケ急死の際、別の地で遠征中だった彼はモンゴルへすぐに帰らず、そのまま侵攻を続けて前線で戦う人々を味方につけます。その後で自分の本拠地に戻り、皇帝即位を宣言します。
このときアリクブケはまだ行動を起こしておらず、フビライからやや遅れる形で、自分も皇帝即位を宣言します。

フビライは豊かな農耕地帯を押さえていたため、アリクブケ側に経済封鎖を仕掛けました。追い詰められたアリクブケは拠点を移して再起をはかりますが、部下の離反や飢饉が重なり、1264年に降伏しました。
こうして帝位継承戦に勝利したフビライは、ますます勢力を広げていったのです。

いつの時代も食べ物は大切だ……。

気になる日本侵攻の理由は?

さて、フビライはどうして日本へ攻め込もうとしたのでしょうか?

まずは、官吏に日本と交流を持つことを進言されたことです。
フビライ自身、金銀や宝石を大量に産出するという日本の豊かさに興味を持ったようで、マルコポーロの『東方見聞録』にもその旨が記されてます。

島(※)では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。(中略)
さて、クビライ・カーンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した。

引用元:『マルコ・ポーロ東方見聞録』 マルコ・ポーロ/著  月村辰雄・久保田勝一/訳 岩波書店 2012年, pp.197-198

※日本のこと

また、フビライが皇帝となったときはまだ、南宋(なんそう)が中国の前王朝として残っていました。そして日本は南宋と交流があり、資源の輸出を行っていました。フビライから見れば、日本が南宋を支援しているとも言えます。

フビライは、日本を支配下に収め、南宋の包囲網を強固にしようと考えました。そこで、まずは国書(こくしょ/国家の元首が相手国の元首にあてて出す手紙)を日本へ送ることにしました。

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妨害に既読スルー……順調に進まない日本への使節派遣

1266(文永3)年、フビライは高麗経由で、日本へ使節団を送ることにしました。
しかし高麗は、日本との戦が起これば自国の負担になるのを懸念していました。そこで到着した使節団に、日本へ向かっても得はないと主張し、彼らをそのまま引き返させることに成功しました。
しかし、フビライは高麗の対応に怒ります。その結果、高麗が責任をとる形で使者を出すことにしました。

1268(文永5)年、高麗からの使節団が太宰府(だざいふ)に到着し、フビライの国書は鎌倉幕府へ送られます。
ところが、当時の外交は朝廷の担当だったので、幕府は国書を都へ転送しました。
これを受けて朝廷では連日話し合いが行われましたが、使節団は自分たちが太宰府に到着してから7カ月経っても返答が得られないので諦めて帰国しました。

この時点でフビライは日本への侵攻を計画し、高麗に戦の準備をさせます。
一方で、その後も使節団を送り出しつづけ、途中で引き返した1266年の分を含めると、その数は合計6回。
しかし、さまざまな妨害があり、なかなか日本からの返書は得られませんでした。鎌倉幕府がフビライを警戒し、返書しないように朝廷へ進言したのも一因です。

一応5回目の使節団が帰るとき、太宰府は自分たちの中から使者を出して、彼らに同行させています。これは返書の代わりだったのですが、元側は偵察ではないかと考えました。
結局、元の首都まで来た日本の使者は、このときフビライに謁見できませんでした。

コミュニケーションとるのって難しい!

2度の日本攻めの結果は?

1273(文永10)年、フビライはとうとう本格的に日本への侵攻に乗り出します。この時点で、彼は長年争っていた南宋をほぼ無力化させていました。
そして1274(文永11)年、フビライの派遣した元軍と高麗軍が日本に攻め込んできます。

元と高麗の連合軍は、対馬(つしま)と壱岐(いき)を経て、九州の博多湾へ到達しました。日本の武士団が迎え撃ちますが、戦い方の違いもあって苦戦します。
しかし、元と高麗側の損害も大きく、結局連合軍は大陸へと引き返していきました。
これを機に、幕府はますます警戒を高め、再来に備えて博多湾を含む九州の守りを強化しました。

そして1281(弘安4)年、元と高麗が再び日本へ攻め入りました。
博多湾には石で築かれた防塁(ぼうるい/防御用の砦)があり、連合軍の上陸は難しい状態でした。そこで別方面から攻め入ることにしますが、日本の反撃で足止めを食らっていたところに台風が重なり、またもや撤退せざるをえませんでした。

この台風は「神風」と呼ばれる、と教科書で習った記憶があります。

元寇後のフビライはどうなった?

日本侵攻が2度失敗した後も、フビライは諦めず、何度か日本攻めを計画しました。ただ、そのたびに中止や延期を求める声が続き、実現には至りませんでした。
また、元寇後も使節団を送ってはいましたが、やはり失敗に終わっています。

その後、フビライは東南アジアまで勢力を広げようとしたり内乱に対応したりしつつ、78歳まで生きて1294年に亡くなりました。

鎌倉時代の大事件、元寇。フビライからの視点で見ると、日本からの視点とはまた違った印象になるかもしれません。
大陸の歴史を少しだけでも知ってみると、日本史の理解度もさらに深まるのでおすすめです!

別の視点に立つと、まったく違ったものが見えてくる!

主な参考文献
『日本の歴史 第10巻 蒙古襲来』 網野善彦/著 小学館文庫 2001年
『東洋史研究叢刊之六十五(新装版 3) モンゴル帝国と大元ウルス』 杉山正明/著 京都大学学術出版会 2004年
『戦争の日本史7 蒙古襲来』 新井孝重/著 吉川弘文館 2007年
『蒙古襲来』 服部英雄/著 山川出版社 2014年
『モンゴル帝国誕生 チンギス・カンの都を掘る』 白石典之/著 講談社選書メチエ 2014年

アイキャッチ画像:国立国会図書館デジタルコレクションより『蒙古襲来合戦絵巻[4]』(一部トリミング)

元寇をテーマにした漫画です↓↓


アンゴルモア 元寇合戦記 (1) (カドカワコミックス・エース)

書いた人

日本文化や美術を中心に、興味があちこちにありすぎたため、何者にもなれなかった代わりに行動力だけはある。展示施設にて来館者への解説に励んだり、ゲームのシナリオを書いたりと落ち着かない動きを取るが、本人は「より大勢の人と楽しいことを共有したいだけだ」と主張する。

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