英国留学中、大英博物館の日本セクションで、5年間学芸ボランティアの仕事をさせていただいていた。1753年の創設のときから日本のものを所蔵している大英博物館。その始まりから日本セクションができるまで、日本関係の所蔵品がいつどのような形で博物館に入ったかを、膨大な量の登録簿から1件ずつ探してまとめる作業や、お雇い外国人として日本に滞在しながら、日本全国の古墳の調査を行ったウィリアム・ガウランドの撮影した写真と史料が入った箱の整理とリスト化、19~20世紀に行われた大英博物館の日本関係の展覧会の資料の整理など、本当にいろいろな仕事を任せてもらった。
未だに元同僚から「アキコの作ったファイルのおかげで助かった」などと言ってもらえることがあり、私のいた痕跡がまだ大英博物館に残っていることがとてもうれしい。
思い出深い、大英博物館のバックヤード
すべてが記憶に刻まれる体験であったが、中でも印象深かったのが、陶磁器倉庫の整理と撮影の仕事だった。元々私は、大英博物館の日本絵画コレクションの研究をしていたのだが、日本陶磁器のコレクションも扱った方がいいと、当時日本陶磁器担当をしていたニコル・ルーマニエール先生のアドバイスのもと、半ば強引にその仕事に関わることになったのである。
陶磁器倉庫に初めて足を踏み入れた時の感覚は、未だに鮮明に思い出すことができる。いつも通っていた大英博物館のバックヤード。建物のちょうど真ん中あたりにあるひんやりとした扉を開けると、部屋のぐるりを取り囲む金属の棚。正面の棚はテーブルケースになっていて、棚の上で作品調査ができるようになっていた。その下の扉をからりと開けると、入っていたのはすべて茶入。それも、箱に入っていないむき出しの状態。その景色はまるで茶入の林のようだった。
裸ん坊の茶入たちを、手にとって
最近購入された陶磁器はもちろん箱に入っているが、19世紀に蒐集された陶磁器の箱は、当時の人たちにとっては”container (入れ物)”に過ぎないので、ほとんどが捨てられてしまっている。中には、「(野々村)仁清」など、名のある作家の印が入ったものなどがあったりするが、箱書がないので、もはや由緒はわからない。それに、茶入に着せられていたはずの仕覆(しふく)は、”textile(織物)”として、織物を扱う別の部門に送られてしまったので、ほとんどの茶入は裸ん坊。近年、仕覆たちは「これ、うちにあるけど、日本のものでしょう?」と日本セクションに返ってはきたが、どの茶入に合うかは全くわからない状態で、大きな鉢の中に山盛りの状態。誰かが衣装合わせを試み、仕覆を着ている茶入もあるが、これは明らかにこの茶入の仕覆ではないだろうというものを着ている子も多い。19世紀の欧米における蒐集の在り方を理解できたし、地震のない英国ならではの保管方法であることはわかったが、初めてその光景を目の当たりにしたときは、これはえらいこっちゃとめまいがした。
整理の作業は想像通りとても大変だったが、勉強になることばかりだった。茶入、茶碗、菓子鉢など、大体形態別にまとまっているのだが、動物モチーフ、植物モチーフなどで分かれている場合もあり、動物モチーフの棚に入っていた上と、植物モチーフの棚に入っていた下を合わせてみたら香炉になったときは、みんなで大騒ぎした。何よりもありがたかったのは、調査したすべての陶磁器をこの手で直接触れたことである。やはり陶磁器は、実際に触って、重さや感触、手の収まり具合などを確かめないと、感じ取れないものがある。写真やガラスケースに収まっている作品を眺めるだけでは、どうしても伝わらない何か。それは持ち主の思いなのではないかと私は思っている。蒐集家の研究をしているからなのかもしれないけれど、その作品を手にすることで、元の持ち主と繋がれるような感覚がある。あの人は、この茶碗の手に収まる感じが好きだったのではないか、とか、この重さが心地よかったのではないか、とか。それを確かめる術はもちろんないのだけれど、作品が手の内にある時は、それを大切に愛でていた人の思いに触れられるような、私にとってはとても大切な時間だった。
割れてしまう陶磁器だからこそ、使ってほしい
でも、アメリカの美術館・博物館に行くと、学芸員と作品を取り扱う人の役割が厳密に分かれているので、作品をこちらは触らせてもらえないことが多い。ゴム手袋をしたハンドラーと呼ばれる人に、底を見たいとか、もう少し右に傾けてくれとか言いながら、細部を見せてもらうしかない。それに、向こうでは収蔵するときに、強い薬品で消毒することが多いので、素手では触れないし、それでお茶を飲んだら、毒になってしまう。茶碗として作られたはずのものが、二度と茶碗として使えないということに、なんだか寂しさを感じてしまう。
だからこそ私は、子どもたちにはプラスチックではなく、陶磁器の器を使ってほしいと思う。「子どもにはもったいない」とか「割れたら困るから」と言われる方もいるけれど、落としても割れないとわかっているから、子どもはお皿を投げたり落としたりするのではないだろうか。割れてすごい音がしてびっくりしたり、ちょっと怪我をしたり、お母さんが怒ったり。そんなことから子どもは落としてはいけないことを学ぶのだと思う。
心游舎のワークショップで、自分で作った自分の器を手にした子どもたちは、一様にその器を大切に使っているそうだ。割れてしまったときは、もう一度新しいものを作りたいと言っていた子もいたと聞く。自分専用の器は、やはりなんだか特別で、とてもうれしいものだから。