私がくずし字を学んだのは英国留学中、アメリカ人の先生からだった。ボランティア勤務をしていた大英博物館のお隣、ロンドン大学アジアアフリカ研究学院(SOAS)の日本美術専攻のクラスに、ロンドンに出てくるときはよく参加させていただいていたのである。SOASの先生たちは、皆「オックスフォードで日本美術を専攻しているのはアキコだけらしいけど、他の日本美術専攻の学生と交流した方がアキコのためになるから」と、自分たちの授業に私を入れてくださった。
アメリカ人の先生に教わる、日本の書
オックスフォードの指導教授を私は「ローソン教授」と呼んでいたが、SOASの先生たちは「大学院生は研究者の卵であって、自分の方がこの世界で先輩ではあるけれど、研究者としては対等なのだから」とファーストネームで呼ばせてくださり、和気あいあいとしたとてもアットホームな雰囲気の中で授業に参加することができた。日本美術史、宗教美術、日本文学など、いろいろな授業があったけれど、研究している絵画作品の賛や詞書(ことばがき)を読めるようになりたいと思い、くずし字の授業には時折顔を出していた。
くずし字を教えてくれたジョン・カーペンター先生の専門は、書。平安時代の宮廷歌人の書から、高僧の墨蹟、江戸時代の刷物(浮世絵)の詞書など、書ならなんでもござれ。掛詞(かけことば)などがあって、意味が二重や三重にもなる難しい和歌の翻訳も本当に美しくされる方なので、あんな訳し方ができるようになりたいと、いつもほれぼれしながら翻訳文を眺めていた。日本でも書道史という分野はあるけれど、時代や字体の研究などで細分化されているので、ジョンのように平安から江戸時代まで幅広く研究対象にしている研究者は、日本にはほとんどいない。そういった意味で、留学中ジョンに様々な種類のくずし字に触れさせてもらえたことはとても幸運であったと思っている。
授業では、和歌懐紙や女房奉書など、様々なくずし字を読んでみるのだが、日本人は前後にある読める文字から読めない文字を予想しがち。でも、日本語が母国語ではないジョンは、仮名文字の形から入る。「この角度のはらいは多分“う”だ」とか、「“ぬ”にそういうくずし方はないはずだ」とか。文字を言葉ではなく、形状としてとらえているのが面白いと思ったし、その判断はさすが先生、正しいことが多いのである。
書くことへの苦手意識
そんな勉強になる授業であったことは間違いないのだが、何分テストも受けない気楽な学生だったため、身に着いたかと聞かれると、明後日の方向を向くしかない。絵画作品を扱ってはいるけれど、コレクションの研究であり、作品そのものを分析しなければいけない訳ではなかったから、書かれた文字を読むのはどうしても二の次三の次になってしまう。博士論文の執筆が佳境に入ったころには、くずし字の記憶はかなりかすかなものになってしまったのだった。
そして今、私はあの時なぜもっと真剣にくずし字を勉強しなかったのかとすさまじく後悔している。歌会始の御懐紙や月次(つきなみ)の詠進歌(毎月出せてはいないことは白状しておく)、訪問先で求められる記帳など、字を書かなければいけない場面がとても多いのである。「彬子」「彬子女王」だけは、必要に迫られてそれなりに見える字を書けるようになったが、応用が全く利かない。本に署名を求められる時など、相手のお名前をお入れすることがあるのだけれど、いつも大変申し訳ない気持ちになる。くずし字を読めても書けるわけではないのは当然わかってはいるけれど、授業できちんと読めるようになっていれば、書を書くことに対する苦手意識はもう少し薄れていたように思うのである。(ちなみにジョンは書くのも上手で、関わっていたセインズベリー日本藝術研究所のロゴマークである「藝」の字はジョンの作品だった)
書は上手い下手ではない。思いがどれだけ込められているか
そんな話をしていると、私の書の先生は「書かなきゃって身構えてしまうから、緊張もするし、その時間が嫌になってしまったりする。書くことが特別なことでなくなれば、空いた時間にさらっと書けるようになりますよ」と言われる。確かに、一人で黙々と書いているときは、書いても書いても上手に書けない自分に嫌気が差すのだけれど、先生とお稽古しながら書くときは、とても気持ちよく書ける。何しろ先生が褒め上手なのである。
心游舎の書初めのワークショップでも、先生は子どもたちを絶対に否定されない。「失敗したって言っていたけど、このリカバリーが素晴らしい」とか、「ここ引っかかってしまったかもしれないけど、全体のバランスはこれが一番いいんじゃない?」とか。聞いていた側衛が、「護衛署勤務のときなど、部下が失敗したときに注意ばかりしていた。失敗は取り返せないけれどその後の対応はよかったなど、トータルでどうだったかを評価しなければ」と感心しきりだった。子どもたちは皆、自分の作品を誇らしげに持って帰っていく。子どものころに先生に出会えた彼らは、将来字を書くことが嫌になったりはしないだろうと思うのである。
「書は上手い下手じゃない。書く人の思いがどれだけ字に込められているかです」と先生は言われる。苦手だと思っているから、字に思いが乗らないのだ。今年の書初めは、自分が気持ちよく書くことを目標に書いてみようかと思っている。