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Culture

2025.03.26

漆(うるし)は人よりも長生き? 目白漆芸研究所で知る、日本美術の奥深さ【連載 はみだしNEOアート】

2023年夏、『小学館の図鑑NEOアート はじめての国宝』第4章「素材と技法」の中で、「漆工(しっこう)」を取り上げることが決まり、記事作成を担当することになった私(昭和世代)はさっそく頭を悩ませた。国宝を、そして日本文化を知る上で、外すことのできない「漆(うるし)」。けれど、漆がどんなものか、今の子どもたちにどう説明すれば良いのだろう。現代の生活様式の中では、漆塗りのお椀やお盆に触れたことのない子も、きっといる。

▼連載「はみだしNEOアート」とは?
『小学館の図鑑NEOアート はじめての国宝』に掲載しきれなかった感動をお届け! 連載 「はみだしNEOアート」はじまります

『小学館の図鑑NEOアート はじめての国宝』p.204-205「漆を塗る、漆をかざる」

せっかくなら、この図鑑の見開きが、読者の日常と漆文化の接点になってほしい。仏像を自宅に安置したり、刀を腰に差したり、城郭建築で暮らすことは難しくとも、漆芸品を手にすることなら普段の生活の中でもできる。自分の暮らしの中に、国宝とリンクするものが見つけられたら、とっても素敵なことだと思う。
と、「今の子どもたち」の漆離れ(?)を憂慮してみたものの、正直、私も漆工のことをそれほど知っているわけでもなかった。美術全集の《八橋蒔絵螺鈿硯箱》の八文字熟語の上を、目が泳ぐ…。東京国立博物館(本館1階に「漆工」の展示室がある)にも勉強に行ってみた。蒔絵の技法は、大別しても研出蒔絵、平蒔絵、高蒔絵と3種類もあるらしい…。これは私だけの手には負えない。専門家の協力が必要だ。

漆芸作品についてなら何でもおまかせ、目白漆芸文化財研究所

そうして私は、目白漆芸文化財研究所を訪ねた。人間国宝の室瀬和美氏が1991年に開設した研究所である。一般向けの教室やワークショップを開催している「目白漆學舎(めじろうるしがくしゃ)」の名前でご存知の方もいるだろう。漆芸のプロである研究所の皆さんに、図鑑のページづくりからご相談した。どうしたら、子どもたちに漆について興味を持ってもらえるか。漆というものを正しく伝えられるか、と。

「小学館の図鑑NEOアート」第1弾『図解 はじめての絵画』は、累計発行部数27万部。全国の学校や地域の図書館にも納められた。この『はじめての国宝』も、多くの子どもたちが手にすることになる。ちょっと大げさかも知れないが、この本が日本美術の魅力をどれだけ子どもたちに届けられるかは、日本文化の未来に少なからず影響する。目白漆芸文化財研究所の皆さんは、この本の重要性をすぐに理解してくださり、とても丁寧にアドバイスをくださった。
そして研究所の皆さんのご意見も参考に、左ページではじめに植物のウルシと髹漆(きゅうしつ=素地に漆を塗ること)について説明し、右ページで蒔絵(まきえ)と螺鈿(らでん)の技法を紹介することにした。金粉をまいたり、虹色の貝殻を貼り付けたりする漆の加飾の工程は、きっと子どもたちも興味を持ってもらえる。いや子どもだけでなく、ネイルアート好きのお母さんたちだって、繊細な蒔絵を見るのは楽しいはずだ。

そして私たちは、目白漆芸文化財研究所の方々に、無理を承知でこんなお願いをした。国宝の蒔絵の箱の装飾を再現し、その一連の工程を撮影させていただくことはできないか、と。予算や納期も限られている中での相談だったにもかかわらず、研究所の方々はこの撮影を快諾してくださった。そして国宝《片輪車蒔絵螺鈿手箱》の蓋の上面に描かれている片輪車と流水文の一部を再現する手板の制作をすることに。

《片輪車蒔絵螺鈿手箱》
12世紀 平安時代 東京国立博物館 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

国宝《片輪車蒔絵螺鈿手箱》の蓋の図様の一部を描き起こした下絵。

国宝《片輪車蒔絵螺鈿手箱》の文様を描く

制作を担当した漆芸家の吉田秀俊さんは、《片輪車蒔絵螺鈿手箱》がどのような手順で制作されたかを、細かく検証してくださった。同作品には後代の補修と思われる部分もあり、その制作方法にはまだまだ不明点も多いのだそうだ。この一枚の手板の制作にかかる時間、労力、そして何より知識や技術を考えれば、この撮影協力は全然見合わない。それでも研究所の方々は、子どもたちに本物を見せてあげたい、とまったく妥協せず、手板の制作に取り組んでくださった。本当に感謝しかない。
一連の撮影は、『小学館の図鑑NEO  音楽』で数々の楽器を撮影したカメラマン・平田貴章さんが担当した。こうして2024年の5月から8月にかけて、各工程の撮影に、カメラマンと6回ほど目白の研究所に通った。撮影はカメラマンひとりで全部こなしていたのだが、こんな貴重な機会は滅多にないので私も毎回金魚のフンのように同行した。全くもって役得である。

目白漆芸文化財研究所に通って驚いたのは、工房の清潔さとスタッフの皆さんの集中力だ。工房は常に整然としていて、塵一つ落ちていない。あらゆるものがきちんと収納されていて、こちらが何か質問すると、すぐに資料や道具を出してきて見せてくださる。探すという無駄な動作が無い。そして静かな工房内には、ただ作業の小さな音だけが聞こえている。漆工というのは、非常に多くの工程と細かい作業があるから、段取りと整頓が必須なのだと思った。

(左)清潔な工房でお椀の塗りの作業を行なう。
(右)質問のたびに、資料を見せながら丁寧に説明いただいた。

そしてスタッフの皆さんの集中力がすごい。時に米粒より小さく、髪の毛より細いような図柄に蒔絵をしていくのだ。それも自分のような部外者が傍に立って、鼻息荒く手元をのぞきこんでいるのに、である。(金粉が自分の鼻息で飛んだら困るので、毎回カメラのシャッター音がしている間は息を止めていた。)

細い筆に漆をつけ、図柄を描く。非常に細かい作業。

こうして目白漆芸文化財研究所に通って撮影した写真は、子ども向けの書籍とは思えないほど本格的で資料的価値が高いと思う。その中でも、特に見ていただきたいのが、粉筒の先からきらめく金粉が落ちる瞬間の写真(右ページの丸くトリミングされた写真)だ。
事前のリサーチで、この金を蒔く瞬間を静止画でとらえている資料が、なかなか見当たらなかった。当然だが、絹の目をすり抜け落下する細かな金の粒子にピントを合わせるのは至難の技である。しかしまさに「蒔絵」の「蒔」はこの作業なのである。この決定的瞬間をカメラでとらえるために、研究所の方とカメラマンが何度も工夫して、この一枚を押さえた。汗と涙の一枚である。

目白漆芸文化財研究所での取材風景。

撮影最終日、仕上げを終えた手板が机上に置かれた瞬間には、思わずため息を漏らしてしまった。水面のようにつややかな漆の黒の上に、金粉が上品に輝き、夜光貝が控えめにきらめく。方形に切り取られた宇宙が、そこに置いてあるかのようだった。図鑑で、この感動のすべては伝えられないかも知れないけれど、子どもたちが、この感動にたどり着く最初の足掛かりは、つくれたと思う。ぜひじっくり見ていただきたい。

完成した作品。

最後に。この取材を通して、改めて実感した漆の、あるいは日本の文化の奥深さがある。
漆は、素地に何度も薄く塗り重ねる。「これだけ工程を繰り返すのは、それだけ美しさが増すということですか?」と質問すると「同時に、それだけ堅牢になるからです」と答えられてハッとした。
美しいものを、長く慈しむ。とてもシンプルだけれど、とても大切なことだ。
漆の技術とは、ものをより美しい状態で、より長く、この世界に伝えていく術なのだ。そして、日々漆に向き合い、文化財に触れる目白漆芸文化財研究所の方々と話していると、思考の射程が、周りの人よりも長いことを度々感じた。人間の一生よりも長い時間を生きる作品を知り、それをつくる皆さんの時間のスケールは、悠久なのかも知れない。同研究所では、漆の文化を次の時代に伝えていくために、子ども向けのワークショップを開催したり、2020年から漆の植栽と育成も行っているという。だから、未来を担う子どもたちに向けた図鑑にも、大きな期待を寄せてくださったのだ。

何百年も前につくられた作品と、その技術が、ともに今日に伝わっていることは改めて貴重なことだ。

漆のように、とはいかないかも知れないが、たくさんの人の想いが詰まった『はじめての国宝』も、長く大切に愛読されることを願ってやまない。


ご購入・試し読みはこちら
https://www.shogakukan.co.jp/books/09217267

目白漆学舎
http://urushigakusha.jp/

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和樂web編集部


撮影/平田貴章 取材・文/松崎未来
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