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2025.08.13

異例の大出世も…僅か20年で散った『逃げ若』の“兄”北畠顕家、その華麗なる実像

松井優征原作『逃げ上手の若君』で、主人公北条時行(ほうじょう ときゆき)が兄のように慕い、その気高さや存在感で読者を魅了した北畠顕家(きたばたけ あきいえ)。実際はどのような人物だったのか見てみよう。

北畠顕家の系図

北畠家は元を辿ると「村上源氏(むらかみ げんじ)」と呼ばれる血筋だ。鎌倉時代前期に、土御門(つちみかど)天皇の後ろ盾として権力を握った土御門通親(つちみかど みちちか)卿の五男・通方(みちかた)卿の子孫。

北畠顕家の簡易家系図

通親卿は2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、声優の関智一殿が演じたことで覚えている読者もいるだろう。

関智一演じる土御門通親は、スネ夫どころかむしろジャイアンだった!?【鎌倉殿の13人】

その子孫たちも代々天皇に仕えて来た一流の貴族だ。

北畠顕家の家族

鎌倉末期においても北畠家は天皇の側近として地位を確立していた。特に後醍醐天皇とは懇意にしていたようで、顕家の姉妹2人は後醍醐天皇の息子2人に嫁いでいた。

さらに一説によると、護良親王の母は顕家の大叔母に当たるという話もある。血縁関係でもがっちりと固まっているのだな!

顕家自身の母に関しては当時の記録には残ってない。しかし江戸末期に作られた『系図纂要(けいずさんよう)』では中御門為行(なかみかど ためゆき)という貴族の娘と書かれている。

北畠顕家の半生

文保2(1318)年、華々しい一族の長男として生まれた北畠顕家は、数え4歳にして官位をもらい、14歳にして参議(さんぎ)に列した。

参議とは朝廷の政を直接担う機関で、現代に当てはめるなら、中学生で国会議員になったようなものだ。当時としても異例の若さだ。

貴族が政治を一族にとって有利に進めるために、若いうちから出世させることはよくあるが、鎌倉時代や平安時代だってここまで若い者が参議になった例はない。

北畠家と後醍醐天皇の関係が濃かったのもあるが、顕家本人もきっと優秀な人物だったのだろう。

北畠顕家と陸奥

鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が「建武(けんむ)の新政」を敷いていた時、北畠顕家は陸奥守になった。

そして後醍醐天皇の皇子である義良(のりよし/のりなが)親王(のちの後村上(ごむらかみ)天皇)と共に陸奥国に赴任する。この時15歳。どんだけ信頼されてたんだろうな。

この時代の貴族が国司として直接現地に赴任するのは珍しい。しかも親王と共に赴くとか……。ちょっとオレからしたら考えられないし、実際に直接赴任を反対する貴族も多かったようだ。

しかし後醍醐天皇はその反対を押し切って赴任させたようで、よっぽど東北地方を建武の新政側に取り込みたかったのだろうな。

この時に陸奥国で構築された機関はのちの学術用語で「陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)」と呼ばれる。評定衆や侍所・寺社奉行といった、鎌倉幕府に似た構成をしていて、実質的な運営責任者となっていたのが、北畠顕家だった。

北畠顕家はそこで北条氏の残党を滅ぼし、東北地方を平定し、建武2(1335)年には17歳にして「鎮守府(ちんじゅふ)将軍」という東北地方の軍事長官となる。

北畠顕家の進軍

この間鎌倉では北条時行率いる「中先代(なかせんだい)の乱」が起こって時行が鎌倉を占拠し、再び足利尊氏が鎌倉を奪い返していた。

足利尊氏を危険視した朝廷は、新田義貞に尊氏追討令を出すも敗北して撤退した。そこで北畠顕家は、12月22日義良親王と共に京都にむけて進軍する。その数は『太平記(たいへいき)』によると5万。

10日後の1月2日鎌倉にやってきて尊氏不在の鎌倉から足利軍を追い払い、占拠した。しかし休む間もなく翌日に再び西へと出発する。鎌倉を出発して琵琶湖のあたりまで来たのは12日。

「兵は神速を尊ぶ」とはいえ、日本史上屈指の超高速の大移動だ。承久の乱の時だって、兵数は『吾妻鏡(あずまかがみ)』や『承久記(じょうきゅうき)』によれば19万騎で、北畠顕家軍の4倍近いが、鎌倉から近江国まで(途中合戦があったが)行くまでに20日以上かかった。それが北畠顕家軍は9日ほどだというから、驚きだな。

承久の乱と北畠顕家の軍行比較(国土地理院地図から作成)

その後琵琶湖を船で渡り、比叡山の東麓の宿場町、坂本で新田義貞・楠木正成と合流。そこから連合軍で次々と足利軍を破り、1月中に足利尊氏を京都から撤退させた。

しかし尊氏もあきらめずに、体制を整えて再び入京しようとしたが、それも阻止。こうして北畠顕家は2月14日に京へ凱旋した。まさしく「電光石火」という言葉がぴったりだな。

北畠顕家の連戦

しかし北畠顕家はずっと京にいたわけではなく、3月になって中納言に任官した後は再び奥州へ戻った。そして途中で戦闘しつつ、5月に奥州へ帰着する。

一方京ではまた一波乱あってなぁ、九州で力をつけた足利尊氏が再び攻めてきて、楠木正成が討死。新田義貞と後醍醐天皇は三種の神器を持って大和国の吉野へ逃げた。南北朝時代の始まりだ。

建武4(1337)年1月に、顕家は父から伊勢国まで来るようにという手紙と、後醍醐天皇から京奪還の綸旨(りんじ=天皇の命令)を受け取った。

しかしその頃は東北も情勢が悪化していて、実際に出発できたのは8月になってからだった。途中で足利方と戦闘しつつ、勢力を増やしながら12月末に再び鎌倉を攻めて足利方の武士たちを打ち破る。

漫画では北条時行が北畠顕家軍と合流したのはもう少し前の段階で北畠顕家が会いに来ていたが、実際の出会いは『太平記』では鎌倉攻略の直前。時行たちは後醍醐天皇の下についていて、顕家の2度目の挙兵に呼応して伊豆国で挙兵し、箱根で陣を張っているところを顕家軍と合流した形だ。

その後、翌年1月に本目的の京都攻略に向かい、28日に美濃国青野原(岐阜県大垣市)の激戦の末足利軍を破るも、顕家軍も大損害が出た。そのまま京を攻めるのはあきらめて一旦伊勢へ向かって回復することにした。

北畠顕家が軍の回復をはかったことは妥当な判断だし、誰だってそうするだろう。しかし戦は一瞬の隙で大番狂わせが起きるのは常。ましてや相手は時流を読む天才・足利尊氏だ。

尊氏はすぐさま顕家軍に追い打ちをかける。それでも顕家軍は粘り強く抵抗したが、ついに敗れる。顕家は同行していた義良親王を後醍醐天皇のいる吉野へと密かに逃がし、自軍を河内国まで撤退させて再起をはかった。

しかし足利軍の追撃は止まらない。いくら軍神のごとき指揮官も鬼神のような武人も、こうも連戦続きでは疲労も出てくる。

和泉国まで後退を余儀なくされた顕家軍。援軍の到着も遅延していた。そこに瀬戸内の水軍を取り込んだ足利軍が包囲する。

顕家は最後まで奮戦するも、ついに和泉国の堺浦(現・大阪府堺市)で打ち取られた。満年齢で20歳。短くも華々しい生涯だった。

北畠顕家の素顔

さて、そんな華々しい生涯を送った北畠顕家。『逃げ上手の若君』ではド派手な美男子として描かれていたが。史実でもかなりイケメンだったらしい。

『舞御覧記(まいごらんき)』という記録には、北畠顕家が13歳の頃に「陵王(りょうおう)」という演目を舞った記録があるのだが、そこに「童顔でめっちゃかわいくて堂々としている(意訳)」と書かれている。

しかも若くして奥州の武士をまとめ上げた政治手腕、破竹の勢いで進軍して連戦連勝という指揮の腕の確かさ。足利尊氏もレイドバトルのように絶え間なくせめて疲弊させなければ危うかったかもしれない。

え、なにこの完璧超人。令和の今、漫画でももうちょっと抑えて設定するよ。

しかも醍醐寺に残る文書では、顕家が後醍醐天皇を諫める手紙の写しが残っているんだがその内容が「民が困窮しているのはあなたの政治がよろしくないからですよ。贅沢しないで民たちの生活を豊かにすることを最優先にしてください。そうすれば民たちは必ず朝廷に従いますよ」って感じなんだよ。

は? 顔もイケメンだし言ってることもカッコいいってどういうこと?

でもまぁこの醍醐寺の文書自体は偽書説もあるんだが……他にも実際に直筆の手紙が残ってて、その字が上手いんだよ。字がイケメンなんだよ。

北畠顕家下文案

ははーんそうか、さてはこれが「メロい」って奴か。

足利尊氏方視点の歴史物語『梅松論(ばいしょうろん)』では、顕家軍がここまでの強行軍を決行できたのは「恥知らずの蛮族の軍勢だから」と批判していたが、東北の武士が恥知らずの蛮族だとしたら、それを従えていた北畠顕家という上級貴族様は何者なんだという話にもなる。

『逃げ上手の若君』では、北畠顕家が東北地方の武士たちを掌握するために、あえて同じものを食べ、同じような口調で話して人望をつかみ取っていたが、案外実際もそういう風にしていたのかもしれない。

なんだか頼朝様と坂東武者たちの関係を思い出すなぁ。『逃げ若』の顕家が必殺技で、実朝様の和歌をアレンジして叫ぶのもさもありなん。

史実でも華々しい活躍をした北畠顕家、きっと『逃げ若』のおかげでさらに知名度が高まってファンも増えたろう。墓所は伝承地ではあるが、大阪市内の北畠公園内にあるぞ!

アイキャッチ画像:
『本朝百将伝 [2]』 出展:国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献
『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
『国史大辞典』吉川弘文館
鈴木由美『中先代の乱』中公新書
日本史史料研究会監修・呉座勇一編『南朝研究の最前線』(朝日文庫、2020年)

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三浦胤義 bot

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 当事者目線の鎌倉初期をTwitterで語ったり、話題のゲームをしたり、マンガを読んだり、ご当地グルメに舌鼓を打ったり。 草葉の陰から現代文化を満喫中。
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