その中の1人が、後醍醐(ごだいご)天皇の皇子の1人であり、倒幕の中心人物だった護良(もりよし/もりなが)親王だ。
作品の中では足利尊氏に翻弄されつつも強い意志で己を貫き、父の理想を実現しようと立ち回っていたが、実際のところはどうだっただろうか。
護良親王の系図
歴代の天皇から護良親王にいたるまでは、前回の後醍醐天皇の系図を参考にしてくれ。
▼逃げ上手のエキセントリック天皇!? 『逃げ上手の若君』に描かれなかった後醍醐天皇の実像
護良親王を中心とした系図がこちら。
護良親王の母の謎
母である「民部卿三位(みんぶのきょうのさんい)」は、実ははどこの誰かも諸説があってハッキリはしない。後醍醐天皇の祖父・亀山天皇に仕えていた北畠師親(きたばたけ もろちか)の娘という説が古くからの定説だった。
オレとしては「民部卿」だから民部卿と呼ばれていた勘解由小路経光(かでのこうじ つねみつ)の娘なのかな~と思ったのだが、どちらの説も疑問点があるらしく、断言はできない、というのが現状だ。
勘解由小路経光は、建保6(1218)年、満6歳の頃から春宮蔵人(はるのみやのくらんど)という、皇太子の秘書的な役割で朝廷に仕えていた。後鳥羽院の時代から、後宇多(ごうだ)天皇……つまり護良親王の祖父の時代まで長く朝廷にいた人物だ。
そして経光が書いた日記『民経記(みんけいき)』もかなり貴重な史料で、なんと原本が残っているのだ! そしてその原本は古い手紙の裏紙を使用している。その手紙には……オレの事が書かれているものもあるのだ!!
一次史料に残されたオレはかなり貴重だぞ! 唯一と言って良いんじゃないか!? ありがとう、ありがとう勘解由小路家!!
ちなみに裏紙として使われている手紙や文書のことを「紙背文書(しはいもんじょ)」という。写される時は当然そこまでは写されず廃棄されるものなので、これが残っているのは奇跡に近い。古文書を調べる際は覚えておいてくれ。 ありがとう、ありがとう勘解由小路家!!
護良親王の半生
……まぁ、話は逸れたが護良親王の母の出自は諸説ある。諸説あるということはそこまで高い身分ではないということはうかがえる。
母の身分が子の地位に直結していた時代だから、護良親王は皇太子の座獲得レースからは外れていたことは想像に難くない。ましてや父である後醍醐天皇も当初は中継ぎの天皇だった。
現に護良親王は6歳頃から仏門に入り、20歳の頃には異例の若さで天台座主(てんだいざす=比叡山延暦寺の長)に就いた。
比叡山では大塔(おおとう/だいとう)と呼ばれる九重塔付近に住んでいたため、護良親王は大塔宮(おおとうのみや/だいとうのみや)とも呼ばれた。
『太平記』には座主なのに仏教よりも武芸に興味を示し、僧兵たちの訓練に熱心で、自身の武芸の腕前もそうとうなものだったと書かれている。ある意味父よりも倒幕に積極的だったのかもしれない。
護良親王と倒幕計画
元弘元(1331)年。父・後醍醐天皇は倒幕の計画を立てたが、事前に発覚してしまう。
鎌倉幕府を呪詛したとされる僧が取り調べを受けて自白をしたが、恐怖のあまりあることないことベラベラしゃべってしまってのう。護良親王も普段の振る舞いや呪詛など告発されてしまった。
護良親王は比叡山ネットワークを使って事前に幕府の動きをキャッチ。後醍醐天皇の替え玉を比叡山に匿い、僧兵を引き連れて幕府軍と交戦し、父の後醍醐天皇が体制を整えるまでの時間稼ぎをした。
しかし、後醍醐天皇が替え玉だったことが比叡山の僧兵にバレてしまって、戦う事をやめてしまったので、護良親王は比叡山を脱出し、実際の後醍醐天皇がいる笠置城(かさぎじょう)に合流した。
それ以降は大和国や紀伊国を転々とし、幕府の追求を逃れて還俗(げんぞく=僧から一般人に戻ること)。隠岐島に流された父・後醍醐天皇の再起を図りつつ倒幕の中心人物として行動することとなる。親王もなかなかの逃げ上手だったようだ。
元弘2(1332)年、護良親王は畿内周辺の寺社を中心に軍勢を催促し、翌年には九州・関東の武士に呼びかけるまでになり、倒幕軍は全国的な組織となっていった。
当然幕府も護良親王を警戒していて、その首に懸賞をかけていたほどだった。
護良親王と父と英雄
護良親王は何度か京都にある鎌倉幕府支店といえる「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を攻撃したが、そのたびに失敗して敗走している。
元弘3(1333)年4月に後醍醐天皇は隠岐の島を脱出し、5月に足利尊氏が後醍醐天皇の命令に従って倒幕側につくと、護良親王はこれに合流し共に六波羅探題を滅ぼした。
しかし護良親王は足利尊氏を信用していなかったのか、六波羅探題陥落後も軍を解かなかった。
その後、後醍醐天皇が再び京へと戻ってきたが、その凱旋パレードに護良親王の姿はなかった。後醍醐天皇の回でも紹介したが、後醍醐天皇は天皇(つまり自分)による独裁政治を構想していたから、護良親王が担っていた軍事指揮系統を自分の権力へ回収しようとしていたらしい。
護良親王からしたら、父がいない間ずっと軍事指揮を担ってきたのだから評価してもらいたいのは当然。それなのに戦後処理の発言権すら与えられなかった。だから父に不満を持つこととなる。
そして足利尊氏も信用しきれない。足利尊氏は倒幕ヒーローとして武士たちの人気を集めていた。これも護良親王からしたらずっと戦っていたのは自分なのにポッと出のカリスマに掻っ攫われたカンジだな。
護良親王はそんな足利尊氏をずっと怪しんでいた。そこに「足利尊氏が後醍醐天皇にあることないこと吹き込んでますよ」なんてささやく奴も出て来た。だから護良親王は陣を解かぬまま尊氏をずっと睨んで牽制していたのだ。
征夷大将軍となった護良親王
後醍醐天皇は後醍醐天皇で、護良親王は再び僧となり、天台座主として仏教方面から朝廷を支えて欲しいと考えていた。
そこで後醍醐天皇は使者を出して「朝廷側が勝って鎌倉幕府が滅亡し、太平の世となったのだから、軍事的なことはもうしないで、仏教方面からこの平和を支えてくれ」と言ったが、護良親王は「この平和は一時的なものです。足利尊氏が武家のトップとして力をつけたら、また戦乱の世となりますよ」と反論した。
その主張に後醍醐天皇も納得した部分もあったからか、征夷大将軍の職を正式に護良親王に与えた。もしも足利尊氏に征夷大将軍の職を与えたら再び武家政権が樹立してしまうだろう。それよりは護良親王に与えた方がマシと考えたのかもしれない。
護良親王もこれで名目上は今までのような野党崩れの武士ではなく、正式な武士を従えるようになったんだが……後醍醐天皇は将軍に仕える「御家人制」を廃止してしまったため、実質的な軍事権はなかったと言える。
それでも「武士から朝廷を守る」という目的のために、東北地方を固めようとし、「陸奥将軍府」を設置した。
護良天皇と足利尊氏の確執
しかし後醍醐天皇は護良親王派の武士の恩賞を少なくし、その勢力を削減させた。
これには後醍醐天皇の寵愛を一身に受けていた后、阿野廉子(あの かどこ/れんし)が後醍醐天皇に「護良天皇が帝位を奪おうとしている」と吹き込んだためと言われている。
廉子は実子である義良親王(後の後村上天皇)を次の天皇にしたいと考えていたのだが、その最大の障壁が護良親王だった。そこで足利尊氏と結託して護良親王の失脚を目論んだと言われている……が、実際はどうなんだろう。
そもそも、護良親王は幼い頃に出家していたのだから、狙ったところでもともと皇位継承できる立場ではなかったし、それは護良親王自身もわかっていたはずだ。
実は後醍醐天皇が隠岐にいる時から、護良親王はバンバン令旨(親王としての命令書)を発行していて、それが気に食わなかったという話もある。鎌倉幕府滅亡した時も、護良親王はまだ征夷大将軍ではなかったのだが、征夷大将軍として鎌倉を攻める令旨を発行していたのだ。
その上、倒幕の功労者である足利尊氏を明確に敵視していた。そして京都には護良親王の私兵がうろうろしていて、尊氏の暗殺を企てているという噂までたった。
実際、護良親王の私兵って正規軍ではないし、鎌倉幕府に対してゲリラ戦をずっとしていた連中であまり素行はよくない。京の治安を悪化させたと、人々の目には映っていた。
まぁ何にせよ状況は護良親王にとって非常に不利だった。
そこで護良親王は後醍醐天皇に直接「足利尊氏追討の命令を出してください」と頼むも受け入れられず、近臣を通して「帝位を奪うなんて考えてません」と伝えようとしても、届かなかった。
そしてついに護良親王は征夷大将軍をはく奪され、捕らえられてしまった。征夷大将軍就任からわずか3カ月のことだった。
そして身柄は足利方に預けられて鎌倉に送られ、尊氏の弟直義(ただよし)監視のもと、幽閉されたのだった。
護良親王と北条時行
護良親王が鎌倉に来たのが建武元(1334)年11月。翌年にはついに信濃に潜伏していた『逃げ上手の若君』こと北条時行が挙兵する。
当時の戦のセオリーとして「大義名分」を得ることが第一だった。時行の目的が「かつての鎌倉幕府を取り戻す」としたら、「天皇の皇子が征夷大将軍となり、北条氏が執権として支える」という形を目指すことになる。
鎌倉初期を知っている者ならば、征夷大将軍=源氏というイメージが強いかもしれないが、3代将軍実朝様は後鳥羽院の皇子を4代目の将軍にしたいと考えて準備をしていた。結局その計画は実朝様が暗殺されてとん挫してしまったが、北条氏は鎌倉中期に皇子を将軍にする計画を実現していた。だから鎌倉末期になると征夷大将軍=皇子という認識だった。
それに則れば、護良親王を再び征夷大将軍として、北条時行が執権となるという計画を立ててもおかしくはない。北条時行軍は護良親王の身柄を確保することが「大義名分のため」には大事だ。
だが、その護良親王は鎌倉にいて足利直義の監視下にあった。挙兵を察知した足利方は当然護良親王を北条時行軍に奪われるということは最悪手であると考える。なので足利直義が鎌倉から離れる際に殺害されてしまった。幽閉されてから8カ月、建武2(1335)年7月のことだった。
しかし、もしも北条時行軍が護良親王の身柄を確保したところで、護良親王は「鎌倉を攻める令旨を発行した人物」だから、これまた複雑な感じにもなるなぁ……。武士が権力を握るのを嫌がっていた護良親王が、時行を執権にして再び鎌倉に幕府を開こうとするかというのも微妙だ。
そもそも後醍醐天皇が再び護良親王を征夷大将軍に任命するかと問われればこれまた微妙だ。
時行の叔父・北条泰家(ほうじょう やすいえ)は連携していた公家・西園寺公宗(さいおんじ きんむね)を通じて、後醍醐天皇(大覚寺統)ではなく、対立していた持明院統の方に取り入ろうとしていたから、実際に征夷大将軍になってもらうとしたら、持明院統の皇子だろう……という考えもある。
しかしその持明院統の光明(こうみょう)天皇をのちに擁立したのが足利尊氏で、天皇が2人いる状態だから南北朝時代が始まった。もし持明院統の皇子を征夷大将軍として、泰家か時行が執権となっていた場合、足利尊氏はどう動くか。南北朝時代はやって来るのか、あるいはもっと細かく分裂していたかもしれない……と、ほんとこの時代はややこしいな。
刻一刻と変わる状況に合わせて、いかに臨機応変に作戦を組み立て直せるかがカギだった。そしてそれが一番上手かったのが、足利尊氏という人物だったのだろう。
護良親王も、この時代を生き延びるには信念が強く固く、真っすぐすぎたのかもしれないなぁ。
護良親王の死後
護良親王の死から2日後、北条時行軍は足利直義軍を破り、鎌倉を奪還した。しかしやはり「征夷大将軍のいない北条氏」は立場的にどうしても弱い。20日後には足利尊氏により鎌倉を奪い返されて、再び北条時行は逃亡することとなる。
そして護良親王が危惧していたように足利尊氏の勢力はますます拡大し、後醍醐天皇周辺の勢力は縮小してしまい朝廷が南北に分かれてしまうこととなる。
護良親王が幽閉されていたとされる場所は明治時代になってから明治天皇の命により立派な神社が建てられた。それが現代の鎌倉にある「鎌倉宮(かまくらぐう)」。地元では護良親王の別名から「大塔宮(だいとうのみや)」とも呼ばれている。
波乱万丈な生涯だったが、鎌倉に来た際にはぜひ鎌倉宮に行って偲んで欲しい。
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アイキャッチ:
月岡芳年『後醍醐天皇第三皇子大塔宮護良親王誦読於鎌倉土牢法華経図』(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献:
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)
亀田俊和『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版)