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2024.09.09

先祖も濃ゆいぞ!『逃げ上手の若君』足利尊氏とミステリアスな一族のナゾに迫る

この記事を書いた人

松井優征(まつい ゆうせい)原作『逃げ上手の若君』で圧倒的なカリスマ性を見せつけている足利尊氏(あしかが たかうじ)。鎌倉末期の英雄はどんな人物であったか……を鎌倉初期の御家人であるオレが解説するぞ!

▼オレについては第一回の記事を参照な!
母親は誰なのか?『逃げ上手の若君』北条時行の謎に満ちた出生に迫る

足利一族の歴史


さて、まずは尊氏の一族について。この図を見てほしい。

足利尊氏のファミリーツリー

前回の北条時行(ほうじょう ときゆき)のファミリーツリーと比べると、4分の1ぐらいは同じ血が流れているのであるなぁ。

ちなみに灰色に塗られている人物は2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場している……のだが。なぜか『鎌倉殿の13人』では足利氏が一切登場していないんだ。というわけでまずは軽く尊氏の先祖の紹介だ。

初代は源義家の孫

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもと よりとも)様は「河内源氏(かわちげんじ)」と呼ばれる血筋だ。

▼河内源氏についてはこちらでおさらい
ここでおさらい。河内源氏の系譜を3分で解説【鎌倉殿の13人】

その中でも我ら坂東武者の恩人であるのが、八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとの よしいえ)様!

狩野〈伊川院〉栄信筆『勿来関図』(一部) 出典:ColBase

▼義家様についてはこちらを参考に
発端がしょうもない「後三年の役」をわかりやすく解説

その義家様の孫にあたるのが、足利尊氏の先祖である源義康(みなもとの よしやす)殿! 父から下野国足利荘(現・栃木県足利市)を相続して移り住み、本拠地としたことから足利を名乗るようになった。

源氏・足利氏の簡易家系図

崇徳(すとく)上皇と後白河(ごしらかわ)天皇の対立である保元(ほうげん)の乱では、平清盛(たいらの きよもり)殿や、頼朝様の父・源義朝(みなもとの よしとも)様と共に戦った仲である。

▼保元の乱についてはこちらを参考に
家族同士で争った「保元の乱」は後白河天皇がカギ? 3分で解説

しかし結構若くして亡くなってしまったようで……。跡を継いだのが足利義兼(あしかが よしかね)殿。

2代目はまだ死んでない……ってどういう事!?


義兼殿は、頼朝様が挙兵して鎌倉に入った後に鎌倉にやって来た。オレも小さい頃に父上に連れられて鎌倉に来た時に、義兼殿を見かけたことがあるよ。

菊池容斎『前賢故実 巻第8』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

足利氏は頼朝様と同じ先祖を持つ河内源氏として「門葉(もんよう)」と呼ばれていて、御家人よりも高い席次を与えられていた。けれど……鎌倉中期以降になるとだんだんとそういうわけでもなくなったようだ。

ちなみに門葉には他に、新田氏や平賀氏武田氏などがいた。……でも武田氏は頼朝様に冷遇されていたけど。武力あったからなぁ、武田氏……。

その点で義兼殿は上手く世渡りしていったんだろう。初期の鎌倉幕府を支え、晩年は出家して故郷で隠居していた。正治元(1199)年に死去――と、されているが、義兼殿の隠居先である樺崎八幡宮(かばさきはちまんぐう)では生入定(なまにゅうじょう)したとされている。

生入定は空海(くうかい)が有名だろう。生死の境を超えて弥勒菩薩が降臨するまで永遠の瞑想をしているのだ。つまり……まだ死んでないのだ!

義兼殿は樺崎八幡宮の本殿の下で瞑想しているだけで、誰か掘り返さない限り生きているのか死んでいるのか確定しないシュレディンガーの猫ならぬ、シュレディンガーの義兼殿なのだ。

ちなみに現在も土の下で元気にTwitter(現X)している。

3代目は女の子!?


3代目の足利義氏(あしかが よしうじ)殿はオレと同年代! 腕っぷしも強かったよ。

北条氏と懇意にしていたのは、オレの兄上が有名だけど、義氏殿は母も妻も子の妻も北条氏だから結構近しい間柄だった。なんで大河に出なかったんだろうなぁ……。

そんな義氏殿、足利市にある龍泉寺(りゅうせんじ)に伝わる伝承でこんな話がある。

男子に恵まれなかった義兼殿が、「変成男子(へんじょうなんし)の儀」を行った。そして産まれた男子が義氏殿だという。

変成男子とは元々仏教の教えで、女性のままでは成仏できないから一旦男性に生まれ変わるという意味だ。ようは妻のお腹の子に「もし女の子だったら男の子となって生まれなさいと願った」ということだろう。

というわけで、義氏殿はも元々女の子だった可能性もある!? のか!?

6代目は予言の子にして予言者!?


義氏殿以降の足利氏についてはオレは詳しくは知らないが……特筆すべきなのはやはり6代目の家時(いえとき)だろう。

家時は弘安7(1284)年、若くして謎の自害を遂げている。自害の理由については諸説あり、多くの研究者が議論しているんだが、応永9(1402)年に成立した『難太平記(なんたいへいき)』にはこんな話がある。

足利氏の先祖、八幡太郎義家様が「7代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文を残した。その7代の子孫にあたるのが家時なのだが、家時は自分が天下を取ることができないと悟り、「3代の子孫に天下を取らせよ」と書き残して自害したという。

その3代子孫となるのが足利尊氏というわけだ。なんだかできすぎた話だなぁ。家時の書状があって、それを尊氏が読んでいたことは確実みたいだが、そこに孫が天下を取れと書いてあったかはわからないそうだ。

足利尊氏の実像


そんな濃ゆい先祖から生まれた足利尊氏。しかし生まれついての嫡男というわけではなく、尊氏は側室の子で、正室から生まれた兄がいたんだ。その兄が若くして亡くなったため、家督を継ぐこととなった。

『逃げ若』では得体のしれないカリスマを持った人物として描かれるが、それはやはりあくまで「主人公が北条時行だから」で、どうやったら倒せるのかもわからない強大な敵というイメージを漫画的に表現しているんだと思う。

有名な人物だから、オレが改めてアレコレ言う必要はないと思うが、2つだけ言わせてほしい。

鎌倉を滅ぼしたのは足利尊氏ではない


『逃げ上手の若君』では足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼしたことが何度も強調されていたが、あくまで首謀者は後醍醐(ごだいご)天皇だ。

『後醍醐天皇影/養福摸』 ColBaseから作成

さらに尊氏が鎌倉を攻めたように見える演出もされていたが、実は尊氏本人は鎌倉には来ていない。

実は後醍醐天皇による倒幕の戦は鎌倉幕府滅亡の前々年、元弘元(1331)年から起こっていた。一時期後醍醐天皇側は敗北して隠岐(おき)の島に流刑となっていたが、元弘3(1333)年に流刑地から脱出し、京都で勢力を盛り返していたんだ。

そこに名門である足利一族の当主である尊氏が討伐の為に向かったのだ。しかし幕府軍の中では「幕府のために戦うの意味なくない?」「天皇側について倒幕したほうが得じゃね?」って考える者も多く出てきていた。

アニメでは尊氏と共に京へ上った北条一門の名越高家(なごえ たかいえ)を尊氏が不意打ちで討ち取っていたが、実際の高家は反乱軍と戦い、赤松則村(あかまつ のりむら)に討たれている。

尊氏もいろいろと葛藤はあったろうが、高家が討ち取られたことが決定打となって後醍醐天皇へと寝返った。

尊氏は京都にある鎌倉幕府の出張所・六波羅探題(ろくはらたんだい)を襲撃。鎌倉幕府へは新田義貞(にった よしさだ)が攻め入った。

だから第1話で尊氏が炎の中、半裸で独り言を言っていたのは鎌倉幕府ではない。

六波羅探題にいた北条仲時(ほうじょう なかとき)たちは京を離れ、近江国の蓮華寺にて尊氏とは別の軍に襲われて自害している。

……尊氏は一体どこに火を放って半裸になって、虚空を見上げながら独り言をつぶやいていたんだろうな。

足利尊氏は双極性障害の持ち主だった……ってホント?


よくSNSでバズるネタで、足利尊氏が双極性障害(そうきょくせいしょうがい)だったというものがあるんだが……それを提唱していたのは、1960年代のとある歴史学者だ。精神科医ではない。

昔は大らかな時代だったとはいえ、現代ではセンシティブな話だ。バズのために安易に実在の病名を出すのも、偏見につながるので気を付けたいところだな。

武士であるオレからすれば……そりゃぁ、戦場と日常生活じゃぁテンションが違ってあたりまえだろうよ。日常生活のテンションで戦場で生き残れるわけないし、戦場のテンションで日常生活送ってたら当時でもヤバイ奴だよ。

すぐ出家したがるのも、まぁ反乱のリーダーからあれよあれよと将軍になってしまったプレッシャーもあったろうしなぁ。

創作では超人的に描かれていても、実際調べると案外人間らしいところがいっぱい出てくるのは、歴史物あるあるだな!

▼三浦胤義殿の、濃ゆ~い&わかりやすい「鎌倉時代解説記事」一覧はこちら!
三浦胤義bot記事一覧

アイキャッチ:月岡芳年『大日本名将鑑 足利尊氏新田義三』 (一部) 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブス

参考文献
『樺崎八幡宮御由緒』
『龍泉寺御由緒』
『日本人名大辞典』(講談社)

書いた人

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 当事者目線の鎌倉初期をTwitterで語ったり、話題のゲームをしたり、マンガを読んだり、ご当地グルメに舌鼓を打ったり。 草葉の陰から現代文化を満喫中。