ちなみに、個人的には万葉集に登場する伝説の美少女の「てこな」って名前が日本史上最強にカワイイと思うんですが……元ネタ的にあまりお子さまにはつけられない名前なんですよね……。
ちなみにどんな話かというと……、昔々、手児奈(てこな)ちゃんというめっちゃカワイイ女の子がいて、男たちにモテモテでした。けれど男たちが美しい手児奈ちゃんを取り合って醜い争いをするので、手児奈ちゃんは「私さえいなければ争いは起きない」と、入水自殺してしまいました。という話です。
千葉県市川市に伝わる「真間の手児奈」という話です。この話は万葉集の時代には有名だったようで、訪れた歌人たちが「真間の手児奈のお墓に行ったよ」というような歌を残しています。
まぁ、そういうわけで、ちょっと私個人的にはカワイイけれどおすすめできない名前ですね。では、歴史上に残る名前で他にカワイイものってあるのでしょうか。探してみましょう!
神話・古代の名前
古代日本では名前は呪術的な意味を持ち、本名を呼びかけると従わせられると考えられていました。なので現代のように名前は個人を表すものではありません。本名を知るのは両親と結婚相手だけだったといわれています。ロマンチックですね。
そういうわけで、「卑弥呼」は親がつけた名前ではなく「日巫女」や「姫巫女」の意味だという説もあります。「手児奈」も当時の関東の言葉で「かわいがられている女の子」とか、「かわい子ちゃん」というような意味だろうとも言われているようです。
他に古代にはどういう名前があったのか、古事記や万葉集から調べてみました。
神様の名前、意外とカワイイ
日本神話の有名な女神といえば太陽神「天照大神」ですが、これは現代でも意味が通るそのままの名前ですね。個人的には「アマテラス」って響きは結構カワイイ寄りだと思います。
特徴的な名前だと国産み神話で夫のイザナギと共に出てくる「イザナミ」。名前の意味は諸説ありますが「イザ」は「誘う」「いざなう」という意味。(「いざ鎌倉」のいざですね!)「ナ」は助詞の「の」、「ミ」は女性や女神を表していると言われています。
現代にも「あゆみ」や「みなこ」など「ミ」がつく女性名はたくさんありますが、神話の時代の人が聞いても女性的でカワイイ名前だと思われるんでしょうか。ロマンがありますね。
古代のお姫様は所属が大事
本名を避ける文化があるので、古代の女性の名前はほとんど残っていません。男性の名前も、皇族に近しい人はともかく一般役人だと氏族の名前しかわからない時代ですね。ただ、皇族になると女性の名前も「諱(いみな)」という形で残っています。
例えば日本初の女性天皇である推古(すいこ)天皇の諱は「額田部(ぬかたべ)」です。これは大和国(やまとのくに=現・奈良県)の地名に由来していて、この額田部に住んでいた額田部氏に養育されたので、その氏族の名前を背負って「額田部」と呼ばれたそうです。
ちなみに推古天皇の例に限らず、皇族直属の家臣の一族で、特に皇族の居住地に住み、皇子や皇女を養育した氏族を「名代(なしろ)」といいます。
2人目の女性天皇、皇極(こうぎょく)天皇の諱は「宝女王(たからの ひめみこ)」。なんだかとても大切に育てられた感がありますね。この諱も、名代である「財部(たからべ)」から取られたようです。
3人目の天皇となった才女、持統(じとう)天皇の諱は「鸕野讚良(うのの さらら)」といいます。イカツイ漢字ながらも読みが雅でカワイイです。
ちなみにこの「讚良」も、養育した氏族である、河内国讚良郡(かわちのくに さららぐん=現・大阪府四条畷市・大東市・寝屋川市)の「娑羅羅馬飼造(さららの うまかいの つくり)」から取られたといわれています。

中世女性の名前は肩書きだった
さて、中世になると「名前」も複雑化してきますので、ここら辺で「名前とは何か」を少しおさらいしてみましょう。
当時の名前は現代のように一生同じ名前で過ごすものではなく、立場によって変化するものでした。例えば平安時代の摂関政治の全盛期を築いた藤原道長(ふじわらの みちなが)の娘で、天皇の后となった「中宮彰子(ちゅうぐう しょうし)」。
古代から続く名前を知られてはいけない習慣はまだ続いていて、出生時の名前は明らかにはなっていませんが、成人すると「藤原彰子(ふじわらの しょうし/あきこ)」と名乗ります。これは仕事をする上での仮の名前です。
普段の生活では「彰子様」と呼ばれることはなく、屋敷があった場所の「上東門院(じょうとうもんいん)」、あるいは皇后の住居という意味の「中宮」と呼ばれていました。

鎌倉時代の尼将軍「北条政子(ほうじょう まさこ)」も、両親につけられた名前ではありません。官位を授かるときに書類に残すため、父・時政(ときまさ)から一字取って、便宜上「政子」とつけられました。
では普段はなんと呼ばれていたかというと……源頼朝と結婚する前は不明ですが、「大姫(おおひめ=長女の意味)」や「時政女(ときまさの むすめ)」で十分伝わっただろうと思われます。
結婚してからは将軍の妻という意味の「御台所(みだいどころ)」、出家してからは「尼御台(あまみだい)」と呼ばれていました。そして二位の官位をもらった後は「二位尼(にいの あま)」や「二品(にほん=二位の異称)」、「二位殿(にいどの)」などがあります。

このように、当時の名前はひとつではなく、立場によって変化し、いくつも持っているものでした。では出生時の名前は全く残っていないかというと、数少ないながらも残っています。
まずは、源頼朝と北条政子の間に生まれた次女「三幡(さんまん)」。ちなみに長男の頼家(よりいえ)の幼名は「万寿(まんじゅ)」、次男の実朝(さねとも)は「千幡(せんまん)」なので、名付けの傾向がわかりますね。まんまるな赤ちゃんたちが思い浮かびます。
そして、初代侍所別当・和田義盛(和田義盛)の甥胤長(たねなが)の娘「荒鵑(こうけん)」。鵑はホトトギスのことです。ぷくっとした感じの元気な子だったのかもしれません。
音読みの名前なので、現代日本人にはあまり馴染みのない響きですが、こうしてみると当時の人々は小さな数字や小鳥にかわいらしさを感じていたのかもしれませんね。
江戸時代の女の子の名前は現代っぽい
江戸時代でも、女性の名前は住居や役職で呼ばれていました。とはいえ、中世にはまだあった名前のまじないの風習は薄れてきたのか、女性の幼少期の名前も残ってくるようになります。
江戸時代の有名な女性と言えば、3代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ)の乳母で、大奥を取り仕切っていた「春日局(かすがの つぼね)」ですが、これは朝廷からもらった称号です。
「局(つぼね)」は平安時代からある称号で、宮中に専用の部屋をもつ女官を意味しします。部屋につけられた名前をとって「阿波局」や「若狭局」などと呼ばれました。天皇や将軍に仕える女官の中でも上位にあたります。
春日局の本名も伝わっていて、「斎藤福(さいとう ふく)」といいます。大奥総取締役のイメージから、一気にクラスの学級委員長なイメージになりましたね。

それから江戸時代になると庶民の生活や記録が残るようになります。庶民の女性の名前も寺社の記録などから確認できます。
幕末に起きた大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱の関係者をまとめた資料には「りか」「みゆき」「ゆきえ」「れい」「まき」「みき」「くみ」「ゆみ」「あい」など、現代にも通じる名前が存在します。庶民の名前はひらがなやカタカナが多かったようです。
もしかしたら、自分と同姓同名の人物が数百年前にいたかもしれない……と考えると、歴史上の人物にも親近感が湧きますね。
近代からは一生ひとつの名前
明治時代になると、これまでの体制が一気に変わりました。それまでの侍の身分を廃止したり、藩を廃止して県を置いたり……。それは名前も同じでした。
明治5(1872)年に戸籍法が施行され、この戸籍を通じて明治政府は国民を把握しようとしました。それには通称や幼名・改名は混乱の元です。そこで明治5年5月に「複名禁止令」、8月に「改名禁止令」が出されました。
明治時代になる頃には、「本当の名前を直接呼ぶと災いが起きるので通称を使う」という風習はすっかり廃れていたので、本名も通称も区別なく使っていました。なので、明治政府の一存で無理やりひとつにしたというよりは、社会全体が「名前ってひとつだけでよくね?」という流れになったとも言えそうです。
こうして、生まれたときの名を一生名乗る社会となり、名前が「肩書き」から「アイデンティティ」へ変化します。一生その名前を名乗ると思うと、名付け親も気合が入るというものでしょう。
この時期に生まれた著名な女性は明治5年3月25日に生まれた樋口一葉(ひぐち いちよう)。これはペンネームで、本名は「樋口奈津(ひぐち なつ)」です。残されている写真も美人ですが、名前もカワイイ!
歌人の与謝野晶子(よさの あきこ)は明治11(1878)年生まれ。本名は志やう(しょう)です。漢字とひらがなが混じっているのが、現代では逆に新鮮ですね!
国際的に活躍したオペラ歌手「マダム・バタフライ」こと三浦環(みうら たまき)は明治17年生まれ。これも現代感覚でもカワイイ!
明治19(1886)年に生まれた婦人運動家、平塚らいてうの本名は「明」と書いて「はる」。なかなかカワイイですね。
カワイイ名前の流行はどう変わった?
こうして見ると、意外にも昔の名前って「○子」「○美」っていう名前はあまりありませんね。実は○子という名前が増えるのは大正時代になってからです。
元々「○子」と言う漢字の名前は、貴族の女性のものでしたが、明治時代に事実上身分による縛りがなくなって「四民平等」「男女平等」の概念が広がり、庶民にも漢字の名前や「○子」という名前がつけられるようになります。
大正10(1921)年から昭和32(1957)年まではトップ10が「○子」で占められています。特に日中戦争~第二次世界大戦の頃は「勝子」「征子」など戦意を反映した名前が増加しました。けれど戦後しばらく「和子」「幸子」など、平和や幸福を望むような名前に変わります。
そして今度は「○美」という名前が増え始め、昭和40(1965)年から昭和46(1971)年にかけては「○子」と「○美」が席巻します。そこからだんだん名前にも多様性が出てきて、昭和61(1986)年に「○子」が、平成7(1995)年には「○美」がトップ10に入らなくなってきました。
名付けの傾向として、昭和中期~後期はテレビドラマや芸能人の影響も大きく見られます。著名な女性にあやかって、彼女のように活躍してほしいと願ってつけられたのでしょう。それから漢字の意味や姓名判断なども重視されていました。
平成に入ると、漢字の意味よりも音の響きを重視する傾向が見られます。特に国際的な社会となるにつれて外国人にも親しまれるようにと、英語名に当て字をする例も増えてきました。

しかし名付けの傾向が変わっていっても、根底にあるのは常に“その子への願い”なのではないでしょうか。
「ひみこ」も「てこな」も私は子どもにはつけづらいなと感じますが、それは「名前のイメージに振り回されて苦労してしまうのでは?」とか、「同じような不幸にあって欲しくないな……」と感じるからです。
でも、逆にあえてその名前をつけるとしたら、「カリスマ性のある強い女性になってほしい」とか、「美しく誰にでも愛されて欲しい。不幸は跳ね返せ」といった願いを込めるのではないでしょうか?
美しくなってほしい、愛されて欲しい、出世して欲しい、強くなって欲しいーー幸福の基準は変わっても、新しい生命に対して「幸福になって欲しい」という思いは過去も現代も、未来でも変わらないものなのですね。
参考文献
『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)
『日本女性人名辞典』(日本図書センター)
告井幸男『名代について』(「史窓」第71号)(京都女子大学史学会)
北川敬子『日本女性の名前の変遷について』
吉海直人『「北条政子」は本名ではなかった─大河ドラマの基礎知識─』(同志社大学研究活動)
明治安田 生まれ年別名前ベスト10

