その信勝の嫡男に当たるのが、今回ご紹介する津田信澄(つだ のぶずみ)。『豊臣兄弟!』では緒形敦(おがた あつし)さんが演じます。
津田信澄の父・織田信勝
信澄の人生を見ていく前に、彼の父を少し見てみましょう。信澄の父は名前が複数あり、織田信行(おだ のぶゆき)、あるいは信勝(のぶかつ)が有名です。この記事では信勝で統一します。
織田信勝は信長の同母弟で、父から末盛(すえもり)城を譲られますが、父の死後に家督を継いだ信長と対立してしまいます。
弘治2(1556)年、兄弟の対立はやがて戦となり、信勝は敗北します。この敗北がきっかけで信勝の立場は弱くなりますが、信長の敵対勢力との交流は続いていました。
しかし、信長側の記録『信長公記(しんちょうこうき)』によれば、お気に入りの若い部下ばかりを重用したため、信勝は人望をどんどん無くしていったとされています。そして柴田勝家(しばた かついえ)などの昔からの家臣たちが、次々に信長方へと転じました。
そして永禄元(1558)年11月2日、信勝の暗殺が決行されました。
津田信澄の前半生
信澄の生年は定かではありませんが、一説に父・信勝が討たれた年、永禄元年説があります。いずれにせよ父・信勝が暗殺された時はとても幼かったようです。信長は信勝の幼い子どもたちの命まで奪うことはしませんでした。
幼い信澄は柴田勝家に養育されます。そして父の暗殺から13年後の元亀2(1571)年、浅井家の旧臣であり織田信長に下った磯野員昌(いその かずまさ)の養子となりました。
そこから、信長主催の茶会に呼ばれたり、正倉院に収められている超貴重な香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を信長が切り取る際のお供に名前が挙がっていたり、公家と信長との取り次ぎ役を務めたりと、信長の甥として公的な役割を担うようになります。
信澄が名乗った苗字は、織田姓と津田姓の両方が史料に残されています。津田姓は、織田の分家、庶流が用いた苗字です。この記事では「津田」で統一します。
戦でも、天正3(1575)年7月に養父の磯野員昌と共に越前一向一揆(えちぜん いっこういっき)征伐に従軍します。一向一揆とは一向宗(浄土真宗)の信徒による、権力者に対する武力蜂起です。戦国時代に日本各地で度々起こっていました。
津田信澄の活躍
天正6(1578)年2月、養父の磯野員昌が信長の叱責を受けて、高野山へ出奔します。それにより、養父の所領であった近江国高島郡がそのまま信澄のものとなりました。
信澄は新たに大溝(おおみぞ)城を築き、領内統治に力を入れます。それと同時に信長の側近として活躍し、信長の跡を継いで織田家当主となった信忠(のぶただ)の配下としても活動します。
天正6年4月には信忠に従って石山本願寺を攻め、8月には安土城の相撲興行で奉行を務めています。さらにその翌月には、茶人・津田宗及(つだ そうぎゅう)の茶会に、信長のお供として同席しています。10月から翌年11月にかけて荒木村重討伐に従軍……といったように、かなりあっちこっちへ行ったり来たりしています。織田家にとって重要な役割を担っていたということが窺えます。
この頃の活躍をざっと一覧にすると、こんな感じです

こうしてみると主なものだけでも、かなりの数の公的な行事のお供や戦に連れ出されているので、優秀な人物であったろうことが、行動履歴だけでわかりますね。
津田信澄と本能寺の変
信澄の運命を決定づけたのが、明智光秀(あけち みつひで)が織田信長を暗殺した「本能寺(ほんのうじ)の変」です。
信澄は織田信長の甥であると同時に、明智光秀の娘婿でした。

本能寺の変が起こる半月ほど前から、信澄は四国へ遠征する信孝の副将を務めるため、準備をしていました。天正10(1582)年6月2日、本能寺の変が起こると、京都では「謀反は明智光秀と津田信澄の共謀だ」という噂が駆け巡ります。
信長の三男・信孝(のぶたか)と信長の家臣・丹羽長秀(にわ ながひで)は、5日になって信澄がいる大坂城を襲撃しました。信澄も抵抗しましたが、坂城千貫櫓(せんがんやぐら)で討ち取られ、堺に梟首(きょうしゅ)されてしまいました
では、信澄に本当に謀反の意思があったのか。現在の研究では、信澄が本能寺の変に関与していた可能性は低いと考えられています。
優秀で信長に重用されながら、父・織田信勝と義父・明智光秀という、信長に逆らった二人の男との縁に翻弄されて命を落とした信澄。その人生には、歴史の「あはれ」を感じずにはいられません。
アイキャッチ画像
葛飾北斎『桔梗にとんぼ』 ColBaseを元に加工
参考文献
『信長公記』
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)

