「事件が起きた時、それによって一番利益を受ける者を疑え」という事件捜査の鉄則を当てはめると、本能寺の変の場合、最も利益を受けたのは間違いなく、羽柴秀吉でした。果たして本能寺の変の黒幕は、秀吉だったのか。もし高僧・天海(てんかい)が当時を回想したら、という設定のもと、事件の謎に迫ります。
戦国の生き字引
3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の弟、忠長(ただなが)が罪に問われて切腹した年の暮れ、江戸城本丸御殿の家光の居室に、老僧が姿を見せました。弟の死に、ふさぎ込みがちな家光の気晴らしにと、乳母(うば)の春日局(かすがのつぼね)が招いた老僧は、南光坊(なんこうぼう)天海。徳川家康のブレーンとして、「黒衣(こくい)の宰相(さいしょう)」と呼ばれた人物で、家光も敬愛していたことで知られます。天海はすでに齢(よわい)九十を越えていたはずですが、修行の賜(たまもの)か矍鑠(かくしゃく)とし、言葉も明瞭、記憶力も確かでした。
天海は一説に天文5年(1536)の生まれといわれ、事実であれば剣豪将軍と呼ばれた足利義輝(あしかがよしてる)と同い年、織田信長より2歳下。その生涯はまさに戦国の世と重なる、生き字引(じびき)です。それもあって家光は、天海から戦国の思い出話を聞くことを好みました。この日も、久しぶりにくつろいだ表情の家光は、天海に話しかけます。かたわらには、春日局も控えていました。
「天海和尚(おしょう)。実は前々から訊(き)いてみたいことがあったのじゃ。こなたにおる春日は明智光秀の縁者ゆえ、余(よ)に光秀にまつわる話をよく聞かせる。聞けば聞くほど、光秀はなかなかの名将と思う。一方で余の体には、権現(ごんげん)様(家康)と信長公の血が流れておる。なぜ光秀は、信長公を討ちまいらせたのか」
一瞬、春日局の表情が動きますが、天海はゆっくりと微笑みました。
「本能寺の一件、でございますな。さて、どこから上様にお話し申し上げればよろしいものか……」

光秀は怨みを抱いていたのか
「あれは天正十年の、夏のことでございました。はや、五十年(いそとせ)も昔になりまする。変事の前日、日の欠け(日食)がございましてな。日の欠けは、世の変わり目に起きると申しますが、まさにと、よく覚えております。日の欠けの起きた日、織田前右府(さきのうふ、信長)は京都の本能寺で自慢の茶道具を公家や茶人に披露し、翌日に茶会を開くことになっておりました。茶会には、堺見物をしておわした権現様も招かれていたとか。しかし、翌未明、明智の軍勢が本能寺に攻め寄せたのでございます」
天正10年(1582)5月15日、徳川家康は同年3月の甲斐(現、山梨県)武田(たけだ)氏討伐と、駿河(現、静岡県東部)拝領の御礼に、信長の安土城を訪れます。家康の接待役が、織田家重臣の明智光秀でした。ところが家康接待中に、備中(現、岡山県西部)で毛利(もうり)軍と対峙(たいじ)する羽柴秀吉より、
「決戦を行うため、上様にご出馬(しゅつば)願いたい」
との要請が届きます。承諾した信長は、光秀の接待役の任を解いて備中に先発させ、自らも5月29日には少数で安土城を出陣、京都で陣容を調えて、西へ向かう予定でした。天海は、続けます。
「当時、織田の有力部将らはみな都を遠く離れ、各地で戦っており、畿内に控えていたのは安土城で接待役を務める明智のみでございました。そんな明智が一万余りの軍勢を調えて備中に出立(しゅったつ)せんとしたとき、気づけば織田前右府がわずかな供回りのみで京都にいる。今ならば誰にも邪魔されずに、雑作(ぞうさ)もなく前右府を討つことができる……明智は千載一遇の好機到来と、奮(ふる)い立ったのやもしれませぬな」
ここで、家光が問いかけます。
「光秀にすれば、図らずも、信長公を討ちまいらせる条件がそろったというわけか。それにしても信長公があまりに警戒もせず京都にいたのは、光秀が謀叛を起こすなど、万に一つもないと信じていたからであろう。光秀はなぜ、信長公に背いたのであろうか。怨みでも、抱いていたのか?」
天海は笑みを浮かべながら、ゆっくりと首を振ります。
「巷(ちまた)で噂されるような、前右府が人前で明智をはずかしめ、明智が怨んだという類(たぐい)は、おおかた虚言(そらごと)でございましょう。無論、前右府は気性のきついお方でしたゆえ、家臣への叱責は厳しいものでしたが、それは明智に限らぬこと。むしろ明智は、新参者の己を認め、重臣に引き立ててくれた前右府に、深く感謝していたと申します。それがなぜ、あのような仕儀(しぎ)に及んだのか。拙僧の目には、明智は晩年の前右府の覇業から、心が離れていったように映ります。そして今思えば、そんな明智を追い込むことに、一役買った者がいたのやもしれませぬ」
「ほう。それは、誰じゃ?」
表情を変えない天海の口元が、わずかにゆがみました。
「かの、太閤(たいこう)でございます」

最初の城もち大名
「太閤が羽柴筑前守(はしばちくぜんのかみ)と称していた頃、明智は惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)とも、呼ばれておりました。太閤は天下を取ったのち、われこそが織田家の出世頭であったと吹聴(ふいちょう)いたしましたが、なんの、まことの出世頭は明智でございました」
明智光秀も羽柴秀吉も、織田家中では新参者です。秀吉が足軽として信長に仕えたのが、永禄元年(1558)頃のこと。低い身分から、才覚で出世を重ねていきました。
一方の光秀は牢人(ろうにん)として越前(現、福井県)にいた頃、流浪する足利義昭(あしかがよしあき)に仕え、永禄10年(1567)頃、義昭の家臣として信長と出会います。その後、信長の支援で義昭は室町幕府15代将軍に就任、光秀も幕臣となりました。しかし信長と義昭が敵対するに及び、元亀2年(1571)、光秀は義昭のもとを去って信長の家臣となります。そして同年の比叡山焼き討ちの働きにより、光秀は信長より近江(現、滋賀県)志賀郡を与えられ、坂本城を築城。信長家臣の中で「城もち大名」となったのは、他の重臣を差し置いて、光秀が最初でした。なお秀吉が城もち大名となるのは、2年後の天正元年(1573)のことです。天海は、続けます。
「比叡の麓(ふもと)の坂本あたりは、なかなか手の焼ける土地ながら、明智は大過なく治め申した。そんな明智に前右府は、新たに丹波(現、京都府中部、兵庫県東部)攻めを命じたのでございます。都に近く、西国への拠点となる要(かなめ)の丹波は、山深くて兵は強悍(きょうかん)、さしもの明智も散々に手こずりました。片や羽柴筑前はその頃、何やら含みのある動きをしております」
光秀の丹波攻めは、天正3年(1575)に始まります。山深い敵の拠点をひとつずつ潰して前進しますが、翌年、地元勢力の裏切りにより、いったん丹波から撤退するほどの苦戦を強いられました。
一方、羽柴秀吉が信長より、丹波の西南にあたる播磨(現、兵庫県南部)平定を命じられたのは、天正5年(1577)のこと。播磨平定は、本来であれば摂津有岡(ありおか)城(兵庫県伊丹市)の荒木村重(あらきむらしげ)が担当すべきところ、荒木が大坂本願寺攻めと丹波支援で手一杯であったため、秀吉が横から大任を奪うことになりました。荒木にすれば、面白くなかったでしょう。そして同年10月、播磨に入った秀吉は、東播磨がすでに織田方に帰順していることを確認するや、すかさず但馬(現、兵庫県北部)に、弟・小一郎(こいちろう)の別働隊を派遣したのです。

天下に面目をほどこした光秀
「羽柴筑前が播磨と同時に但馬に手をのばしたわけのひとつは、生野(いくの)銀山を奪い、軍資金を得るためでございました。丹波で戦う明智も生野銀山には注目しており、余力あらば、先に押さえておきたかったはず。とは申せ、自ら努めて勢力を広げるのは織田前右府の意に沿うもので、羽柴筑前が播磨とともに但馬を攻めるは、織田の部将なれば当然のこと。なんら非はございませぬ」
しかし、播磨、但馬を同時に攻略しようとした秀吉は、肝心の播磨でつまずきます。天正6年(1578)2月、東播磨の中心勢力であった別所(べっしょ)氏が織田から離反すると、一度は帰順した他の地侍も一斉に寝返り、播磨平定は白紙に戻ってしまいました。中国地方の覇者・毛利氏や大坂本願寺による離間(りかん)工作、また地侍たちの秀吉への反感もあったといわれます。いずれにせよ秀吉の失態であり、信長の怒りを買いますが、ここでさらに信長を驚かせる事態となりました。
同年10月、摂津有岡城の荒木村重が謀叛、大坂本願寺、毛利に通じたのです。丹波、播磨両作戦を支援していた荒木の謀叛は、逆に荒木が丹波や播磨の敵対勢力の支援に回ることを意味し、毛利との対決を見据えた信長の中国方面の経略を、根底から崩しかねない深刻な事態でした。荒木の有岡城攻めに、信長が自ら出馬したほどです。この織田方の危機を救ったのが、光秀でした。
天正7年(1579)6月、光秀は丹波最大の要衝のひとつ、八上(やがみ)城(兵庫県丹波篠山市)を粘り強く囲み、ついに攻略。八上城の失陥で、地元勢力の士気が大きく下がりました。勢いづいた光秀は、8月に最後の牙城・黒井(くろい)城(兵庫県丹波市)を落とし、4年がかりで丹波平定を成し遂げます。そして、この丹波平定は、各方面に大きな影響をもたらしました。摂津有岡城の荒木村重は、丹波が落ちたことで毛利援軍の期待が薄れたと、別の城に逃亡。同年11月に有岡城は落ち、荒木勢は壊滅します。織田軍に余力が生まれる一方、秀吉が包囲する播磨別所氏の三木城(兵庫県三木市)は追い詰められ、翌天正8年(1580)1月に降伏開城しました。こうして、光秀の丹波平定をきっかけに戦局が大きく好転し、荒木討伐、播磨平定に至ったのです。
「織田前右府は明智の功績を認め、『丹波は光秀が平定し、天下に面目をほどこした』と称えたと申します。明智は、丹波一国を拝領。その頃に黒井城下でお生まれなさったのが、春日局様。御父上の斎藤内蔵助利三(さいとうくらのすけとしみつ)殿は、明智の甥御(おいご)でございますな」
天海に話を振られた春日局は、顔を上げて答えます。
「おおせの通りでございます。私が、父内蔵助があずかる丹波の黒井の城におりましたのは、四つの歳まで。本能寺の一件が起きる夏まで、でございました」
本能寺の一件と聞いて、家光が思い出したように、天海に問いかけます。
「ときに、天海和尚が申された羽柴筑前の含みのある動きとやらは、何を指しておるのか?」
何度かうなずきながら、天海が答えました。
「播磨に乗り込んですぐに、但馬平定に乗り出したことにございます」

秀吉の勢力拡大で、光秀が抱えた重荷
「先ほど、羽柴筑前が播磨と同時に但馬に手をのばしたわけのひとつは、生野銀山を奪うためと申し上げましたが、もうひとつ、別のわけがあったと拙僧は見ております。上様、但馬北方は北の海(日本海)に面し、播磨南方は播磨灘(なだ)でございますな。羽柴筑前が播磨・但馬を一手で制圧すれば、東に接する丹波・丹後を平定した明智はその後、いかがあいなりましょうや」
「もはやそれより先、陸を西に進むことができぬ。光秀がさらに勢力を広げることは、難しいであろう……。するとつまり、中国方面の経略を、羽柴筑前は一手に囲い込んだ、というわけか」
実際、播磨平定で失態を演じた秀吉は、その後、但馬、因幡(現、鳥取県東部)、備前(現、岡山県西部)など、毛利方勢力の切り崩しを自らの手勢のみで行うことで、信長の信頼を回復していきました。光秀にすれば、秀吉によって体(てい)よく蚊帳(かや)の外に追い払われたかたちともいえます。
その状況を見て信長は、光秀に別の任務を与えました。すなわち、毛利との講和工作です。信長は天下一統(いっとう)を目指すにあたり、武力討伐のみではなく、講和による解決というふたつの路線を同時に走らせ、家臣に役割分担をさせたといわれます。対毛利においては、武力討伐路線が秀吉、講和路線が光秀で、異なる立場で家臣に功を競わせるねらいでした。ちなみに大坂本願寺への武力討伐路線で、結果を出せなかった佐久間信盛(さくまのぶもり)は、講和成立後、織田家を追放されています。難航が予想される毛利との講和工作は、光秀にとって新たな重荷でした。
一方、秀吉は毛利方との戦いを進めつつ、四国へも手を伸ばし始めます。毛利と連携する阿波(現、徳島県)の三好義堅(みよしよしかた)の離反を誘うものでした。しかし、阿波三好氏は長年織田と敵対し、また織田と友好関係にある土佐(現、高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の宿敵でもあります。秀吉の動きは、長宗我部と親密な関係の光秀に、揺さぶりをかけるものでした。
長宗我部と四国問題
「春日局様。御父上の斎藤内蔵助殿は、土佐の長宗我部元親殿の親戚でございましたな」
天海の問いに、春日局は深くうなずきます。
「父の実兄頼辰(よりとき)は、石谷(いしがい)家の長女の婿となり、石谷家の次女が元親殿に嫁ぎました。それゆえ父も伯父頼辰も、元親殿の義理の兄にあたります。また伯父の娘が、元親殿の長男信親(のぶちか)殿に嫁ぎ、さらに信親殿との間に生まれた娘が、信親殿の弟、盛親(もりちか)殿に嫁ぐという具合に、明智家臣の斎藤、石谷と、長宗我部は結びつきが深うございました」
天正6年頃、長宗我部元親は信長に誼(よしみ)を通じ、長男弥三郎(やさぶろう)に信長の「信」の一字を拝領、信親と名乗らせます。このとき、取次(窓口)をしたのが光秀で、かねてより家臣を通じて長宗我部と関係を築いていたことを信長も認め、以後も光秀が長宗我部との取次を務めました。当時、大坂本願寺(大阪府大阪市)と苦闘を続けていた信長にとって、土佐から阿波へ勢力を広げる長宗我部が従えば、本願寺の背後を衝くことが可能になります。喜んだ信長は一説に、長宗我部に
「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候(そうら)へ」
と伝えたともいわれます。
しかし天正8年8月、大坂本願寺との戦いが終結すると、信長の態度は変わりました。すでに丹波、播磨は平定済み、畿内周辺に目ぼしい敵はいなくなり、長宗我部の力を借りずとも、中国・四国方面の武力討伐は可能となります。むしろ四国で長宗我部の勢力が拡大することは、望ましくない。そこで新たに讃岐(現、香川県)、阿波方面の経略担当を命じられたのが、三好康長(やすなが)でした。阿波三好の一族ながら、信長に従っていた人物です。三好康長による阿波経略は、すでに阿波攻略中の長宗我部元親にすれば、当然、受け入れ難い話でした。天海が続けます。
「そんな折、因幡鳥取城を落とした羽柴筑前は、わざわざ淡路まで出張って、洲本(すもと)の城を落とし、淡路一国を我が物としました。毛利との戦いの一環などと申しておりますが、実のところは長宗我部の出鼻をくじいたのでございます。長宗我部もまた、淡路を欲しておりましたゆえ。何やら、いち早く生野の銀山を押さえたことが思い出されます。あわよくば四国にも、一枚噛もうと……」
秀吉が淡路を制圧し、阿波三好氏の一部を降伏させたのが、天正9年(1581)11月のこと。同じ月に信長側近で堺代官を務める松井友閑(まついゆうかん)が、讃岐の地元勢力に宛てた手紙に、
「このたび、淡路国を平定しました。阿波・讃岐国については三好山城守(やましろのかみ、康長)に平定を命じられました。大軍を副(そ)えてすぐに両国を平定するよう命じられます」
とあり、秀吉独断の淡路の武力討伐が信長に公認され、また三好康長が阿波・讃岐を経略することが、正式に決定していたことがわかります。信長は、長宗我部元親の他国攻略を一切認めない姿勢でした。
この間、取次を務める光秀や斎藤利三は、納得しない長宗我部を懸命に説得し、土佐に加え阿波の一部の領有という妥協案で、何とか織田家との決裂を防ごうと務めました。決裂すれば光秀は面目を失うだけでなく、取次の責任を問われ、失脚すらあり得ます。この四国問題が、光秀が本能寺の変を起こした最大の理由とされることもありますが、果たしてどうなのか。天海の話はまだ続きます。

織田家再編計画
「明けて天正十年正月七日、明智は山上宗二(やまのうえそうじ)と津田宗及(つだそうぎゅう)を招いて、茶会を開きました。床の間には、織田前右府直筆の掛物(かけもの)が飾られていたと申します。それほど主君を大切に敬う明智が、なぜわずか半年後に謀叛を起こすのか。拙僧は同年に武田氏を滅ぼしたのち、織田前右府が進めた家中の再編が、明智をさらに追い詰めたと存じます」
天正10年3月の武田攻め、いわゆる甲州征伐は、信長の嫡男信忠(のぶただ)を主将に、重臣の滝川一益(たきがわかずます)らが補佐するかたちで行われました。武田氏滅亡後、滝川は東国の経略を任される立場となり、上野(現、群馬県)一国他を拝領。河尻秀隆(かわじりひでたか)も甲斐(現、山梨県)一国他を拝領します。ただし、両者とも旧領は没収されました。滝川は重職を喜ぶより、東国に追いやられたことを嘆いたと伝わります。そして甲州征伐をモデルケースに、今後、各地で戦う重臣らは、勝ち取った敵地を拝領する代わりに、旧領は没収される可能性が高まりました。
では、没収された旧領は誰のものになるのか。この頃、信長は安土城を中心にして、畿内周辺の東海、中部、四国などを直轄(ちょっかつ)領・一門領として再編することを計画し、進めていたといわれます。一説に嫡男信忠に尾張(現、愛知県西部)など6か国、次男信雄(のぶかつ)に伊勢(現、三重県東部)など2か国、三男信孝(のぶたか)に四国4か国、他に若手の側近らを大名に登用し、畿内各地に配置する予定でした。もしこれが実施されれば、新たに勝ち取る予定の敵地がない光秀は、どのような扱いを受けることになるのか。天海は、押し殺すような口調で続けます。
「おそらく、明智が治める近江や丹波は没収され、代わりに何の縁もない遠国に移されるでしょうな」

明智の真意
天正10年5月7日、信長は長宗我部元親に最後通牒(さいごつうちょう)を突きつけます。三男信孝を四国に攻め込ませるとし、四国国分(くにわけ)の方針を定めたものでした。すなわち讃岐一国は信孝、阿波一国は三好康長に与えるとし、土佐、伊予(現、愛媛県)は信長が淡路に出陣した際、決定するというもので、長宗我部には土佐一国の保証すら約束されていません。もはや決裂は、決定的でした。
一方、5月21日付けで長宗我部元親が、斎藤利三に宛てた書状が存在します。内容は、それまで信長の命令を拒絶していた元親が、一転して受諾する姿勢に変わり、なお交渉継続を望んでいます。武田氏を簡単に滅ぼした信長の実力を目にし、元親が態度を改めたと見ることができますが、この書状が時間的に、本能寺の変の前に斎藤や光秀の元に届いたのかは、定かでありません。
そして織田信孝は、丹羽長秀(にわながひで)、津田信澄(つだのぶずみ)らを副将として軍勢を調え、いよいよ大坂方面から四国へ出航しようとします。出航予定日は、6月2日でした。
一方の光秀は5月28日、出陣前に京都の愛宕(あたご)山で連歌(れんが)会を催しています。風流を楽しむというより、おそらく己の心の葛藤をしずめようとしたのでしょう。
「間もなく、四国攻めが始まる。斎藤や石谷らにはつらい思いをさせるが、上様が長宗我部を討つと決めた以上、やむを得ない。ただこれによってわしは、長宗我部の取次役としての失態を問われよう。またこの度の備中への出陣は、毛利との講和工作の失敗を意味し、その責任も負わねばならない。毛利討伐後には、おそらく近江や丹波は召し上げられ、遠国に追いやられよう。家臣やその家族には、申し訳のないことだ。それにしても、あまりにも心ない上様のなされようではあるまいか」
丹波亀山城(京都府亀岡市)に戻った光秀は、6月1日に備中へ向け出陣。その頃、信長は翌日に茶会を控え、本能寺に宿泊していました。山陰道を西に進む光秀の軍勢は、老ノ坂(おいのさか)峠あたりで進路を東に変え、京都へ向かいます。6月2日未明のことでした。
「拙僧の知る本能寺の一件のおよその顚末(てんまつ)は、以上でございます」
天海が語り終えると、家光はしみじみとした口調で語りかけます。
「まことに信長公のなさりよう、いささか酷(こく)であったな。余が光秀の立場であったら、同じように悩むであろう。無論、天下のためには、ときに非情な裁定を下さねばならぬこともある。余も昨年は熊本の加藤を取り潰し、先だっては実の弟に詰め腹を切らせた。乱れた統治を正すためであった。しかし晩年の信長公は、天下一統のためというより、潰さずともよい者までも力ずくで潰し、己の領土を広げることにとらわれていたようにも見える」
「御意(ぎょい)。上様の御政道は天下のため、まことに天晴れなお覚悟でございます」
「ときに天海和尚、信長公が京都に泊まる、そもそもの事の起こりは、羽柴筑前の要請であったな。本能寺ののち、筑前は毛利と素早く講和し、手回しよく上方に戻ったと聞くが、何か匂わぬか」
「いかにも、さすがは上様。拙僧も何やら仕込みがあったのではと調べましたが、確たる証(あかし)は出てまいりませぬ。無論、あの羽柴筑前のこと、仕込みの証を残すような下手は打ちますまい」
うなずいた家光は、自らに言い聞かせるように語ります。
「しかし、たとえ筑前が光秀に決起を仕向けたのであろうとなかろうと、光秀は己の意思で起(た)ったと余は思う。主殺しは武士の大罪、逆臣の汚名を着せられることは、光秀は百も承知であったろう。一族郎党にも、累(るい)が及ぶと覚悟せねばならぬ。それでも起ったのは、信長公の誤った政道を正すことができるのは、いましかない、この己しかいない、と思い至ったからではあるまいか」
不意に嗚咽(おえつ)が聞こえ、驚いた家光はそちらに顔を向けます。春日局が、口元を押さえていました。しかしすぐに呼吸を整え、目元を指でぬぐうと、春日局は深々と家光に頭を下げます。
「上様、大変御無礼いたしました。上様が明智の真意を見事に汲んでくださった嬉しさの余り、取り乱してしまい、お見苦しい限りでございました。お詫び申し上げます」
家光が笑みを浮かべて軽くうなずくと、春日局が毅然とした声で続けます。
「上様、ひとつだけ、斎藤内蔵助の娘として申し上げたきことがございます。私は本能寺の一件で、一族に累が及び迷惑をしたなどとは、いささかも思うておりませぬ。むしろ父内蔵助が、最後まで明智日向守様につき従ったことを、いまも我が誇りとしております」
天海がにっこりと笑い、家光に向き直ります。
「上様、本日は拙僧のらちもない昔語りを傾聴いただき、かたじけなくも深いご推察を賜りましたこと、心より御礼申し上げます」
「天海和尚、今日はなかなかよい話を聞かせてもらった。大儀であった。礼を申す。また顔を見せてくれよ」
家光の居室を辞した天海は廊下に出ると、見送りが春日局のみであることを確認し、耳元でささやきます。
「上様は、ご存じないと見えるの」
「はい。しかとは申し上げておりませぬ」
「それでよい。名より、実をとる。それでよいのだ」
天海は微笑むと、鍛え抜かれた武人のように、しっかりとした足取りで遠ざかっていきました。
なお江戸城紅葉山文庫に伝わる「東照宮御文(おふみ)の写し」には、次のように記されています。
「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也、
同 御二男 国松君 御腹 御台所 駿河大納言忠長公也」
これが事実であれば、家光の実の母は信長の血をひく御台所(みだいどころ)の江(ごう)ではなく、春日局であり、家光の体には明智の血が流れていたことになります。

