日本ならではの物語かと思いきや、じつは中国にもよく似た話がある。その名も『狗尾草』。
設定も内容も花咲爺と似ているけれど、ラストでは犬がネコジャラシになるという、とんでもない展開をみせる。これには深い理由がある。花咲爺に隠された、知られざるもうひとつの物語を紹介しよう。
花咲爺(はなさかじじい)ってこんな話

昔、人のよい老夫婦が拾った子犬を大事に育てていた。あるときお爺さんは犬を連れて山へ出かけた。すると犬が「ここほれ、ワンワン」とないた。その場所を掘ってみると小判がたくさん出てきた。二人はすっかりお金持ち。
それを聞いた隣の欲張りお爺さん、嫌がる犬を引っ張って自分も山へ出かけた。犬がひっかいた場所を掘ってみると、蛇やむかでがたくさん出てきた。怒った欲張りお爺さんは犬を殺してしまった。
飼い犬の死をとても悲しんだ老夫婦はお墓のうえに松の木を植えた。お爺さんがその松の木で臼を作り、ひくと小判(米の場合もある)が出てきた。
しかし隣の欲張りお爺さんがその臼を借りてひくと、瓦や瀬戸が出るのだった。隣の欲張りお爺さんは癇癪をおこして臼を燃やしてしまった。
悲しんだお爺さんは燃えた臼の灰を吹きちらした。すると枯れ木に花が咲いて、あたりはすっかり春のよう。お爺さんは殿様から褒美をもらった。それを真似した隣の欲張りお爺さんも灰を撒いたが、花が咲くどころか腹を立てた殿様に捕らえられてしまった。
謎に包まれた犬の正体

シロとかポチとかお馴染みの犬の名前で呼ばれるこの昔話の主人公たる子犬の出自を辿ると、どうやら拾われてきた犬、ということになっている。
天から霊妙なる力を授かった特別な犬か、あるいは神の使いか。それとも育ての親への恩返しだろうか。これほどの手柄をたてたのだから、そこら辺を歩いているふつうの犬とは似ても似つかない。しまいには『花咲爺』の華麗なるフィナーレである。死んでなお、灰になり枯れ木に花を咲かせるという奇跡まで起こしてみせる。
犬の謎めいた出自。植物への変身。花を咲かす奇跡。
短い話のなかに、どうにも納得いかない展開がいくつも盛り込まれている。どれも不可解ではあるけれど、まずは異彩を放つ犬の正体が気になるところ。謎を解くヒントは花咲爺によく似たべつの国の物語にある。それが中国に伝わる『狗尾草(くびそう)』である。
『狗尾草』あらすじ

あるところに大林(だりぬ)と和五(ほう)の二人兄弟がいた。兄の大林はずる賢く、弟の和五は愚鈍な男だった。父の死後、遺産を手に入れた兄夫婦は、和五には痩せた土地と一匹の犬を与えた。
その犬がある日、話しだした。
「畑を耕させておくれ」
和五がさっそく犬に鋤をつけてひかせてみると牛よりも立派に働いた。刈り入れ時には和五の畑からは大林の何倍もの麦が獲れた。
不思議に思った大林は翌年、和五の犬を借りて耕作するも犬はいっこうに働かない。腹を立てた大林は犬を殺してしまった。
大林は犬を地下に埋めたが、なにせ慌てていたので犬の尻尾は地面に出たままだった。
大林は和五の家にやって来ると言った。
「お前の犬が土の中にもぐり込んでしまったぞ!」
和五が行って見てみると犬の尻尾だけが地上に出て揺れ動いている。ところがそれは、もう青々とした草に変わっていた。
明かされた犬の謎。正体は、ネコジャラシ?

日本の花咲爺の源流ともいわれる『狗尾草』。この犬は、日本の花咲爺の犬のようにいきなり吠えて富財のありかを教えたりはしない。犬は最初から弟の家に飼われていて、畑を耕すという労働に励み、その結果として大きな収穫に恵まれることになっている。かなり現実的な語り口なのがおもしろい。
とはいえ、牛や馬ならいざ知らず小さな犬が重い鋤をひいて田畑を耕せるのかという疑問はのこる。
兄が弟の飼っている犬を羨ましがり、それを借りてきて失敗するのは花咲爺の隣のお爺さんそっくりだ。殺してしまうところも、埋めてしまうところも同じ。その死骸がやがて植物に変わる、というところも。
では、犬の尾に似た「青々とした草」とは、いったい何なのか。
狗尾草とは、日本では「ネコジャラシ」のこと。
たしかに粟状の穂の形は犬の尾に見えなくもない、かもしれない。伝統的な薬物学を記した『本草網目』にも形が狗の尾に似ていることから狗尾と名付けられた、と書かれている。
少なくとも昔の人には、ネコジャラシは猫の遊び道具であるより先に犬の尾が立っているように見えたのだろう。もちろん、その穂の形で猫と遊びもしただろうけれど。
『花咲爺』下から見るか横から見るか

ところで田畑を耕して収穫をもたらすという、この手の説話は中国では『狗耕田』とか『耕田狗』とも呼びならわされている。読んで字のごとく、である。
『狗耕田』には、犬の死骸がネコジャラシではなく竹に変身したという説話もある。興味深いのは、その後の展開だ。
その竹は、ゆすると金塊が落ちてきたそうで、弟がさらにこの竹で鳥かごを作ると卵でいっぱいになったという。それを羨んだ兄によって鳥かごは竈(かまど)にくべられて灰になってしまう。これを肥料として畑へまいたところ、みごとな冬瓜が実ったという。
『花咲爺』は死せる犬の奇跡を描いた物語や育ててもらった恩を返す報恩譚として読まれがちだけれど(あるいは犬の復讐譚ともいえる)、この物語をそのまま犬の手柄を称えた昔話と読んでしまってはもったいない。『花咲爺』は、べつの側面から読むと植物変身譚ともいえるからだ。
そして犬の尾が植物に変身したとか、犬の死骸が花を咲かせたとか、冬瓜を実らせたとか、犬が豊かな収穫(宝物にしろ米にしろ)を運んできたという展開には、そうした物語を生んだ背景がある。
犬と田畑の収穫には、じつは深い繋がりがある。中国には犬が穀物をもって人間のいるところへやってきたという神話伝承が残されているのだ。
天から稲を持ってきた犬の話
これは天地創造のころの話。
かつて神の住むところと地上とは、大きな海によって隔てられていた。あるとき神は人類に食料として天界の稲を授けることにした。
こうして稲を託されたのが、犬だった。出発に先立ち、犬は稲籾(もみがら)のうえを転げまわり、全身を黄金色の籾でおおった。犬は大海を泳いで進んだが、何度も波にもまれているうちに体についた籾はすっかり洗われてしまった。そういうわけで、地上に泳ぎついたときには尻尾のさきに少し残っているにすぎなかった。
……というのがことのあらましである。
なんとも間抜けな話である。結果、神々の世界の稲は根元から穂先までいっぱいに実がついているのに、地上の稲は(犬のせいで)茎の先端にしか実がつかないという。
犬のおかげというか犬のせいというか、なんにせよ、こうして人は稲米を食べることができるようになったというわけである。
おわりに
日本の『花咲爺』、その物語の源流とされる『狗尾草』はどちらも土と草の濃い匂いがする。風土を感じさせる昔話が私は大好きだ。
日本では犬と人間の関係に焦点が当てられがちな『花咲爺』だが、中国版では犬は人の良きパートナーであり稲でもある。こうなるとお馴染みの昔話もかなり受け止め方が変わってくる。
人類は皆、犬に感謝したほうがいいかもしれない。なにせ人類に穀物という名の収穫をもたらしたのは、お爺さんではなく、ほかならぬ犬だったのだから。
【参考文献】
「論集日本文化の起源〈3〉」平凡社、1971年

