いったい、彼らはどうして小さく生まれてきたのだろう? 日本の小さな主人公たちの謎を探ってみた。
小さき者たちの物語
日本昔話には、小さい主人公たちが登場する物語が数多くある。まずは、その代表作を紹介しよう。彼らの活躍とともに、そのサイズを思い出してみてほしい。
一寸法師

日本を代表する小さい主人公と言えば『一寸法師』だろう。その小ささは物語の序盤からお墨つきである。なにせ一寸法師はその名前のとおり、一寸(約3㎝)しかないのだから。
子どもに恵まれなかった老夫婦に育てられた一寸法師は、賢くて親孝行な息子だったが、いつまでたっても大きくならなかった。でも捻くれたり、悪い奴らとつるんだりすることはなかった。それどころか「広い世の中を見てみたいのです。きっと立派になって帰ってきます」と宣言して都へ出る。
縫い針を腰にさし、箸とお椀をもらい、川を下っていく。やがて都で一番立派な屋敷の姫様の家来として雇われることとなる。
お姫様との出会いが一寸法師を勇敢にしたのだろうか。あるとき一寸法師は、鬼と闘う羽目になる。
それは姫様のお伴をしてお寺にお参りに出かけた帰り道でのことだった。突如現れた鬼に、一寸法師は刀を抜いて果敢に立ち向かった。が、なにせ小さいので一口で飲みこまれてしまう。しかし、あきらめなかった。小さな体を活かして鬼の腹の中で暴れまわってみせたのだ。
この後、物語は急展開をみせる。鬼が去り際に置いていった打ち出の小槌をふると、見る見るうちに体が大きくなり、立派な大人の姿になったのである。姫様と結婚した一寸法師。さらには故郷の両親を都へ迎えて、親孝行まで果たしたのである。
桃太郎

桃から子どもが生まれるのは理屈にあわない。というのは、頭の固い大人の理屈だ。これが子どもなら「大きな桃が 川を どんぶらこ どんぶらこ と流れてきました」という物語を素直に受け止めて、その誕生に素直に驚くことができる。
川を流れてきた桃の中にすっぽりと収まっていた桃太郎は、その誕生からして何かとてつもないことをしてくれそうな予感があった。
平和な暮らしを送る老夫婦に育てられた桃太郎は、ある日、鬼ヶ島に住む鬼が悪さをしていると聞いて鬼退治に行く決心をする。道中、きび団子と引きかえに犬と猿と雉を家来にし、みんなで一緒に鬼ヶ島へ。そして見事、鬼を退治し、宝物を持って帰るのであった。
かぐや姫

小さくて美しい昔話の女主人公かぐや姫。平安時代の初めころに著された『竹取物語』は、「いまは昔」ではじまる風情たっぷりの物語だ。
いまは昔、竹取の翁と呼ばれていたお爺さんがいた。春たけなわの頃、竹取の翁は光る竹の中から小さな女の子を見つけた。女の子は、かぐや姫と名付けられて大切に育てられた。
驚くことに、かぐや姫はあっという間に美しい女性に成長した。その美しさは評判になり、多くの貴公子たちが求婚しようと、かぐや姫を訪ねてきた。しかし姫は、それぞれに難題を与えるばかりで誰とも結婚しようとしなかった。帝の求婚すら拒むほどだ。やがてかぐや姫は、月の使者に迎えられて月へ還っていく。
日本最古の小さな主人公
そのほかにも日本には、小さくても目覚ましい活躍をみせた人物がいる。それが、日本最古の小さき神様スクナヒコナノミコトである。
スクナヒコナノミコトは、高天原(たかまがはら)のカミムスビノミコトの指のあいだから零れ落ちて(なにせ小さいので)海を渡り、出雲の国へと辿り着いたという神様。
サイズは小ぶりだが、スクナヒコナノミコトはオオクニヌシノミコトとともに全国を巡りながら国造りをしたと伝えられる。そのうえ豊かな知恵と技をお持ちで、人びとを病難から救いもした。薬の処方を伝えたのもスクナヒコナノミコトだ。立派な神様である。
名前の由来にもなっている「スクナ」には、体が小さいとの意味があるという。声は聞こえても見あたらず(なにせ小さいので)、出会ったばかりのオオクニヌシノミコトの頬に嚙みついたとか、指につまんで手のひらに乗せた、なんて微笑ましいエピソードも残されている。
小さくても大物ぞろい
ところで昔話の小さな主人公は、どうして小さいのだろう。小さく生れてきたのには、なにか理由があるのだろうか。
小さな主人公たちは、普通の子どもではなく特別な子どもとして物語に登場することがほとんどだ。身長が3㎝しかないとか(一寸法師)、桃の中から誕生したり(桃太郎)、光る竹の中から生まれたり(かぐや姫)する。産まれ方からして異常である。
彼らは小さくて弱々しいかと思いきや、その後、驚きの成長をみせる。たちまちのうちに成長したり、小さなままだったり、驚くほどの美女になったりする。
思い返してみれば、竹取の翁とかぐや姫の親子生活はあまりにも短い。結婚を断っていたのも大切に育ててくれたおじいさんとおばあさんと、できるだけ長く過ごしたいという娘心からなのでは、と思わせるくらいだ。
なにせ竹の中から見つけた女の子である。さぞかし小さく、弱々しく見えただろう。竹取の翁もおばあさんも、手のひらサイズの女の子を小鳥でも乗せているみたいに優しく包んで持ち帰ったのだろうなと、老夫婦の溺愛っぷりは想像に難くない。
おもしろいのは、桃太郎もかぐや姫も成長してからは、かつてのサイズを忘れられて、誰もそのことを問題にしていないということだ。彼らが驚くほど小さかったことを覚えているのは読者だけである。登場人物たちは、本人ですらそのことを気にもとめないのである。
小さいのには、理由がある
たいていの場合、小さい主人公たちは子どもに恵まれない老夫婦のもとへやって来る。どうしても欲しくて神様に祈願して授かった、という事実も小さい主人公たちを特別な存在にしている。彼らは皆、望まれて生まれてきた子どもであり、神様の息がかかった子どもたちなのだ。
この世へ来たばかりの子どもとあの世に近い老夫婦は、両極にある。そして両者の共通点を挙げるとしたら、どちらも、もっとも神に近い存在と言うことができる。
小さい主人公たちが、桃や竹といった自然の器を借りてこの世に現れたことも無視できない。
彼らが短い期間でびっくりするほど成長する様子は、枝がたわむほど実をつける自然界の植物を想像させるからだ。そんな植物の成長に驚いた昔の人たちが、その生命の在り様を慈しみ、尊敬するなかで、こうした昔話が生まれたのかもしれない。
おわりに

人間とおなじ姿をしているけれど、ふつうの人間とは生れも育ちもちがう昔話の小さな主人公たち。そんな子どもたちを「変わっている」とか「他の子とはちがう」と嘆いたりせず、我が子同然に大切に育てあげた老夫婦。その恩に報いるためか、小さな主人公たちは自らの手で道を切り開き、出世し、最後まで老夫婦の愛情に応えてみせる。
彼らの小ささは、大人からすると理屈に合わないことだらけだ。でも小さな主人公が活躍する昔話は、子どもたちが大人になって出会うことになる人生が、けっしてきれいごとばかりではないことを象徴的に物語っているようにも思える。大きな読者も小さな読者も、小さい主人公たちから学べることはたくさんありそうだ。
【参考文献】
槇佐知子『日本昔話と古代医術』東京書籍、1989年

