長崎県島原半島を襲った大災害。
島原の町は山崩れと大津波で壊滅状態となった。
俗にいう「島原大変肥後迷惑」である。
その18日後の同年4月19日(現在の暦で6月8日)。
1人の男が巡視のために島原城下を訪れた。
四月十九日城内外ヲ巡視スルヤ大手門ニ至リ市街ノ災場ヲ見テ涙下リ
(島原市仏教会編「たいへん : 島原大変二百回忌記念誌」より一部抜粋)
大手門外の床几(しょうぎ)に腰をかけ、ゆっくりと城下を見渡す。
土砂で埋まり、家屋は流され、見る影もない島原の町。
言葉を失うほどのあまりの惨状に、ただ涙をこぼしたという。
男の名は「松平忠恕(まつだいらただひろ)」。
「島原大変肥後迷惑」で被災した当時の島原藩藩主である。
その涙から8日後の同年4月27日(現在の暦で6月16日)に死去。享年51。
一体、彼に何があったのか。
その真相を探るには、彼が生きた時間を遡る必要がある。
島原藩藩主「松平忠恕」が歩んできた人生。
それを知って初めて。
彼の涙の意味、死の真相に近付けるのだ。
本記事は「島原大変肥後迷惑」の続編である。
▼前編はこちら。
犠牲者約1万5千人!史上最悪の自然災害「島原大変肥後迷惑」の跡を訪ねて
前の記事では、未曽有の大災害をメインでお伝えしたが。
今回は、少しばかり視点を変え、当時の藩主である「松平忠恕(ただひろ)」にフォーカスしたい。
彼が悲運の藩主と呼ばれる理由。
そして、謎の死の真相。
「島原大変肥後迷惑」の「大津波」のその後も併せてお伝えしよう。
※本記事の写真は、すべて「常盤資料館」「肥前島原松平文庫」に許可を得て撮影しています
※本記事は「徳川家康」「松平忠恕」の表記で統一しています
深溝松平家の系譜
冒頭でご紹介した「松平忠恕(まつだいらただひろ)」。
深溝(ふこうず)松平家11代当主であり、「島原大変」の際の島原藩藩主である。
じつは、意外にも。
「忠恕」は長男ではなく、次男である。
父は松平「忠刻(ただとき)」。兄である「忠祗(ただまさ)」よりバトンを渡され、深溝松平家の家督を継いで11代当主となった人物だ。
それにしても、深溝松平家とはどのような一族なのか。
確か、江戸幕府を築いた「徳川家康」の改姓前は「松平」姓だったはず。ということは、徳川家康の一派のような気もするのだが……。
まさしく、その通り。
あの徳川家康の「松平」家と同じ一族である。
なかでも「松平」の前に地名をつけて呼ぶ家系が幾つかある。「十四松平」や「十八松平」などとも呼ばれるが、深溝松平家もそのひとつ。「深溝」とは現在の愛知県額田郡(ぬかたぐん)周辺の地名で、深溝松平家は家康が生まれる以前に独立した庶子家となる。

ちなみに、深溝松平家の中で分かりやすい人物を出すと。
歴史資料として有名な『家忠日記(いえただにっき)』がある。これは「松平家忠」が17年間にわたり、日々の出来事や見聞きした情報を記録したものだ。この作者である「松平家忠」こそ、深溝松平家の4代当主である。
そんな深溝松平家の歴史はというと。
初代当主「忠定(たださだ)」より「深溝」を本拠地にしていたが、4代「家忠」の時に、徳川家康の関東移封(現代でいう転勤のようなもの)に付き従い深溝の地を離れている。ただ、「家忠」は無念にも「伏見城の戦い」で戦死。5代「忠利(ただとし)」の代で、再び三河(愛知県)に戻るも、6代「忠房(ただふさ)」の時に転封が続く。刈谷(愛知県)や福知山(京都府福知山市)などを経由し、寛文9(1669)年、肥前国島原(長崎県島原市)に転封。ここでようやく島原藩6万5900石の藩主となるのである。

そして、大政奉還のその時まで。
深溝松平家が島原藩藩主を代々引き継ぐことになるのだが。
なぜか、ある期間だけその地位が途切れてしまう。
それが、深溝松平家10代当主「忠祗」、そして今回の11代当主「忠恕」の時である。
これには事情がある。
寛延2(1749)年、9代当主「忠刻(忠恕からすれば父)」が参勤交代の途中で死去。同年、すぐに跡を継いだのが10代当主「忠祗(忠恕からすれば兄)」だった。当時の彼は若干12歳。この「若年」を理由に、江戸幕府は宇都宮藩藩主「戸田忠盈(ただみつ)」との交換転封を命じたのである。
簡単にいえば、互いの領地を交換するようなイメージだ。
戸田氏が島原の地へ。そして、深溝松平氏が下野国宇都宮(栃木県)へ。忠恕は当時10歳。父を失い、加えて故郷の島原の地まで手放さねばならぬとは。さぞ辛かっただろうと推測する。
慣れぬ「宇都宮」が領地となってから13年後。
宝暦12(1762)年、兄である「忠祗」が隠居。
「忠恕」が家督を継いで深溝松平家11代当主、そして宇都宮藩藩主となる。この時点で、島原の地を離れてから既に10年以上の月日が流れていた。忠恕からすれば、恐らくこのまま宇都宮で生涯を終えると思っただろう。
ただ、もちろん望郷の念は途絶えず。
その思いが叶ってか、さらに12年の時を経て安永3(1774)年。再度、戸田氏との交換転封が決定。
こうして約25年ぶりに旧領、肥前国島原への復帰が実現するのである。
苦労続きの宇都宮藩時代
振り返ってみれば。
時間はかかったものの、晴れて島原の地へ戻ることができたのだ。
なんだか順調な人生のように思えなくもないが。
実情はそうではない。
忠恕はなかなか苦労の人である。
それも、苦労の大半が「カネ」。浪費したならば己のせいと諦めもつくが、自分ではいかんともしがたい事情でのこと。領民らの暴動や自然災害と多くのトラブルに見舞われる半生となる。その一部を少しだけご紹介しよう。
まずは、戸田氏との交換転封が行われたところから。
深溝松平家からすれば、「宇都宮」という新天地でのスタートである。
だが、早速、雲行きが怪しくなる。
これは宇都宮藩藩主であった戸田氏が島原時代について触れた記録だ。その中で、じつに興味深い部分がある。
「実に御当家空前絶後の黄金時代にて、殊に島原領は収納豊饒にして府庫充実し、家中の輩も上下共にその恵沢に浴し、生計余裕ありし」
(徳田浩淳著『史料宇都宮藩史』より一部抜粋)
戸田氏からすれば。
島原の地で過ごした時間は、まさに空前絶後の黄金時代。そんな表現がされている。

「島原」と「宇都宮」の領地の石高は大体同じのはずだが。
これは、一体、どういうことか。
じつは、石高が同等でも、年貢の収納高は「宇都宮」が「島原」の約半分と雲泥の差があったようだ。というのも、当時の「宇都宮藩」の領地は5つに分散しており、徴収するのも不便で出費がかさむ始末。おまけに宇都宮の領地には新田も多く、山間地帯では収穫の乏しい村も少なくなかったという。
つまり、交換転封以降の年貢収納高は、戸田氏からすれば2倍、深溝松平家からすれば1/2になったのだ。既にこの時点で大きな苦労が目に見えていたのである。
災難がついて回る生涯
それでもなんとか必死に領地を守ってきたが。
宝暦12(1762)年、忠恕に宇都宮藩藩主のバトンが回ってきた頃には、既に息切れ状態。
厳しい財政難の中で忠恕が11代当主となると、さらなる倹約を励行。着用する服は綿を常用とし、贈答や供応についても厳しく戒めた。
『島原の歴史 藩制編』(入江湑著)によると。
宝暦13(1763)年8月と9月に大雨に見舞われ、江戸幕府に提出した損害額は1万5373石余り。
その翌年には、年貢と藩士からの借米(減俸のようなもの)ではこれ以上立ち行かないと、何か良い案がないかとの通達が小姓以上の者に出されている。

なりふり構わぬ姿勢を貫き、財政の健全化に向けて動く松平忠恕だったが。
事態は意外なカタチで悪化する。
それが、明和元(1764)年9月に起きた百姓らの騒動「籾摺騒動(もみすりそうどう)」である。
深溝松平家の功績などを記録した『深溝世紀(ふこうずせいき)』によると、事件は同年9月12日の午後に一部の地区の百姓らが集まったことに始まる。やがて他の地区の者も合流し、その人数は1000人余りにまで膨れ上がったとも(人数は諸説あり)。宇都宮藩としては早急に騒動を鎮めようと説得するが、百姓らはこんな言葉を口々に言って従おうとしなかった。
「六合摺ノ命ニ復スヲ聞カズ則チ我輩此地ヲ去ルヲ肯セズ」
(栃木県史編さん委員会編『栃木県史 通史編 5』より一部抜粋)
「六合摺(ず)り」とは、年貢米の納め方の1つである。
籾殻のついた籾米(もみごめ)から籾を取り除き、玄米にするのだが、その籾米1升を玄米6合と換算して納めるということ。彼らは、この「六合摺り」に反対していたのである。
一体、どういうことか。
「籾摺騒動」の時期や背景など、その解釈は様々であるが。
『氏家町史 上巻』(氏家町史作成委員会編)によると。
そもそも戸田氏の宇都宮藩藩主時代の年貢の納め方は「六合摺り」で、藩内の領民らは長年にわたり年貢減免の訴願を続けていた。
その状況で、転封後に宇都宮藩藩主となった深溝松平家は、農村改革を行い、その一環として年貢を「五合摺り(籾米1升を玄米五合と換算)」に変更したという。もちろん年貢減免だけでなく、年貢を完納しなければ神仏の罰が下るという「天罰起請文(てんばつきしょうもん)」を各村に提出させるなど確実な年貢徴収に向けた施策も講じた。

だが、藩の財政は一向に改善されず。
窮乏の一途をたどる中で、忠恕が11代当主、そして宇都宮藩主に就任。
財政再建に向け、当然、藩内からは「五合摺り」は失策だったという意見も出始める。
確かに、戸田氏の時代には「六合摺り」だったのだ。また戻したところで何が悪い。いやいや、強引に戻すと百姓らが騒動を起こすかもしれない。そんな議論の末、辿り着いたのが「相手からの申し出」という形式だったのである。
「五合摺りでは不作の際に考慮されないことも多いが、六合摺りであれば恩恵を受けることができ、我らも安心して生活できるので六合摺りへの変更を望む」。そんな内容の願書を宇都宮藩は前もって作成し、領内の庄屋(村役人)たちを一斉に呼びつけた挙句、強制的に調印させたという。
大きな困惑と同時に納得できぬ庄屋たち。
そんな彼らが帰村し、コトの次第を聞いた百姓らはというと。もちろん大激怒。
こうして一部の地区で人々が集まり、騒動は瞬く間に大きくなったのである。
同年9月12日から始まったこの騒動。
宇都宮藩は重臣を派遣し一度は退散させることができたのだが、翌13日午後より騒動が再燃。一部暴徒化した百姓らが庄屋宅など壊したあと、さらに藩内の地区から人々が加わり、騒ぎは夜半にまで及んだとか。14日には竹やりなどを持って、さらに騒動がパワーアップ。その勢いは前日の倍以上と記録されている。

最終的には、宇都宮藩が武力で鎮圧。
9月15日には、なんとか騒動が収まっている。
この結果、騒動の首謀者は処刑。一方で、年貢はというと。予定通り「六合摺り」に戻されたのである。
宇都宮藩藩主となってから約2年でこの騒動が起きた忠恕。
騒動が収まって一息つきたいところだが、まだまだ不運は続く。
明和3(1766)年、大洪水が起こり、流失家屋は350軒余り、死者は465名ほど。
安永2(1773)年、西原組屋敷浜助鍛冶屋より出火し延焼。これにより宇都宮の市街28区ほか、町のほとんどが焼き払われるという目も当てられない事態に。被害は、家臣らの屋敷が130軒余り、民家は約1800戸、宇都宮大明神をはじめ社寺21、死者は45人。
まるで忠恕について回るような災難の数々。
なかなかトラブルからは逃れられない宇都宮藩時代だったが、ここでようやく負の連鎖の終止符を打つ時が来たようだ。
安永3(1774)年。待ちに待った江戸幕府の命。
下されたのは、戸田氏との再度の「交換転封」である。
こうして、晴れて旧領の島原の地へと戻ることが決定したのである。
悩み多き転封費用
「宇都宮」での苦労がやっと終わる。
そう思えたところで、まさかの問題が押し寄せる。
望郷の島原の地へ、いざ参らんと、張り切りたいのだが。
なんといっても、「宇都宮」から「島原」まで移動するには、莫大な「カネ」がかかる。
次に頭を悩ませたのが「転封費用」であった。
『改易・転封の不思議と謎』(山本博文著)によると。
転封はすさまじいほどのカネを食うようだ。城の引き渡しから移動費用など、負担するのは大名側。
実際にどれくらいの費用がかかったかのか。ひとつの目安として、最も移動距離が長かった転封の例が書かれていたので、ご紹介しよう。
磐城平藩(いわきたいらはん、現在の福島県)から延岡藩(現在の宮崎県)へ転封となった内藤政樹の例をみると、転封当時の書状によれば試算で2万両程度になる、とある。およそ16億円だ。…(中略)…もちろん費用を工面できず、領民に1万7000両も借金している。
(山本博文著『改易・転封の不思議と謎』より一部抜粋)
この磐城平藩から延岡藩の転封は、直線距離で1200㎞。移動距離としては最長記録だという。なお、石高は7万石程度であったとか。ご紹介した書籍では、1両を8万円で換算し「16億円」という金額を弾き出したようだ。

一方、深溝松平家の転封の場合はというと。
下野国宇都宮藩(栃木県)から肥前国島原藩(長崎県)への移動は直線距離にして約965㎞。石高も同じくらいだ。ただ、「島原」という地は、島原半島の先の奥まっている場所に位置する。陸地からだとかなり回り込む必要があり、直線距離はさらに延びるだろう。それを踏まえると、先ほどの磐城平藩の金額以上となった可能性がある。
実際、『島原の歴史 藩制編』(入江湑著)によると。
島原復帰の移封費もほとんどが他借である。その所替え費の主たる内容は…(中略)…これら諸入用の総計は金三万九千九百二十七両三歩と銀十四匁六厘二毛になる。
(入江湑著『島原の歴史 藩制編』より一部抜粋)
なんと、費用は約4万両。現在で32億円ほどになるだろうか。
確かに、現在のように交通が発達しているワケでもなく。合計3385人もの人間が大移動することを考えれば、妥当な金額なのだろう。ただ、金額の大きさだけでも驚くが、それらのほとんどが借財だというのだから、これには忠恕も頭を抱えたに違いない。

ちなみに、これは片道の話だ。
25年前の転封費用はこの2倍弱。『宇都宮市史 第6巻 』(宇都宮市史編さん委員会編)によると、宇都宮までの往路でのかかった費用の総計は6万8486両と銀8匁5分7厘5毛。約7万両と考えれば、恐らく56億円弱にもなる。宇都宮藩時代の深溝松平家の懐事情が苦しかったのも納得である。
恐らくだが。
忠恕は、これが最後の試練と思っていたのかもしれない。
この最悪な状況であっても、どうにか旧領の島原に移動さえできればと。
新天地での再スタートが切れれば、すべてうまくいく。そんな希望を捨てずにいたようにも思う。
そうして島原までの移動費用を捻出し、再び島原の地に辿り着いた忠恕。
だが、これでも、運勢が上向かず。まさかの島原の地でも相変わらず災難が続く。
結論から言えば、領地を変えたところで、どうやら忠恕の運勢を好転させることはできなかったようだ。
安永6(1777)年7月。
大風が吹き、城の3階や櫓(やぐら)が倒れ、家屋4439戸が倒壊。田畑の損害も甚大であった。8月にも大風が吹き、併せて江戸幕府に報告された被害高は3万640石。

天明3(1783)年には失火で3つの町が全焼。激しい北風のせいで、船倉などにも燃え広がり、580戸余りが焼失。そこから復興を目指すも、その途中の天明4(1784)年と天明6(1786)年にまたもや大風。田畑の損害額は2万6000石ほど。こうして島原の地でも連続して自然災害が続くのである。
もちろん、忠恕に支援がなかったワケではない。
宇都宮藩時代、島原藩時代と、それぞれ幕府から支援金を受けてはいた。
ただ、こうも災難が続くと、やはり財政再建までの道のりは相当長い。それでも、再スタートを切った忠恕は逆境にも負けず、なんとか財政を立て直そうとした。備蓄の穀物を増やすために新たな法を作り、領民救済と共に領国経営を安定させようと必死だった。
だが、これらの効果が出るまでもなく。
旧領復帰から18年後の寛政4(1792)年。
あの「島原大変」が起きたのである。
トドメの「島原大変」の大惨事
島原半島の東側、有明海沿岸に沿って建つ大きな石塔。
当時は、有明海に面する海岸沿いに多くの犠牲者の遺体が流れてきたという。
そこで、島原藩は「島原大変」の翌年に、慰霊のための供養塔を7基建立した。場所は、多比良村(国見町)、三会村(三会町)、島原村(田町)、安徳村(南崩山町)、布津村(布津町)、隈田村(西有家町)、南有馬村(南有家町)の7箇所だ。
取材をする前から、時間のある限り供養塔を見て回ろうと決めていた。
どのような場所でどのような人たちが命を落としたのか。
230年以上前のことなど分かるワケもないが。供養塔の前で少しでも何か感じられればと思ったのだ。
島原藩が建立した供養塔
最初に向かったのが「島原村(田町)」の供養塔だ。

すぐ目の前は海。
海岸線の近い場所にひっそりと建つ供養塔。
周囲に建物もほぼなく、商店街の中の供養塔と比べれば少し寂しい感じのする場所だ。
夕日に照らされて、刻んだ文字が見える。
正面には「流死菩提供養塔」。
側面の方に回ると「寛政四壬年四月朔日(さくじつ、1日のこと)高波」の文字が。

眉山の一部である天狗山が崩れ、その後、大津波が押し寄せた。
津波が去った後には、多くの人の亡骸が横たわった海沿いの村。
当時は地獄絵図のような光景だったに違いない。
海に近いせいなのか。
「高波」という文字が、過去の出来事であるにもかかわらず妙な現実味を持たせる。今はとても穏やかな場所だが、少しだけ胸がざわついた。
次に向かったのは島原半島の南側。
「隈田村(西有家町)」の供養塔だ。
正直、この供養塔だけは見つけるのに非常に手間取った。周辺の住民の方に聞いても分からないとのお返事が。Googleマップを頼りつつ、入り組んだ道を進み、足で探してようやく発見。

民家が並ぶ中に突然現れる供養塔に驚いた。
初見であれば、これが何を意味するのか、恐らくわからないであろう。こちらも同じ文言が刻まれている。
なお、島原半島の中には、40以上の供養塔や慰霊碑が今も確認できる。
島原藩が建立したものもあれば、地元の有志であったり、寺であったりと様々な立場の人たちが建立したようだ。場所もそれぞれ。寺や墓地もあれば、前回の記事でご紹介した商店街の中という場合もある。その中で、島原藩が建立した供養塔はすべて同じ形、同じ文言の石塔だという。
さらに海岸沿いを南に進むと。
大通りから脇道に入った先に「南有馬村(南有家町)」の供養塔が見えた。コチラも住宅に囲まれた場所にある。

海のすぐそばではないからか。先ほどの「隈田村(西有家町)」と同じく、悲壮感があまりない。
もちろん、230年以上が経過しているのだ。今に至るまで様々な出来事が起こり、歴史が常に上塗りされてきた。そういう意味では「島原大変」の惨事自体が風化されるのも、ごく自然なコトなのかもしれない。
それでも、これらの供養塔は、現在も近隣住民による清掃や献花などの供養がなされているという。当時の人々の「決して忘れまい」という気持ちが、自ずと現代にまで伝えられているのだろうか。
すべての供養塔に手を合わせて黙祷した。
大津波による被害
地元では、今も静かに供養が続けられている「島原大変」。
言い換えれば、それほどまでに被害は甚大だったというコトだ。
僅か3分の間に眉山が崩れ、人々は呆然自失となる。そして、追い打ちをかけるように大津波が襲う。その様子が当時の様々な資料に残されている。
『肥前温泉災記』より
人々又これに恐れ家より駆け出るもあり、そのまま内にせっ死(圧死か)致す者もあり、外へ出たる人内に入る間も無く前山の方より、思いがけなく津波溢れ来たりて、民家並びに牛馬諸共時の間に流れ失せにけり。
(津田庄治編『肥前温泉災記の解説』より一部抜粋)

当時の時刻は夜。
助けを求める声がしても、一体、どこからか分からない。
手の付けようがないとはこういう状況なのだろう。『西肥島原大変聞録』にもこのような記録がある。
……大手田町の外に至り見るに、闇夜のことなれば、何のようすも分らずして、大手の並木に市中の家居黒くうち束ねたるようすのみにて、家の下に埋れいたる者ども、助けくれよと号呼悲泣する声々実にものあわれなり
(島原市仏教会編『たいへん : 島原大変二百回忌記念誌』より一部抜粋)
それだけではない。
さらに強烈なのは、津波の時間差である。
一度、肥後(熊本県)へ押し寄せてから、島原の町を覆い尽くした津波。城下の人々は、地震と山崩れで手一杯のところを、突然、津波にさらわれた。間一髪で逃げ切れたとしても、城門が閉まっているせいでそのまま水中へと放り出された様子も記されている。
『肥前温泉災記』より
その時少々逃れし者ども、足を早めて何とぞ城内に走り入りたき思いで命限リに馳せ付しが、内より門を閉じければ入るべき様なく、うろたえ騒ぐ折から彼の波先来たりて、此所にて多くの人波に溺れて死したる者数多あり。時に役人衆大きに驚き…(中略)…彼の波に暫く漂いければ、十人が八人までは生きたる者ども少なし。
(津田庄治編『肥前温泉災記の解説』より一部抜粋)
城の中の者たちは、まさか城門にまで津波が押し寄せているとは思いもしなかったのか。
一方で、このように絶体絶命な状況の中でも、奇跡的に助かった者もいる。
津波は3回押し寄せたが、その3回目の波に乗って打ち上げられたという者たち。彼らは、後日、海水が湯の如く熱かったと証言している。はたまた、偶然、商売のために島原の地に滞在していた者は、不幸にも「島原大変」に遭遇。大木につかまって登り、枝にしがみついて難を逃れたという。

それにしても、一体、どれほどの被害だったのか。
まず、島原半島を襲った津波の範囲はというと。
北は「西郷(瑞穂町)」、南は「浦田(南有馬町)」付近まで。地図でいえば、島原半島のほぼ右半分の沿岸が被害に遭ったという状況だ。
次に、波の高さは2回目の津波の時が一番高かったという。その高さは、最大で約9~10mと推測されている。
宇佐美龍夫著『大地震:古記録に学ぶ』によると。
「島原大変肥後迷惑」の被害状況は、島原及びその付近で死者は10139人、負傷者707人、流失家屋3347戸。天草や肥後国(いずれも熊本県)のエリアも合わせると、死者は15000人を超える(書物により若干数字は異なる)。それだけではない。このほか、牛馬や田畑の被害なども含めると、その経済的損失は計り知れないほどとなるのである。
謎の死の真相は?
「島原大変」直後の城下では、死者のみならず負傷者も多数。
藩医では足りず村医まで集めて治療するが、それでもままならない状況だったという。
さらに、生き延びただけでも奇跡に近い中で。
当時の領民らを悩ませたのが「悪臭」と「野犬」。城下にはあまりにも多くの遺体が放置されており、収容しようにも初夏に近い時期で腐敗が進み異臭を放つ。その上、野犬が群がるという二重苦だったのである。
各村から働き手を確保しても、この悪臭で収容作業を敬遠。賃金増額、酒まで供して、やっと作業が進むといった具合だ。それでも人手が足りず、とうとう獄中の者まで駆り出されたとか。
さて、これほどの深刻な被害を前にして。
11代当主「松平忠恕」は、一体、どのような行動に出たのか。
さすがに怪我はしていないだろうから、ここは腕の見せ所とばかりに陣頭指揮を執ったのか。それとも領民に寄り添う姿勢を見せたのか。それとも……。
『肥前温泉災記』より
右大山崩れにより御家中へも御ふれこれあり、北目筋へ引越すべき段仰せ渡ければ、同五日までに御家中北目へ引き退き、これにより国主も守山村庄屋方へ御立退きありける事、大方ならざる騒動、言語道断とぞ聞へけるなり。
(津田庄治編『肥前温泉災記の解説』より一部抜粋)
何度も目を疑ったが。
まさかの忠恕は島原城より退避。
それも「島原大変」の起こった翌日のことである。
4月2日(現在の暦で5月22日)、島原半島北側の守山村(現在の雲仙市吾妻町)の庄屋宅へ移ったというのである。

繰り返すが、城下は大混乱。
そんな中で、松平忠恕は出発。
藩主の移動となれば、諸道具一式を運ぶ人員も必要となる。各村も壊滅的な被害を受けているのだが、半ば引きずるようにして人夫を集め、守山村へと退避したのである。
どうして、また……。
なぜ自分だけ……?
そんな困惑の声が聞こえてきそうだが。
じつは、当時の島原半島は、「島原大変」後も未だ有感地震が続き、油断できぬ状況だったのである。忠恕も藩主自らが命を落としては、その後の復興もできまいと思ったのか。なかなか理解に苦しむ判断だが、とにかく我が身優先で動いたようだ。
4月5日(現在の暦で5月25日)。
またしても強い地震があり、守山村に移った忠恕も裏の畑に一時避難するほどだったとか。さらなる災害に備えるべく、忠恕は文書にて島原藩の政務所の移転と家臣らの避難を命じている。
これには藩内でも意見が分かれる始末。城を離れるのは武門の恥だという声もあれば、幕府から譴責(けんせき、現在の懲戒処分のようなもの)を心配する声も。藩主の命であったが、否定的な意見もあったようだ。
だが、忠恕の再三の要求もあって。
4月8日(現在の暦で5月28日)、藩の政務所ごと三会村の「景花園(けいかえん、城主の休息所になっていた場所)」に移動。併せて家臣らも退避している。
この措置に対して、馬廻役(うままわりやく、当主の護衛など)のひとりが憤怒のために割腹。死を以って抗議している。臣下への温情は有り難くも、城を捨てれば幕府からの責任追及は免れないと諫(いさ)めたのだが、その思いは叶わなかったようだ。
こうして藩主と多くの家臣らが去った島原城は、北門以外の門がすべて閉められた。留守の城代らが甲冑をまとい、騎馬姿で城の内外を警備したという。のちに家臣の二男や三男、浪人なども警備に自発的に加わったとされている。
藩主不在の中で、人も活気も失った城下町。
家屋は流出、社寺も壊れ、町は土砂で埋まり、見るも無残な状態のままで、ただ耐えるしかなかったのである。
そして、とうとうあの日。
冒頭でご紹介した4月19日(現在の暦で6月8日)がやってくる。
一時的だが、松平忠恕が島原の町に戻った日である。

そこで彼が目にしたのは、未だ復興などとはほど遠い島原の町であった。
言葉を失い、ただ涙を流す忠恕。
一説には「これは我が身に与えられた天罰だ」と、己の不運を嘆き悲しんだとか。
その日のうちに、忠恕は守山村へと戻る。
そして、翌日に病気を発症。次第に病状も重くなり、回復に向かわぬまま。
4月27日(現在の暦で6月16日)、避難先の守山で死去。享年51。
なお、死の理由は明らかにされていない。
「病気」によるものとされてはいるが、中には異説も。
『島原地変記』には、このような記述もある。
「……本年四月地震再来心を労すること少なからず……、四月十九日城内を巡視するや大手門前に至り、市街の災場を見て涙下り左右能く仰ぎ視るものなし、翌日にわかに病を発して危篤なり、或は云ふ幕府の譴責(けんせき)を恐れて自殺せりと」
(村山磐著『日本の火山災害:記録による性格調べ』より一部抜粋)
世間で「自死」の噂があったせいなのか。
忠恕の死は暫く公になってはいない。
公式発表は5月14日(現在の暦で7月2日)。3週間近く遅らせての発表であった。亡骸は発表の数日後に島原の「本光寺」で荼毘(だび)にふされたという。

さて、ここからは個人的な見解となる。
冒頭で、死の真相を探るには、彼の人生を知る必要があると言い切ったのだが。
結論からいえば、病死なのか自ら死を選んだかは、正直分からない。
ただ、宇都宮藩時代から島原藩時代の忠恕を追ってみて、思うのは。
ああ、疲れたんだなと。
疲れて頑張って疲れて頑張って……を繰り返してきたが。
ある時から、彼の人生は疲れて疲れて疲れて……の繰り返しになったように思う。
人生の波に揉まれながら。
それでも辛い宇都宮藩時代を耐え抜けたのは、思い描いた憧れの地があったからだろう。
あれほど夢にまで見た島原の地。
自然災害が何度起こっても、守り抜くと誓った故郷。
だが、彼に降りかかる災難はあまりにも多過ぎた。
そして、大き過ぎたのである。
このあまりの絶望的な状況に。
「藩主」という立場を忘れ一時的に逃げたと言われれば、そうかもしれない。
逆をいえば、それほどまでに追い込まれ、立ち直るまでの時間がほんの少しだけ必要だったとも解釈できる。
そして、18日後。
忠恕は再び覚悟を決めて、島原の地に舞い戻る。
そこで目にしたのは、見たこともない島原の町。
──「何もない」島原の町。
その瞬間。
心が虚無となり。
無意識に心と身体が連動した……。
いや、これ以上はやめておこう。
外野がどう推測しようとも、真実と言い切ることはできないだろう。
彼の最期は本人のみぞ知る。
ただ、確実なのは。
「松平忠恕」が悲運の藩主と言われるには、それなりの理由があったというコトだ。
ちなみに、その後の島原藩はどうなったのか。
同年5月20日(現在の暦で7月8日)より数日かけ、政務所は城下に戻されたという。
当然、島原半島の北側に避難していた役人らも城下に帰還。
領内の復興は、12代当主となる「忠馮(ただより)」が担うことになる。
取材後記
長崎県島原市内にある「瑞雲山 本光寺(ずいうんざん ほんこうじ)」。
その境内には、島原藩藩主の子女らを祀る「藩主松平家墓所」がある。

こちらに11代当主「松平忠恕」が祀られているのかと思いきや。
じつは、忠恕が眠るのは愛知県額田郡幸田町の「瑞雲山 本光寺」。
大永3(1523)年、深溝松平家初代当主「忠定」が松平家の祈願所、菩提寺として建立した寺である。
愛知県の本光寺の境内には、国の史跡となる「島原藩主深溝松平家墓所」がある。
御廟所は東西に分かれており、東御廟所には、深溝松平家6代から19代までの当主が埋葬されているという。ちょうど島原藩時代の当主たちだ。
一方で、西御廟所はというと。
初代から5代、そして11代「忠恕」が埋葬されている。
島原藩時代の当主の中で、なぜか彼だけは東御廟所ではないのだ。
どうして、11代当主「忠恕」だけ別の場所なのか。
実際に、愛知県額田郡の本光寺に問い合わせをしたところ、このような話を聞かせていただいた。
なんでも、島原藩時代の日々を記録した『島原藩日記』の中に、忠恕自身が違う場所に埋葬することを願ったと書かれているのだとか。
己の人生を振り返り、災難が多いから別の場所に埋葬してほしいと。
「厄」が伝播しないようにか、それとも別の理由があるからか。
彼の人生を振り返ると。
確かに、とんでもなく災難が多い人生だったように思う。
これは努力云々の問題ではなく、彼が背負う「運命」のせいなのか。
彼にまつわる話で、興味深いものがある。
忠恕の顔を見た老人が、とある言葉を残したというのである。
その相好を見た一老人は、よいかな明主、よく国家を治むれども、終生苦労まぬかれず、と言ったと伝えている。
(入江湑著『島原の歴史 藩制編』より一部抜粋)
──終生苦労まぬかれず
死ぬ間際、果たして彼はこの言葉を思い出しただろうか。
我が運命を恨めしく思っただろうか。
だとしても。
せめて死後だけは。
その苦労から解き放たれたと思いたい。
撮影/大村健太
参考文献
徳田浩淳 編 「宇都宮藩史 史料」 柏書房 1971年
入江湑 著「島原の歴史 藩制編」 島原市役所 1972年12月
長崎県史編纂委員会 編 「長崎県史 藩政編」 吉川弘文館 1973年
村山磐 著 「日本の火山災害:記録による性格調べ」 講談社 1977年11月
宇都宮市史編さん委員会 編 「宇都宮市史 第6巻 (近世通史編)」 宇都宮市 1982年2月
氏家町史作成委員会 編 「氏家町史 上巻」 氏家町 1983年
栃木県史編さん委員会 編 「栃木県史 通史編 5」 栃木県 1984年3月
島原市仏教会 編 「たいへん : 島原大変二百回忌記念誌」 島原市仏教会 1992年4月
津田庄治 編 「肥前温泉災記の解説」 (有)正文社印刷所 2005年10月
国⼟交通省九州地⽅整備局 雲仙復興事務所 「⽇本の歴史上最⼤の⽕⼭災害 島原⼤変」 2013年
宇佐美龍夫 著 「大地震:古記録に学ぶ」 吉川弘文館 2014年8月
山本博文 著 「改易・転封の不思議と謎」 実業之日本社 2019年9月
丸山淳一 著 「今につながる日本史」 中央公論新社 2020年5月
盛本昌広 著 「家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ」 株式会社KADOKAWA 2022年10月

