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2024.01.25

そのミステリーに仰天の顛末! 熊本県天草・明徳寺の「異人地蔵」「十字」の正体

この記事を書いた人

寛永14(1637)年。
始まりは、肥前国(現在の佐賀県、長崎県)「島原」と肥後国(現在の熊本県)「天草」で起こった一揆だった。だが、益田四郎時貞(天草四郎)を総大将に、最後は原城での籠城戦へ。俗にいう「島原の乱」である。

そんな「島原の乱」という表記が、近年改められている。
様々な視点から内容が見直され、新たに教科書などに採用されているのが「島原・天草一揆」という表記だ。

考えてみれば。
「島原の乱」という名称は、つい「天草」を置き去りにしてしまう。そんな事実を改めて突き付けられた今回の取材。

訪ねたのは、熊本県天草にある「明徳寺(みょうとくじ)」。「島原・天草一揆」で荒廃した天草を復興するために建てられた寺の1つである。

本記事では「異人地蔵」や刻まれた「十字」のマークなど、明徳寺にまつわる謎に迫りながら、おススメの見どころも含めて紹介する。

※本記事の「明徳寺」に関する写真は、すべて承諾を得て撮影しています

天草での一揆の爪痕

じつは「天草」は1つの島ではない。
熊本県南西部に浮かぶ120の島々の総称で、諸島である。主要な島と九州本土は5つの橋で繋がっており、陸路でも移動が可能。もちろん、アクセス方法は1つではなく、空路も航路もある。「島」なのだが、思いのほか行きやすい。

そんな天草諸島の一番大きい島、天草下島へ、今回は長崎県島原半島から「航路」で上陸した。30分ほどであっという間に「鬼池(おにいけ)港」に到着。実際に移動してみると、長崎県の「島原」と熊本県の「天草」は非常に近いことが分かる。

鬼池港に着くと、まずは「島原・天草一揆」のシンボルとなった「天草四郎」像が出迎えてくれた。彼の父は上天草市出身の小西家の浪人、益田甚兵衛(ますだじんべえ)。名前の通り天草出身というワケである。

鬼池港にある「天草四郎像」

この鬼池港からバスで30分弱の場所にあるのが、今回の取材先の「明徳寺」だ。だが、私には、取材先へと向かう前にどうしても行きたい場所があった。

かつては、教科書にも明記されていた「島原の乱」という名称。一揆勢が最後まで籠城した「原城」の場所が長崎県南島原市にあったことから、「島原」という単独の表記がメジャーとなった。かくいう私もこれまでの記事で連発、現在でも普通に使用されている。

ただ、始まりから終わりまで。
一連の流れでみると、「島原の乱」という表記は全体の一部でしかない。そもそもの始まりは、長崎県「島原」と熊本県「天草」の領民らが帯同して起こしたことにある。加えて、領主の過酷な年貢取り立てなどに対する「百姓一揆」の側面も含めて再評価され、表記が改められるようになった。

蚊帳の外とまでは言わないが。これまであまり注目されてこなかった「天草」での一揆の事実。その痕跡を、まずはこの目で見たかった。今は何も残っていなくとも、その地に立って、歴史に触れてみたかったのである。

なんでも取材先の明徳寺から目と鼻の先に激戦地跡があるという。明徳寺から1kmほど離れた「祗園橋(ぎおんばし)」周辺の一帯だ。

激戦地であったとされる祗園橋周辺

大通りから川沿いの道へと進むと、すぐに石造りの橋が見えてきた。橋の下を流れるのは「町山口川(まちやまぐちがわ)」である。

ちなみに、祇園橋そのものは「島原・天草一揆」とは関係がない。天保3(1832)年に造成され、祇園神社の前にあることから「祇園」という名前がついたとか。45脚の石柱で支えられおり、全国的に珍しい多脚式の橋だという。石造桁橋という工法で、国の重要文化財にも指定されている。

国の重要文化財である「祗園橋」 その奥に見えるのが「祇園神社」

ふむふむと橋を見てから、周辺を捜索。
来た道を戻ったところ、橋のすぐ手前に2つの石碑を発見した。

1つは激戦地跡を表す石碑。
その隣にあったのは、昭和の歌人「橋本徳壽(とくじゅ)」の歌碑である。

天草市有明町にある上津浦(こうつうら)から始まった、一揆勢と唐津藩の軍勢(幕府軍)の激突。一揆勢側に押され、唐津藩の軍勢は苓北町(れいほくまち)の富岡まで敗走すべく、この町山口川辺りに来たという。だが、土橋が切り落とされ、この付近で再度、激突したとか。両者共に多数の死者が出たため、町山口川は血の色に染まり、積み上げられた屍で川の流れが止まったという。

激戦地を表す石碑

今では、そんな面影など全く感じない。干満の影響だろうか、川の水位は低くどこにでもある風景の1つといえる。だが、造船技師でもあった橋本徳壽の歌碑を見ると、過去の出来事が甦る。

祗園橋のそばに立つ「橋本徳壽(とくじゅ)」の歌碑

島民たちは、残った無数の遺骸を、敵味方関係なく懇ろに祀ったとか。市内数ヵ所に地蔵を建て、これらを合祀したのが、高台にある城山公園、別名「殉教公園」の「千人塚」である。

これから向かう取材先は、城山公園を下った先にあるという。最後に、もう一度石碑を見てから、祗園橋周辺をあとにした。

天草初代代官「鈴木重成」が建てた明徳寺

「ここは元々お城跡なんですよ。『本戸城(ほんどじょう)』というお城があって。近くにある天草キリシタン館の場所が天守の方でね、この一帯にお城があったそうなんです」

向陽山明徳寺

こう話すのは、向陽山明徳寺24世ご住職の奥様。お寺のことなら住職より詳しいかもと、快く取材に応じてくださった。

明徳寺によれば、寺の創建は正保元(1644)年(寺の完成は正保3年、諸説あり)。本戸村郡代役所跡地に建てられた曹洞宗の寺である。尽力したのは、島原・天草一揆ののちに天領(江戸幕府の直轄地)となった天草初代代官「鈴木重成(しげなり)」。元々、大坂代官衆の1人として活躍していたが、島原・天草一揆の際に、松平信綱の要請を受け、鉄砲奉行として従軍した経歴を持つ。

当時の天草は、荒廃した土地だけが残るという悲惨な状況であった。寛永15(1638)年10月に酒井忠勝(当時の老中)に出された報告書によると、天草全体の約1/4の場所が亡所(作人がいなくなった地所のこと)となっていたという。

そんな天草復興の礎を、上方の代官と兼任しつつも12年間の統治で築いたのが、鈴木重成だ。天草への移民を増やすべく奔走し、島民目線での政策を打ち出した。結果的に、天草の人口は、一揆前から比較すると100年の間に約3倍にも増加したという。

天草信用金庫の敷地にある「鈴木三公」の銅像。中央が「鈴木重成」像。最期は石高半減を訴え自刃したともいわれていたが、近年、研究が進み「病死」である説が有力である

「開祖は、中華珪法(けいほう)禅師という方です。山口のお寺の方で。明徳寺を建てるにあたって、正三(しょうさん)和尚が偉い方を呼んできて開祖にしたらしいです」

開祖の中華珪法禅師は、山口県瑠璃光寺15代の禅僧。
そして「正三和尚」とは、鈴木重成の実兄だ。じつに大坂夏の陣では徳川秀忠軍の先陣を務めるなど武功もあったが、42歳の時に旗本の身分を離れて落髪し仏門へ。弟の重成が天草復興を任され、その縁あって彼も天草に合流。精神的指導者として島民に慕われたという。

「正三和尚がまずここにお寺を作って。天草に禅宗を広めるにはどうしたらいいかということで。鬼門の方角とかを考えて。本町に東向寺さんというお寺があるんですが。そこの場所が一番いいということで。そこを天草の総本山にしました」

つまり、明徳寺は復興の出発点となったワケだ。だからだろうか。明徳寺の山門には、かの有名な「双聯(そうれん、中国で、詩句を左右に分け壁や柱に掛けて飾る細長い板のこと)」が掲げられている。

明徳寺山門の双聯

この立派な双聯。東向寺天中和尚の書だという。達筆過ぎて全く読めないが、じつはなかなか激しい内容だ。書き起こすと以下のような対句となる。

「祖門英師行清規流通仏海之正法
 将家賢臣革敞政艾除耶蘇之邪宗」
(「明徳寺縁起」より一部抜粋)

「祖門英師」とは中華珪法禅師、「将家賢臣」とは鈴木重成を指すという。超意訳すると、仏法を広めて「耶蘇の邪宗(やそのじゃしゅう、キリスト教)」を除くという内容だ。先の「島原・天草一揆」には多くの天草のキリシタンが参加した。そんな天草復興を目指す重成や正三和尚らの禁教徹底の決意にもとれる。

ただ、一方で。
島民に寄り添いながら仏教への回帰を推し進めた重成に対して「鈴木はキリシタンに甘かった」と評する人も少なくない。厳格な文言は江戸幕府へのフェイクであり、実際の姿勢は微妙に異なるとの見方もある。

「ここに『耶蘇の邪宗』って書いてあるでしょう。随分前の話になるんですけれども、曹洞宗のご本山から偉い方が来られた時に、山門の双聯を見て『これはすぐ取り外しなさい』って言われたんです」

ちなみに、コチラの双聯は天草市の指定文化財だ。確かに現在では差別用語で一発アウトとなりそうだが、まさかの取り外し要請とは予想外だ。

「こんな差別用語を使ってはいけないと。いや、今差別してるんじゃなくて、昔にこういうことがありましたっていうことなんですって。私が1人言ったんですけど、他の人はね、みんな分かりましたって。まあ、私、お坊さんじゃないからね」

信じられない話だが。
こうして、実際に一定期間、明徳寺の山門から双聯が外されたという。だが、しばらくして見事復活。時期を見て、双聯は再度掲げられたのだとか。

「事実なんだから。これは残しておかないとって、また掲げました」

明徳寺本堂

ちなみに、双聯は雨ざらしで随分汚くなったため、現在は新しくレプリカを作って掲げているという。

「『絶対(レプリカって)後世には言っちゃいかんよ』って箝口令を敷かれたんですけどね。観光客が少なくなるからって」

正直な告白に、思わず苦笑した。
だが、よく考えると。レプリカだろうが、ホンモノだろうが双聯の内容に違いはない。当時のお上の考え方がよく分かる歴史的資料ともいえるのだ。

いつにも増して金色の字が輝いて見えたのは、そんな価値があるからかもしれない。

「異人地蔵」の正体とは

さて、明徳寺には幾つか謎がある。
私が取材先として選んだ理由でもあるのだが。その謎の1つが、山門に続く石段前のお地蔵様。通称「異人地蔵」である。

「異人地蔵」

確かに「異人」と呼ばれるだけあって、どことなく容貌が違う。目は大きく、鼻筋が通っており、異国風の顔立ちともいえる。

なんでも、天草初代代官の鈴木重成は人格者であったとか。「島原・天草一揆」終結の1年後、原城跡近くの八幡神社で、僧侶を集め亡魂供養の法会を行っている。その後も幾度か、島原、天草の両地で法会を実施。折に触れ、残った島民らに寄り添う姿勢を見せてきたという。そういう意味で、仏教回帰を推進すると同時に、彼らの逃げ道として「異人地蔵」を安置したのではないか。勝手ながら、そんな推理をしていたのである。

「じつは……そんなに古くないんですよ。 誰からともなく『異人地蔵』と言い出したらしくてねえ」

へ?
え?
古くない?

「古くないと言っても、100年以上ぐらいは経ちますかね。だから、じつはこっちがびっくりするぐらいに『えっ』て思いますよね(異人って?)。でも、見に来てらっしゃる方には悪いから言わないですけどね」

「異人地蔵」を真正面から

「ここ(明徳寺)に置きたいと、どなたかが作られて。けど、最初から『異人』のつもりで作られたどうかは分からないですね。そんな風に、私がお嫁に来た頃に近所のおじさんたちが言ってました」

どうやら、特定の方が寄進したという。要は「異人地蔵」という呼び名は、後付けみたいなものなのだ。私の推理は完全に外れ、鈴木重成の政策とは無縁のものだったようだ。

それでは、境内に入って本堂の左手。マリア観音を彷彿とさせる、お子様を抱いてらっしゃる観音様は……。

子育て観音像

「こちらも大体100年頃ぐらいじゃないですか。寄進された方のお名前が横に書いてあるので。もう全然私の知らない人ばっかりだから。皆さんで寄進をされたんだろうと。昔は子どもさんが小さくて亡くなる方が多かったですからね」

なるほど。それでは、山門に続く石段前の「異人地蔵」と反対側。不動明王と子安大師の仏像は……。

子安大師像

「あれは他所から連れてこられたの。普通の民家に祀られてたみたいですね。『お引越しして誰もいなくなるから、どうしたらいいでしょうか』と言われて。困ってらっしゃったから、ここが空いてるからどうぞって言って、置いてもらったんです」

久しぶりに、全てが空振りだ。
「異人地蔵」と当時のキリシタンとの関係は、ついぞ見出すことができなかった。私の妄想でしかなかったお粗末な推理。

「異人地蔵」とは、誰が言い出したのやら。実際に取材をしてみるものだと改めて実感した。

「十字」のマークの意味するもの

すっかり自信をなくしたが。
明徳寺にまつわるもう1つの謎。参道の「十字」のマークについて、最後に質問をぶつけてみた。

明徳寺参道の石段にある「十字」のマーク

「『十字』のマークは1つだけではなくて。2つ、3つあるんですよ」

へ?
え?
2つ、3つ?

一体、何の話をしているかというと。
明徳寺山門へと続く石段の一角に「十字」のマークが刻まれているという。じつは、この「十字」のマークを、当時の天草で「踏み絵」として利用していたのではないか。そんな情報を掴んだため、真相を訊いたのである。

ちなみに1つだけ。
こちらも取材前に「十字」のマークを見つけていた。もちろん私ではない。最近記事に登場しがちなカメラマンが、である。

だが、あまりにも小さいため、踏み絵にならないと判断。他の「十字」のマークを血眼で探していたのだ。

画像の中央。石面の上端にある「十字」のマーク。小さすぎて逆に踏みづらい?

「思いのほか小さくてね。私は、仮に本当に(十字を)刻んだにしても、どっちか分からないと思うんですよ。それを『踏み絵』として使用していたのか、あるいはキリスト教を捨てきれなかった人たちがこっそりお参りする対象としていたのか。どっちとも取れると思うんですよね」

なるほど。
そこには全く考えが至らなかった。確かに「踏み絵」にしては、小さすぎる。それに、絶対に通らねばならない場所に刻まれてはいない。正直なところ、見た瞬間に踏み絵としての実効性は薄いと感じていた。

だが、逆に。
キリスト教の信仰の対象としてなら……。
それこそ小さい方がいいのではないか。その可能性も全くないとは言い切れない。今回の取材で実感したが、伝承ほど不確かなものはないのだから。

ちなみに、私たちが見つけたのは「十字」のマークの下に「ニ」という文字があるモノだ。漢数字が書いてあるように見えなくもない。

「十字」のマークの下に「ニ」と表わされている謎のマーク

「あれは……何か聞いたことがありますよ。『ニ』じゃなくて、同じ長さで『=(イコール)』みたいな記号ですよね。確か、どこかのイエズス会のマークか何か……。いやあ、もう忘れてしまいましたね……」

明徳寺としては、いつ、誰が、何の目的で彫ったかも分からないという。

「『印をつけておいてください』という方もいらっしゃるんですけれども。探す楽しみもあるので。そのままにしています」

山門に鎮座されている十六羅漢像

「うちは、山門も2階造りで、珍しいんですよ」

取材の最後。
帰り間際に案内されたのは、山門の2階。

ご立派な山門だと何度も見上げていたのだが。恥ずかしながら、2階があることなど全く気がつかなかった。確かに、山門の上部にボリュームがある。装飾的な構造かとも思ったが違うらしい。

2階構造となっている明徳寺の山門

階段から2階へ上がることが可能。そのうえ、山門の2階には仏像があるという。ご好意により、ご尊顔を拝することができた。

「古い仏像さんなんですけれども、 彩色したので新しくなってます。十六仏、羅漢様ですかね。いつからいらしたのか……創建当時かどうかは分かりませんが、古いです」

彩色してから、まだ10年も経たないという。
実際に2階へ上がると、そこにはズラリと勢揃いした仏様のお姿が。その迫力もさることながら、様々なご面相にコチラは恐縮しっぱなしである。思いもよらぬ光景に、もうため息しか出ない。

十六羅漢像

「どこから撮影しても……目が合うんだが」とカメラマン。

まるで生きてらっしゃるかのような眼差しに、身がすくむ。2階があるコトにも驚いたが、そこにまさか。かような方々が鎮座されているとは。

ということは。
知らないうちに、我々参拝者は、十六羅漢像の下をずっと通っていたのだ。なんだか、覗いてはいけない秘密を知ったかのような不思議な気分である。

それにしても、一体、いつからいらっしゃるのか……。
またしても、明徳寺の謎が1つ増えてしまった。
果たして、謎が解ける日は来るのだろうか。

こうして、明徳寺の取材が終了した。

取材後記

「これは、一体……」
私たちは言葉なく、顔を見合わせた。

その十数分前のこと。
明徳寺の取材終了と共に、再度、私たちは大捜索を開始した。もちろん「十字」のマーク探しである。「踏み絵」なのか。「信仰の対象」なのか。はたまた、第三説の登場か。石段は、長方形の石が横に4列並べられ、それが上まで続く構造だ。かなりの数の石だとは分かっていたが、探さずにはいられなかった。

私は中腹辺りから、カメラマンは周辺一帯と下から。這いつくばり、素手で枯れた落ち葉を払いのけ、4列並ぶ石の表面をくまなく探し続けたのである。

そんななか、遥か下の方。石段の一番下の部分で、カメラマンが立ち止まった。

「これって『ニ』じゃないか?」と大声で叫んだ。

「十字」のマークではない? 「ニ」だけのマークを発見

ちなみに、偶然だが。
私がいる場所は「十字」のマークの下に「ニ」の文字が刻まれている、あの石の上であった。

およそ目測だが。
ちょうど10段近く離れている気がする。まさか……?

私は走って石段を下り、「ニ」のマークを目視で確認。やはり、下から数えて2段目の石に刻まれていた(※数え方によって段数が前後する可能性あり)。とすると、「十字」のマークとその下に「ニ」がある段は……。声を出して数えながら石段を上がる。9、10、11……。

「『12段』いや、『11段』か?」

4列の石のうち、左から2列目の石に刻まれている「十字」と「ニ」のマーク

数え方によっては11段とも12段ともなる。まあ、だいたい、それくらいの段数だ。色々、ロジックをこねくり回していたが、もっとシンプルなからくりの可能性に思い当たった。ひょっとして、ただの数字なのでは……?

「ここにもあるぞ!」
気付けば横の石の上を凝視するカメラマン。手すりを挟んだ同じ段の横の石に「十字」のマークと「一」を発見。私たちは顔を見合わせた。偶然ではない。石の左端上部に小さな同じマークがある。

4列の石のうち、左から3列目の石に刻まれている「十字」と「一」のマーク

瞬時に、私は左に、カメラマンは右に動いた。「十字」と「一」や「ニ」のマークが刻まれているのは、横に4列並んだ石の真ん中の2つである。だったら、両端の石にも同じマークが刻まれているのでは。互いにそう思ったのだ。

案の定、推理は当たった。
4列並んだ石の一番左端の石にも、同じマークを発見。

4列の石のうち、一番左端の列に刻まれている「十字」と「ニ」のマーク

だが、ここまでだった。
一番右端の石は表面が削れ、マークを確認することができなかった。

そういえば。
取材の最初に出てきた話は、確かここが城跡だったという内容だ。ふと、城の石垣として積まれる石に数字を刻む場合があることを思い出した。もちろん、数字が刻まれたという証拠も、その石が石段として使われたという証拠もない。だが、なくはない。1つの可能性としてなら挙げることはできる。

「踏み絵」としての「十字」のマークなのか。それとも、隠れた信仰に使われたのか。はたまた、ただの漢数字なのか。謎は深まるばかりである。

私に言えるのはただ1つ。
この極上のミステリーを、是非ともその目で確かめていただきたい。

写真撮影:大村健太
参考文献
『島原の乱とキリシタン(敗者の日本史14)』 五野井隆史著 吉川弘文館 2014年8月
『天草島原の乱とその前後 (上天草市史)』  鶴田倉造著 地方・小出版流通センター 2005年4月
『天草島原一揆後を治めた代官 鈴木重成』 田口孝雄著 弦書房  2019年6月
『鈴木重成とその周辺 : 天草を救った代官 : 鈴木重成公没後三五○年記念事業特別展』 鈴木重成公没後三五○年記念事業実行委員会 天草民報社 2003年10月
『長崎と天草の潜伏キリシタン 禁教社会の新見地』 安高啓明編 雄山閣 2023年1月
『新編大村市史』第三巻 大村市史編さん委員会著 大村市 2015年3月
『踏絵・かくれキリシタン』 片岡弥吉著 智書房 2014年9月
『踏絵を踏んだキリシタン』 安高啓明著 吉川弘文館 2018年6月
『近世潜伏宗教論―キリシタンと隠し念仏』 大橋幸泰著 校倉書房 2017年3月

基本情報

名称:明徳寺
住所:熊本県天草市本渡町本戸馬場1148
公式webサイト: なし