幕末・維新という激動の時代に、高須松平家から出た4人の人物が新政府方、幕府方に分かれて戦った。彼らは美濃高須藩主の息子たちであったことから「高須四兄弟」と呼ばれている。激動の時代を彼らがどのように生き、どのようにピンチを切り抜けたのか。その生きざまを追った。
高須藩ってどんな藩?
高須藩の石高は3万石で、美濃国海西郡・石津郡と信濃国(長野県)伊那郡にそれぞれ1万5千石を領有していた。小藩だったが尾張徳川家のご連枝(れんし)だったので、格式は高かった。ご連枝とは分家のことで、高須松平家は本家である尾張徳川家本家に嗣子(しし ※あととり)がいない場合は当主として養子を出す家柄だった。
また、江戸に常住する「定府(じょうふ)」の大名だったため参勤交代も免除されていた。江戸から藩庁のある美濃国高須までは遠く、旅をするには費用もかかることから、領地には一生のうちで一度「国入(くにい)り」すれば良いほうだった。藩主が不在でも領内は国元の家老や代官によって統治され、家臣が交替で江戸と国元を行き来して政務にあたっていた。国元の高須からは時々、鯉や鮒などの産物が藩主の元へ献上されたという。
高須松平家の領地があった岐阜県海津市は同県の西南端。木曽三川と呼ばれる揖斐(いび)・長良・木曽川の下流にあり、伊勢湾から河口を遡ること約13㎞。三重県桑名市に隣接し、名古屋駅までは車で約30分だ。大昔は遠浅の海岸線が濃尾平野のかなり奥まで入り込んでいたようで、縄文時代の貝塚も残っている。海津市高須にはかつての藩庁であった高須陣屋跡がのこり、現在は公園や海津明誠(めいせい)高校などの敷地になっている。


高須松平家の血脈
初代高須藩主となったのは、尾張藩二代徳川光友の二男義行(よしゆき)である。彼は三代将軍徳川家光の外孫(他家に嫁いだ娘から生まれた孫)でもあった。義行は松平の姓を与えられ、四谷に屋敷地を与えられたことから「四谷家」と呼ばれた。このほか三男で陸奥(むつ)国梁川(やながわ)藩主の義昌(よしまさ)が「大久保家」、十一男の友著(ともあき)が「川田久保(かわだくぼ)家」を興した。このうち大久保家と川田久保家は早々に絶家となり、四谷家のみが高須松平家として幕末まで存続。明治3(1870)年に名古屋藩に併合されて廃藩となった。現在もその血脈は続いている。
国元における歴代の墓所は、養老山地の中腹にある行基寺(ぎょうきじ)にある。


高須四兄弟、それぞれの幕末・維新
新政府方(慶勝・茂栄)VS幕府方(容保・定敬)
高須四兄弟とは高須松平家10代・松平義建(よしたつ)の息子たちのうち、二男の慶勝(よしかつ)、五男の茂栄(もちはる)、七男の容保(かたもり)、八男(異説あり)の定敬(さだあき)である。彼らは異母兄弟で、全員高須藩の江戸上屋敷で生まれている。
義建には正室の規姫(のりひめ)はじめ少なくとも4人の妻がいて、11男9女(異説あり)の子だくさんであった。しかし、その多くは未成年のうちに亡くなり、無事に成長した4人は尾張徳川家はじめ親戚筋に当たる大名家と縁戚関係を結んでいった。
高須四兄弟のうち、新政府方についたのは尾張徳川家の14代・17代を継いだ徳川慶勝、高須松平家11代・尾張徳川家15代・一橋家を相続した徳川茂栄だ。これに対し旧幕府方として最後まで戦ったのは会津藩主の松平容保、桑名藩主・松平定敬である。彼らはそれぞれの立場で自分の信じる道を歩み、その結果、さまざまなドラマが生まれた。


-851x1024.jpg)
写真が趣味のハイカラ大名 朝廷と幕府の板挟みになりながらも自分の責務を果たした徳川慶勝
徳川一門の重鎮として東奔西走 尾張藩内の佐幕派家臣を粛清
まず徳川慶勝である。1824(文政7)年に高須松平家の二男として誕生し、1849(嘉永2)年に尾張徳川家14代当主となった。後に徳川幕府最後の将軍となった慶喜は、母方のいとこにあたる。
彼にとっての最初の大事件は、大老・井伊直弼に対する抗議行動だろう。1858(安政5)年、日本はアメリカとの間に日米修好通商条約を結んだ。ところがこれは関税自主権を喪失し、治外法権が容認されるなど、日本にとってたいへん不平等な条約であり、国内で猛反発を招いたうえ攘夷運動の引き金となった。
調印に際し、慶勝は叔父の徳川斉昭らと共に不時登城(ふじとじょう)を敢行した。不時登城とは定まっていない日に大名が無断で江戸城に登城することをいう。これは勅許(ちょっきょ ※朝廷の許可)を得ないまま、日米修好通商条約を結んだ直弼への抗議だった。しかし、この事件は幕府の秩序を乱したとして慶勝は隠居させられた上、蟄居(ちっきょ ※閉門の上、自宅の一室に謹慎させること)を命じられてしまう。つまり、実質的なリタイアであり、政治の表舞台には立てなくなってしまったのである。
1860(安政7)年、桜田門外の変が勃発し、大老・井伊直弼が暗殺されると状況は一変。慶勝は復権を果たし、再び政局に関与するようになる。だが、慶勝がリタイアさせられた後、実弟の茂栄(当時は茂徳「もちなが」)が尾張藩主になっている。これが原因で尾張藩家臣団に分裂を引き起こすのだが、これについては茂栄の項で述べることにしよう。
さて政局に復帰した慶勝は、禁門の変(蛤御門の戦い)後に起こった第一次長州征伐では討伐軍総督となるなど、幕府方の重鎮として活躍。1867(慶応3)年、15代将軍・徳川慶喜により大政奉還が行われると、上洛して明治新政府の要職である議定(ぎじょう)に任ぜられた。そして同じく議定となった越前福井藩主・松平春嶽(まつだいら しゅんがく)と共に、慶喜に対し辞官納地(じかんのうち)を通告する役割を担った。辞官納地とは、慶喜が内大臣という官職を辞任し、二百万石という徳川家の領地を返上することである。これは実質的に徳川幕府を無力化し解体しようとするものであった。
尾張徳川家には藩祖・徳川義直が著したとされる『軍事合鑑』という家訓書があり、それによると武家と朝廷が争った場合には必ず朝廷側に付くようにと述べられていた。とはいえ、慶勝はさぞ悩んだことだろう。だが新政府の要職にある以上、命令に背くことは許されない。背けば二心を疑われる。役目を引き受けたのは苦渋の決断だった。
慶喜に対する辞官納地の通告は、事態を鎮静化させるどころか幕府に味方する武士たちを激怒させた。その結果、新政府軍VS旧幕府軍の対立が激化して1868(慶応4)年に鳥羽・伏見の戦いが勃発。戊辰戦争の始まりである。

新政府は鳥羽・伏見の戦いで敵に回った諸藩を「朝敵」として、第一等から五等に分けた。その結果、第一等が徳川慶喜、第二等は会津・桑名藩となった。両藩の藩主は慶勝の弟、容保、定敬である。
その直後、京都にいた慶勝に「姦徒誅戮(かんとちゅうりく)」の命が下った。慶勝は急きょ尾張に戻り、藩内の佐幕派(旧幕府方)を一掃。斬首14名、処罰は20名に及んだ。これは「青松葉事件」と呼ばれているが、事件の背景についてはよくわかっていない部分もあるようだ。あくまで私見だが、これも新政府側が慶勝に与えた踏み絵ではなかったかと思う。前尾張藩主であった慶勝が本当に新政府側に味方するのかどうかを試すために、自らの手で藩内の佐幕派家臣を粛清させたのではないだろうか。
慶勝は維新後に再び尾張徳川家十七代当主となった。そして、朝敵となってしまった弟たちを救うため、裏から新政府に働きかけている。

将軍・慶喜に似て趣味は写真 貴重な幕末の日本を後世に遺した慶勝
将軍・慶喜が多芸多才で、中でも写真好きであったことはよく知られているが、いとこの慶勝も多趣味で大の写真マニアだった。撮影のみならず現像液の作製から写真技術に至るまでたいへん熱心に研究し、たんなる殿様の趣味の域を越えていたと思われる。
1861(文久元)年9月には戸山屋敷御殿内での自撮りに成功。以来数種類の肖像写真を残しており、慶勝が撮った写真は歴代の肖像画を残さなかった尾張徳川家の一族を知るうえでの貴重な資料となっている。慶勝が撮った高須四兄弟の写真も残っていることから、親族を片っ端からモデルにしていたのかもしれない。ほかにも名古屋城内や江戸の市井など歴史的史料価値が高いと思われる写真を数多く残している。
高須藩・尾張藩・一橋家と三つの家を相続 将軍・家茂(いえもち)から実の父親のように慕われた一橋茂栄
時代が大きく動くときは人の運命も大きく変化する。高須松平家の五男として生を受けた茂栄も、まさに時代に翻弄された生涯だった。
1850(嘉永3)年、病気で引退した父に代わって高須松平家11代当主となるが、1858(安政5)年に兄の慶勝が大老・井伊直弼に対する抗議行動を咎(とが)められて隠居させられると兄に代わって尾張徳川家の当主となる。この時将軍・家茂から一字を拝領して茂徳(もちなが)と名乗るようになる。
しかし2年後、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると兄が復権。藩内は藩主・茂徳に付く者と前藩主で兄の慶勝側に付く者とに二分される。弟という立場上、茂徳は気苦労が絶えなかったにちがいない。
1863(文久3)年、茂徳は幕府から隠居を命じられ、家督を慶勝の三男に譲り「玄同(げんどう)」と号するようになった。その後、徳川家茂の信頼を得るようになり幕政に関与。1866(慶応2)年には兄の慶勝や弟の松平容保らの斡旋で、御三卿(ごさんきょう)のひとつである一橋(ひとつばし)家を相続し、名を茂栄と改めている。御三卿とは徳川吉宗によって創設された徳川将軍家の親族で、御三家と異なり立藩はしていなかった。ほかに田安家と清水家があり、御三家に次いで高い家柄だった。
茂栄は、家茂から実の父親のように慕われていたという。当時はイギリス、フランス、オランダの連合艦隊が兵庫沖に侵入し、安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫るなど、幕府は窮地に立たされていた。茂栄は苦悩する将軍・家茂と朝廷の間に立って問題を解決するために尽力。年若い家茂にはこの時の茂栄の働きがよほど嬉しかったのだろう。
茂栄も江戸留守居(るすい)役として家茂のそばを離れると、自ら陣羽織姿の家茂の肖像画を描くなどして家茂を偲んでいた。しかし、家茂は1866(慶応2)年に大坂城で病に倒れ、死去。享年20という若さだった。
茂栄は朝敵となってしまった徳川家存続のために、数多くの嘆願書を提出している。会津藩や桑名藩からも、藩主である容保や定敬の助命嘆願への助力を要請された。ふたりは血を分けた弟たちである。茂栄は自ら駿府に赴き、新政府側の大総督(だいそうとく)である有栖川宮(ありすがわのみや)に、直接徳川家存続を願い出たという。
また廃藩置県の際に1432人の家臣に暇を出すことになると、茂栄は彼らと盃を交わして別れを惜しんだ。そしてその後も旧家臣たちの処遇について嘆願を繰り返したという。人間関係に苦労したであろう茂栄は情に篤い人柄だったのかも…

会津藩主として新政府軍に徹底抗戦 京都守護職として新選組を配下に反幕府方勢力を鎮圧した松平容保
モテモテだった美貌の貴公子 大河ドラマ『八重の桜』では綾野剛が好演
高須四兄弟の中で一番知られているのが、2013年の大河ドラマ「八重の桜」で綾野剛が好演した松平容保ではないだろうか。
容保の幼名は銈之允(けいのすけ)。1835(天保6)年に生まれ、11歳で会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となった。会津は遠いし、高須松平家とは縁もゆかりもなさそうだが、容敬は容保の実父・義建の弟。つまり、叔父さんだった。会津藩は2代続いて藩主が高須松平家から養子に来たことになる。
若き日の容保はシュッとした美貌の貴公子。会津藩の家中はもとより、後に京都守護職として宮中に参内した時は女官たちに騒がれたらしい。キャーキャーという黄色い声が聞こえてきそうだ。
1852(嘉永5)年、17歳の容保は会津28万石の9代藩主となる。この時若き藩主は、自分に降りかかる運命の過酷さを予想していただろうか。

幕政に関与 京都守護職となり京都へ
1862(文久2)年、28歳の容保は将軍・家茂から幕政に参画し、アドバイスやサポートを行うように命じられた。そして京都の治安悪化に伴い、新設された京都守護職を拝命する。この時容保は病床にあって家臣の反対もあり、守護職拝命を断り続けていた。しかし、将軍の後見職にあった越前国福井藩主の松平春嶽(まつだいら しゅんがく)や幕臣たちが日夜訪れて説得したため、とうとう容保も折れたという。
会津藩はもともと外様(とざま)だったが、江戸初期の三代将軍・家光の異母弟にあたる保科正之(ほしな まさゆき)が藩主となったため、親藩となった。正之は二代将軍・秀忠の御落胤(ごらくいん)である。表立っては正妻の江(ごう)しか妻を持たなかったとされる秀忠だが、実際にはほかの女性との間に設けた子どもがあった。そのひとりが保科正之で、彼の誕生はごく一部の家臣しか知らない秘密だった。後に父の秀忠や兄の家光らとも対面を許されている。
1643(寛永20)年に会津藩主となった正之はたいへん有能で、兄の家光、甥の四代将軍・家綱の良きサポート役であった。正之は将軍家から引き立ててもらった恩を忘れず、「将来にわたり、何が何でも徳川将軍家を大切にしなければならない」として、藩士たちに徳川将軍家への絶対的忠誠を誓わせる「家訓(かきん)」15カ条を定めている。
会津藩では代々この家訓15カ条を精神的な支柱として、徳川家に忠誠を誓って来た。幼い頃に会津藩に入った容保は会津藩の家風を繰り返し聞かされて育ったことだろう。ほかの藩も将軍家と会津藩の特別な関係を知っていたからこそ、京都守護職の任を容保に負わせようとしたに違いなかった。思えばこの時から会津藩の悲劇は始まっていたといえるかもしれない。
会津藩と新選組
1862(文久2)年の暮れ、容保は藩兵千人を引き連れて、京都守護職に着任した。金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を本陣として、京都の治安を守る活動を始めた容保は、孝明天皇からの信頼も篤かったという。
一方江戸では将軍・家茂の上洛に合わせ、警護をするための浪士組が結成された。この中に後に新選組を結成する近藤勇や土方歳三、芹沢鴨(せりざわ かも)らがいたのである。浪士組には腕に覚えがありさえすれば身分を問わず参加できたため、約200名もの応募があった。名目上は将軍の守護だったが、中には急進的な尊王攘夷論者もいて分裂。京都に残った近藤らは「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」を名乗り、会津藩預かりとして壬生村にあった八木邸や前川邸などを拠点に活動。後に素行の悪かった芹沢一派は一掃されて、会津藩御預(おあずかり)の下、近藤勇を局長、土方歳三、山南敬助(やまなみ けいすけ ※後に総長となるが脱走したことで切腹)を副長とする「新選組」が誕生した。「新選組」という名前は容保が命名したという説もあるが定かではない。
会津藩と新選組は主従関係にあり、特に近藤勇や土方歳三は容保から篤い信頼を受けていた。徹底抗戦を決めた容保とともに、彼らも幕府方として戊辰(ぼしん)戦争を戦い抜いたのである。土方は近藤が流山(千葉県流山市)で捕らえられて斬首された後も会津から函館へと転戦し、函館で戦死した。隊士の1人であった斎藤一(さいとう はじめ)は最後まで会津に残って戦い、戦後は会津藩の女性と結ばれ、会津若松に骨を埋めている。
会津藩は会津戦争で孤立無援の籠城戦を展開。白虎隊のような少年藩士や女性だけで構成された娘子軍(じょうしぐん)の悲劇などもあり、1ヶ月あまりの後、新政府軍に降伏した。

戊辰戦争後の容保
容保の処分を巡っては相当紛糾したようだが、郊外の寺で謹慎の後、江戸に送られ、鳥取藩邸で幽閉された。1870(明治3)年には息子の容大(かたはる)が青森県の斗南(となん)に領地を与えられ、家名が再興された。容保は1880(明治13)年から日光東照宮などの宮司を任じられ、晩年までその職にあった。幕末維新とあまりにも多くの血が流されたのを見て来た容保にとって、神に仕える道は心安らぐ場所だったかもしれない。1893(明治26)年に死去。今は会津若松市にある松平家廟所に眠っている。
容保は孝明天皇からたいへん信頼されており、天皇に対する思いも篤かった。新政府軍に逆らったことで朝敵とみなされてしまったが、それは容保の本意ではなかったに違いない。はたしていかなる思いを抱えていたのか。晩年も戊辰戦争について一切語ることはなかったという。


会津藩・一橋家・桑名藩で「一会桑」を確立 最後まで戦った四兄弟の末弟・松平定敬
京都所司代として、京都で過ごした激動の青春時代
高須松平家から桑名藩の婿養子となり、藩主となった松平定敬は親戚の一橋慶喜、兄で会津藩主の松平容保とともに、「一会桑(いっかいそう)」という政治体制を確立した。「一会桑」とは一橋家・会津藩・桑名藩を指し、幕末の京都を主導した政治体制をいう。
弟の定敬は最初、父が受け持っていた京都警衛を引き継いでいたが、容保が京都守護職につくと、1864(元治元)年には定敬も京都所司代に就任した。定敬は19歳。青春真っ盛りの時期であった。
京都所司代とは、江戸時代に京都の治安を維持し、朝廷や公家、西国大名の監視などを担った役職である。幕末には新しく制定された京都守護職の下に置かれている。定敬は最後の京都所司代を勤めた。そして兄・容保とともに京都の警護にあたり、まさに激動の青春を京都で過ごしたのである。この経験がその後の定敬に及ぼした影響ははかりしれないものがあるだろう。
函館の五稜郭まで戊辰戦争を戦い抜いたど根性
鳥羽・伏見の戦いで敗れ、将軍・慶喜らと江戸に戻った定敬だが、この時、藩主不在の桑名藩は新政府に対する恭順(きょうじゅん)の意を示していた。恭順とはおとなしく命令に従うことをいう。しかし、定敬はあきらめなかった。桑名藩の飛び地であった現在の新潟県柏崎に船で渡り、会津へ移動。兄・容保と再会を果たし、その後は仙台から旧幕府軍の指揮官・榎本武揚(えのもと たけあき)らと共に函館へ渡る。そして官軍による函館攻撃を目前に脱出し、市ヶ谷の尾張藩邸に出頭した。定敬の戊辰戦争は終わったのである。
戊辰戦争の汚名返上か?! 西南戦争に遠征
1877(明治10)年には旧薩摩藩の西郷隆盛を盟主にした士族の反乱(西南戦争)が起こると、定敬は志願して出征。今度は官軍として戦った。定敬に従った旧桑名藩士は約350名にものぼったとされる。定敬にしてみれば、戊辰戦争ではからずも朝敵となってしまった桑名藩の汚名返上ということもあったのだろう。
その後は兄・容保の後を継いで日光東照宮の宮司となっている。1908(明治41)年没。享年62であった。

英語を学び渡米も経験
函館戦争時に撮影したという定敬は洋装で総髪。なかなかオシャレである。函館戦争終結後も国外脱出をはかるつもりだったといわれており、赦免後は英語を学んで渡米するなど、海外への関心はとても高かったようだ。もう少し後に生まれていたら、海外に出て実業家として活躍していたかもしれない。

四兄弟の再会
それぞれの幕末・維新を生き抜いた四兄弟が再会したのは1878(明治11)年8月。亡父・松平義建の17回忌の席であった。その後4人は銀座の二見朝隈(ふたみあさくま)写真館で記念写真を撮影している。
あらためて四兄弟の写真を見てみよう。
-851x1024.jpg)
この時、慶勝は55歳、茂栄は48歳、容保は44歳、そして定敬は33歳だった。撮影代は4人でワリカンにし、この後、慶勝の屋敷に行って会食したという。4人はいったいどんな話をしたのだろうか。幕末・維新は彼らにとっては辛く悲しい出来事も多かったはずだ。時が癒してくれたのだろうか。
戊辰戦争後には兄弟間の交流も復活したようで、写真に対する関心が高かった慶勝と茂栄は写真技術に関する情報交換などをすることもあったらしい。
1883(明治16)年、慶勝没。その翌年には茂栄も亡くなっている。そして、容保は1893(明治26)年、定敬は1908(明治41)年に死去している。四人が一堂に会しての写真はこれ1枚が残るのみである。
取材:木曽三川輪中ミュージアム(旧海津市歴史民俗資料館)
写真提供:行基寺蔵・木曽三川輪中ミュージアム(旧海津市歴史民俗資料館)提供
参考文献:『高須四兄弟』(新宿区立 新宿歴史博物館 平成26年度 特別展)ほか

