伊達政宗も夏目漱石も。なぜ日本人は「月」に心を奪われるのか?

伊達政宗も夏目漱石も。なぜ日本人は「月」に心を奪われるのか?

伊達政宗の辞世の句がシビれる。「曇りなき心の月を先だてて 浮世の闇を照らしてぞ行く」。穏やかに澄み渡った、静かで美しい光景が目の前に浮かんできそうである。
政宗の鎧兜も実にシビれる。漆黒の中で黄金に輝く、鋭い三日月の前立て。デンキウナギの数百倍の威力がありそうである。

しかし残念ながら、本記事はこのイケメン様がテーマではない。「月」である。申し訳ない。

伊達政宗に限らず、日本人は古くより月を愛でてきた。和歌に詠まれ、かぐや姫の故郷とされ、月見をしながら月見酒、月見団子、月見そば、月見バーガー……いったん落ち着こう。まったくおやつ時に原稿を書くものではない。

聞くところによると、ロシア人は月を見ないのだという。もちろん物理的に存在しないのではなくて、単に見ない、というのだが、そういえば日本人はどうしてこんなに月が好きなのだろうか。

文学や芸能に見る月

「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも」「秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ」「朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里に降れる白雪」など、和歌には月が多数詠まれている。
「いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな」など、恋の歌にも月はよく見られるが、恋人の来訪を待つ女性が夜空の月を見上げている、という光景は、それだけでなかなかに雅なものである。

歌舞伎『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』の名台詞には、「月も朧に白魚の 篝も霞む春の空」という一節がある。これは少々物騒なシーンではあるのだが、台詞の光景としては美しい。

江戸時代の俳人・小林一茶の「名月を取ってくれろと泣く子かな」などは微笑ましくその光景を思い浮かべるが、様々な文化芸能に顔を覗かせる月が、それだけ日本人にとって身近だということがよく分かる事例でもある。

中島敦の『山月記』、萩原朔太郎の『月に吠える』など、作品流通の上で重要な役割を担う題名にも月が貢献している。

また、作品ではないが、かの文豪・夏目漱石が「I love you」を「月がきれいですね」と訳したという逸話も残っており、日本人にとって月を見るのはごく自然なことであることが知れる。まあ実際の会話でそうした使い方をするかどうかは別の話だろうが……

月にまつわる風習

普段あまり自然に親しむ習慣がなくても、お月見はする人も多いのではないだろうか。すすきと月見だんごを飾り、月見酒を飲む。花より団子的な要素もなきにしもあらずかもしれないが、とりあえずはきれいな月を眺めて愛でる行事である。

お月見の歴史はかなり古い。中国由来の行事だが、奈良時代にはすでに日本で行われていたという。旧暦9月15日の「中秋の名月」が有名だが、9月13日の「十三夜・栗名月」も昔は行われており、この日には枝豆や栗も一緒に供えていた。

また、1ヶ月の中で月が満ち欠けしていく姿にも、それぞれ名前がつけられている。

【新月・つごもり】陰暦の30日ごろ
【三日月】3日ごろ
【七日月】7日ごろ
【十日余(とおかあまり)の月】11日ごろ
【十三夜月】13日ごろ
【望月・満月】15日ごろ
【十六夜月(いざよいづき)】16日ごろ:「いざよい」=なかなか進まない、という意味。
【立待月(たちまちづき)】17日ごろ:日没後、立って待っていても月が出てくる時期。
【居待月(いまちづき)】18日ごろ:月の出が遅いため、座って待つ時期。
【臥待月(ふしまちづき)・寝待月(ねまちづき)】19日ごろ:月の出がかなり遅いため、臥して(寝て)待つ時期。
【更待月(ふけまちづき)・宵闇月(よいやみづき)】20日ごろ:夜も更けてから月が出てくる時期。
【二十日余の月】22日ごろ
【二十三夜月】23日ごろ

※日付はすべて陰暦が基準

この他、日没前後に見える月の総称「夕月(ゆうづき)」、明け方にまだ残っている月「有明の月」、円の半分の月の形「弦月(げんげつ)」・「弓張月(ゆみはりづき)」などもある。

どれだけ月が好きなのか、と思ってしまうが、確かに太陽を直接見上げると目がちかちかしてしまう(視力にもよろしくないらしい)。空を見上げて愛でるのは、やはり月が最適である気がする。関係ないか。

月にまつわる伝説・神話

月でうさぎが餅つきをしている、というのはよく知られている伝承だろう。インド発祥の仏教由来とされ、仏をもてなすために自ら炎に飛び込んだうさぎを仏が哀れみ、月に上げた、という説話から来たものだそうである。

海外では、月の模様が仙女やヒキガエル(中国)、カニや女性、編み物をするお婆さんなどにも見られている。

『竹取物語』のかぐや姫も、月の住人であった。罪を犯して穢れた地上に下ろされた、というのだが、月がこの地上よりも清らかな場所であったという思想が見て取れる。また、月は不老不死の力を持つとされ、そうした考え方はかぐや姫が贈った不老不死の薬を富士山(不死に通じる)で焼き捨てる、というエピソードにも反映されている。

ツクヨミ神と月読神社

ではなぜ、日本では月が清らかな場所であると考えられたのか。

その理由の1つとして、「ツクヨミ神」の存在が挙げられるだろう。『古事記』によると「ツクヨミ神」は日本の国土と多くの神々を生んだイザナギノミコトが禊をした際に右目から生まれた神とされ、夜の国の統治を命じられている。また、三種の神器の1つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」はこのツクヨミ神を表しているのだそうだ。ツクヨミ神は全国85社の月読神社(社名は「月読宮」「月読神社」「月夜見神社」「三日月神社」「月弓社」など多数)に祀られている。

なお、伊勢神宮の月読宮も、このツクヨミ神の祀られている神社なのだそうだ。

諸外国の月文化

欧米諸国でも月を神格化した例は見られる。ギリシャ神話のセレネー・アルテミス・ヘカテ、ローマ神話のルーナ・ディアーナなどがそれである。しかし、月探査、月への旅行といったことほどには、月の「鑑賞」には興味を抱かないようなのだ。無論、まるで興味がないということでもないようだが、口説き文句で「月がきれいですね」などといった台詞を発する状況にはあまりないように思える。

すべての原因がこれであるとは言えないが、その一端となっているのが「月が人間に狂気をもたらす」と考えられていたことだろうか。英語の「ルナティック」は狂気の状態にある人を指すが、これは月の「ルナ」と関連した単語である。北欧やイヌイット・アイスランドにおいては、妊娠に関連して女性が月を見ることを禁忌とする風習もみられる。

ただ、「狩猟月」「収穫月」といった収穫祭にあたる満月の日の行事は存在し、また、ベートーヴェンの『月光ソナタ』、ドビュッシーの『月の光』など、作品のモチーフとしても月は見られる。

イスラム圏やパラオの国旗には月が描かれているものもあり、収穫など実りの象徴とされているケースも見られる。また、アジア圏には日本と同様の月を愛でる慣習が存在する。

月と人体

現在では太陽暦が使用されており、月の動きと暦とを強く関連付けて生活することはあまりないかもしれない。しかし、想像以上に人間は月と密接な関係にあるとも言われる。

大潮、というものがある。海の干満の差が大きくなる現象で、潮干狩りなどが行われる日だが、あれは月の引力を受けて生じる現象である。それが人間の生理現象や精神にも影響を及ぼすのだという。

生活リズムなど、1日単位で考えると太陽の影響が大きいが、満月の日には狼男が変身するという物語もあったりする。事故や事件が増える、といったことの科学的裏付けは現状ないようだが、やや情緒不安定になる、といった現象は存在するそうだ。満月の晩ならば、わたくしも月に吠えても許されるのでせうか、朔太郎先生。いや、かの詩集の2編のごとく、当局に削除されそうである。

かぐや姫、急増中

旧暦の人気が高まってきているという。昔ながらの行事も、旧暦で考えると季節感が合っていてとても風情がある。
月の動きが基準になっている旧暦、あなたも旧暦カレンダーを部屋にかけて、「月」に帰ってみては。

伊達政宗も夏目漱石も。なぜ日本人は「月」に心を奪われるのか?
この記事をSNSでシェアする
この記事をSNSでシェアする