「夫は世間じゃ知らない人がいないってぐらいの有名なカリスマ武将なのに、私は名前さえちゃんと伝えてもらえていないなんて…」。
もし現代に甦ったら、そんな風につぶやいたかもしれません。それは誰かといえば、織田信長の正室「濃姫」です。
歴史に関心がない人でも「濃姫」の名前は知っている人が多いと思いますが、実はこれは本人の名前ではなく、「美濃から来た姫」という通称なんです。今でいったら「AKB」とか「乃木坂」みたいなものですよね。地名かよっ!て、思わず突っ込みたくなります。
現在、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で川口春奈さん演じる「帰蝶」が後の「濃姫」です。本名を正式に記されたものがなく、「帰蝶」や「胡蝶」も創作上の名前として書かれています。この時代、女性の名を呼ばないことは珍しくはないのですが、それにしても、織田信長の正室にも関わらず、生没も名前もはっきりせずとは、なんとも謎の多い姫です。
そもそも江戸時代以前の記録というものは非常に少なく、「〇〇軍記」や「〇〇日記」などは、江戸時代に伝承などを元に創作されたもので、史実とかけ離れているものもあります。
織田信長の一代記と言われる「信長公記(しんちょうこうき)」は、信用されるべき史料として、戦国時代を語るのによく引用されます。しかし、この「信長公記」にさえ、濃姫については
「縁組がととのい、道三の娘を尾張に迎えた」
という記述しかありません。
これを知ったら、「ちょっと~、あんまりじゃない!! あの織田信長を内助の功でサポートして出世させたの、誰だと思ってんのよ~」とキレまくったかもしれません。
とはいえ、謎が多いからこそ、「にわか歴女」の私にとっても、近づき易い人物で、いろいろ想像をかき立てられます。そして、何より、現代女性に共感しやすい部分をたくさん持っている女性です。今回は、父・斎藤道三や夫・織田信長の史実や史跡を紐解きながら、この濃姫の数奇な運命を追ってみることにします。
※呼び名も、ここでは濃姫で統一します。
毒親・道三が巻き起こす濃姫の波乱の人生
濃姫の父は、知将であり、策略家であった美濃(現在の岐阜)の戦国大名・斎藤道三。そう、「美濃のマムシ」と呼ばれた男です。織田信長同様にアクが強く、キレもので恐れられていた人物。この二人を相手にしていたというだけで、相当な器のタフな女性だっただろうとイメージされ、小説やドラマでも、そのように描かれることが多いです。実際、こんな毒っ気のある、ハラスメントぎりぎりの男たちと関わっていたら、まともな神経じゃやってられない!と思います。
斎藤道三といえば、京都の僧侶から、油売りとなった道三の父と美濃に渡り、親子二代で主君に認められ、あれよあれよという間に、守護代に成り上がった男です。引き立ててくれた主君を討つわ、追放するわ、恩をあだで返し、下剋上の代名詞とされた人物です。そんな彼の前に立ちふさがるものなどありはしない、あってはならない。欲しいと思ったものはすべて手に入れる。そんなタイプの人間でしたから、どんな手を使ってでも美濃国を手中に治めたかったのでしょう。名ばかりの守護・土岐氏なんて邪魔!といわんばかりに、権力を振るいまくります。
そして、その手の内の一つとされてしまうのが、悲劇の娘・美しき濃姫です。
3度の結婚に翻弄された姫
濃姫の波乱の幕開けは、15歳で3度の結婚!という激動の人生から始まります。当時は、13~15歳で成人とされていた時代ですので、婚姻自体が波乱なわけではありません。政略結婚もお約束というほど、当たり前の時代です。
濃姫が悲運なのは、最初の二つは、夫と死別。そこにはどうやら父親・道三が関わっているのでは?と思われるところです。
美濃の守護である土岐氏は、家督騒動で長男・頼武(よりたけ)と次男・頼芸(よりのり)が守護の座を争い、何度も戦を繰り返します。道三は、頼芸に引き立てられていたため何としても頼芸を守護にして、成り上がります。その後も、追放されていた頼武の息子、頼純(よりずみ)が越前の朝倉氏や近江の六角氏に援助を受け、再び美濃に攻め入り、激しい争いが繰り返されました。そんな中、土岐氏との関係を安泰にすべく、土岐氏に濃姫を嫁がせます。一人は、敵対していた土岐頼武の息子・頼純ですから、自分に手を出させないための駆け引き、いわば人質です。
その頃、道三といえば、尾張から勢力を伸ばしてくる強者の織田信秀(おだのぶひで)との合戦も繰り返していました。頼純は、恨みを持つ道三を討つよう織田信秀に援護を頼みます。それが道三の知るところになり、良純は原因不明で死没してしまいました。これが道三の計らいだったのでは、と伝えられます。大河ドラマでは、茶席で良純に毒入りの茶を飲ませ、毒殺したシーンが話題となりました。
しかし道三は、またすぐに、土岐氏の一門である土岐八郎頼香(よりたか)に嫁がせます。このことが「信長公記」には、
「残った娘を、後妻にしなさいと無理やり八郎に押しつけた。(中略)籠の鳥のように扱った。それで、八郎は雨夜にまぎれて逃げ出し、尾張を目指して馬で出奔した。道三はこれを追いかけ、つかまえて切腹させてしまった」
と書かれているのです。
結婚が自由意志でないにせよ、自分が娘だったら、この時点でもはや心折れまくりです…。父・道三は、この攻略もあって土岐勢力を抑え、美濃を完全に自分の支配下としていきます。
うつけと呼ばれた男との3度目の結婚!?
道三は、尾張も手中に治める勢いで、織田信秀との戦いを繰り返しますが、織田信秀は越前の朝倉氏と通じ、勢力を増していきます。一進一退の状態に、織田家の家臣、平手政秀の尽力で和議を結び、信秀の息子と道三の娘との婚姻が成立しました。
こうして濃姫は、織田信長の正室になるのです。天文18(1549)年、この時、濃姫15歳、信長16歳。年のころなら最適ですが、またもや悲劇は、この男、なんと周りから「うつけ」と呼ばれていたのです。土岐氏への結婚は、まだ玉の輿婚という救いがありました。しかしこの織田信長は、将来どうなるかもわからない若造で、さらに「うつけ」。自分の可愛い娘をここまで好き勝手に翻弄し、15歳にして3度の結婚をさせるとは、毒親の考えたるや計り知れません。
しかし、これが武士の娘というものなのかもしれません。濃姫が戦国時代を自ら体得していたので、気丈に乗り越えられたのかもしれません。その後の織田信長の目覚ましい躍進ぶり、武将としての頭角を見るにつけ、濃姫の支えも大きかったのでは?と思ってしまうからです。
信長の影に、濃姫あり! 君主をも欺生き、下克上を成し遂げた父を間近で見てきた彼女ならではの戦いをも恐れぬ強さが、信長の支えになっていたのかもしれません。
というハッピーエンドで終わりたいところですが、そうはいかないのが、この濃姫の悲運なところ。
なぜなら、濃姫には世継ぎを生むことができなかったのです。この時代、正室に一番求められるお務めです。このことだけでも、どれだけ濃姫が傷ついたかと思うと胸が苦しくなります。
側室・生駒吉乃と小牧山城
信長は、多くの側室を持ちますが、中でも一番愛した女性として伝えられるのが生駒吉乃です。吉乃を側室に迎え、2人の息子、1人の娘に恵まれました。それが嫡男・信忠と信雄、後に松平信康に嫁いだ徳姫です。これを機に吉乃が正室に等しい扱いを受け、永禄6(1563)年には、信長が初めて築城した小牧山城に住まわせたとも伝えられています。(この吉乃については「武功夜話」で綴られていますが、フィクションもかなり含まれています)
小牧山城発掘調査では、山頂の主郭部から、当時の化粧(お歯黒)に使う鉄漿皿が出てきたことから、たぶん高貴な女性が住んでいたと推測されました。そこでやはり「吉乃が住んでいた」と考えられるのですが、病に侵されていた吉乃は、永禄9(1566)年に亡くなってしまいました。
岐阜城に御殿を築く。信長の荘厳な城は、濃姫への贈り物?
濃姫はどうしていたのでしょうか? といえば、古巣の清州城に住んでいました。側室の分際で、なんで新しいお城に住むのじゃ~~~~~と濃姫が憤ったかどうかは、わかりませんが、普通であれば心中穏やかではありません。ただ、嫡男であった信忠や信雄は清州城で育てられたとも伝えられています。自分で生んだ子ではないけれど、幼子を育て上げた濃姫には幸せな時間もあったのでは…と想像してしまいます。
この4年後、信長は斎藤義龍の息子、龍興を攻め、勝ち得た稲葉城を大改築し、岐阜城と命名。絢爛豪華な城を造りました。そこには金箔瓦を用いた御殿が建てられたのです。これに関しては、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが「日本史」に「宮殿の2階に、信長の奥方や侍女達の部屋があり、町の側にも山の側にも緑と見晴台があった」と書き記していますし、発掘調査により、その言葉に近い形で、庭や御殿が建てられていたことが分かっています。吉乃は、小牧山城で亡くなっているので、奥方というのはやはり濃姫になるのだと思います。
ようやく濃姫にとって生まれ故郷の美濃へ戻り、慣れ親しんだ岐阜城(稲葉山城)での生活に、心落ち着く時間が得られたのではないかと思います。しかしその一方で、信長は岐阜城へと移り住んだのを機に「天下布武」を掲げ、憑りつかれたように戦いに明け暮れていきました。
夫は無念の死を遂げ…。その時妻は?
そして15年後に、大河ドラマのクライマックスとなる「本能寺の変」で、無念の死を遂げます。この時信長49歳。
では、濃姫はどうなったのでしょうか。これにも「離縁説」や「早逝説」などもあるのですが、ここでは史料の残る二つの説を紹介します。一つ目は、織田信長と同様に本能寺の変で自刃したとされる説。この時に家臣が、濃姫の髪を持ち帰り、墓を建てたのが、岐阜市内にある「濃姫遺髪塚」です。ただ、これは濃姫が死んだと見せかけるために、わざと家臣が建てたともいわれています。
二つ目は、安土城にいた安土殿と呼ばれる女性です。彼女は、侍女たちと一緒に逃げ延び、生きたとされる説。これは「織田信雄分限帳」に記載されている名前で、これが濃姫ではないかと言われています。また安土・総見寺に所蔵されている「織田家過去帳」には、安土殿の戒名として「養華院殿要津妙玄大姉 慶弔十七年壬子七月九日 信長公御台」と記されているため、これが濃姫であれば、78歳まで生きたことになります。
まだまだ謎に包まれた部分も多く、濃姫の生涯には、創作の域を出ない話がたくさんあります。
信長と濃姫、運命共同体ともいえる同志
ここからは個人の想像ですが、織田信長と濃姫は、どこか同志のような関係だったのではないでしょうか。生まれた家が尾張・美濃というそれぞれの国を治めるほどの力を持ち、どちらも毒親と呼べるような強者の武将を父に持ち、常に戦と背中合わせの中で育ってきた二人。心通じる、いえ、二人にしかわかならい世界があったのではないかと思ってしまうのです。
このように様々なストーリーが想像できるからこそ、私たちは何百年と言い伝えられてきた軍記物に心奪われてしまうのかもしれません。
大河ドラマでは、川口春奈さんが気丈で凛とした武士の娘を演じ、今後、信長を支えていく女性へと成長していくのが楽しみです。いつの時代もどんな環境にあっても、その中で精いっぱ生きる―そんな濃姫の魅力をお茶の間に届けてくれるのではと思います。今回の大河ドラマ「麒麟がくる」で、ぜひ、あなたも歴女の道へ踏み出しましょう!
参考文献:太田牛一著・中川太古訳 「現代語訳 信長公記」KADOKAWA 、加来耕三訳 「武功夜話(信長)」新人物往来社 他
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