自らが打ち立てた世界記録をさらに破る渾身作
表裏に文字盤を備えた懐中時計のスタイルに、世界初の中国暦のパーペチュアルカレンダー(永久カレンダー=定期的な修正を要することなく、正確に自動日捲りするカレンダー機構)含む、63種類の機能を備えます。研究開発には11年を費やし、その複雑な機能の数は世界新記録を樹立しました。製作したのは、ヴァシュロン・コンスタンのなかでも特別な顧客からの依頼に応える専門部署「キャビノティエ」であり、これもオーダーメイドによる世界に1本の時計です。
これには大きな布石がありました。それは、ブランド創業260周年を迎えた2015年に発表された「リファレンス 57260」で、開発に8年をかけ、同じく懐中時計にユダヤ暦のパーペチュアルカレンダー含めて57種類の複雑な機能を擁し、当時の世界記録を樹立したのでした。今回の新作はこれに次ぐ、中国暦という世界的な暦への挑戦です。
シリーズ第2作とはいえ、前作を超えるとともに自身が打ち立てた世界記録を破るため、さらに高いハードルを掲げたのはいうまでもありません。そしてこれを実現したのは、前作から引き続き、製作を担当した3人の時計師でした。さらにこの時計史における前人未踏の挑戦を切望した依頼主がいることにも驚嘆します。両作を合わせれば20年近い探求の旅路であり、まさにドリームチームが成しえた快挙なのです。
美と技を極めるヴァシュロン・コンスタンタン「レ・キャビノティエ」の世界
天空の動きと数千年の歴史に培われた中国暦とは
ではなぜ中国暦パーペチャルカレンダーが複雑かつ高度な技術を要するのか。それを理解するにはまず中国暦について知る必要があります。
現在、私たちが一般的に使っている暦は、太陽暦である16世紀に導入されたグレゴリオ暦です。これは、4年に一度の閏年に加え、さらに100年で割り切れる年は閏年にしないなどの修正を加えることで、実際の太陽年に近づけています。一方、旧暦といわれる太陰太陽暦は、月の満ち欠けの周期と地球の公転期間を元に、太陽年との季節のズレは二十四節気や閏月を設けて調整します。ギリシャ暦、ヘブライ暦、ケルト暦のほか、中国暦がこの太陰太陽暦に基づきます。
中国暦は、新月の日(朔)から始まり、月の満ち欠けに従ってひと月は29日か30日が不規則に続きます。そのため12か月は太陽年に対して11日短くなり、これを2〜3年毎に13か月目になる閏月を加えて補います。その基本にはギリシャの天文学者メトンが発見したメトン周期があり、ゴールデンナンバーと呼ばれる19年の間に7回の閏年が挿入されます。また旧正月といわれる新年も毎年変動し、冬至の後の2番目の朔の日である1月21日から2月21日で始まります。
さらにもうひとつの特徴が、五行(木、火、水、金、土)とそれぞれに陰と陽を加えた10日の符合である十干と、日本でも馴染みのある十二支を60通りで組み合わせた60干支で数える時の単位です。こうして中国暦は、実際の天体の動きと同期するよう常に改良が繰り返され、より複雑化しています。歴代の時計師はこの不規則な特性を持つ暦に対し、計時は実現したものの、パーペチュアルカレンダーとして機能させることはできなかったのです。
中国暦の永久カレンダー含む63の機能を搭載
この難題に対し、「キャビノティエ」の時計師がまず取り組んだのは中国暦のアルゴリズム化でした。パリの天文台が所蔵する中国暦に関する書物と、発表された2044年までのデータの基準値を専用ソフトでパラメーター化し、さらにこれを機械的に置き換えるための独自のデータを入力し、2200年までの不規則性について解析と検証をしました。その計算結果を踏まえ、月の満ち欠けと太陽、メトンという3つの周期を制御する構造を設計し、2200年まで調整することなく、正確に中国暦を表示するパーペチュアルカレンダーを実現したのです。
前面の文字盤には、上下の青い短針と長針で時分を差し、秒は6時位置に半弧を描いたレトログラード秒針(0から運針し、60に到ると瞬時で帰零する機構)で表示します。その左右には十干と十二支を記したふたつのカウンターがあり、6時位置には毎年変わる正月の日付を記したディスクを備えます。さらに裏面の文字盤では、中央から伸びた針で外周に記した二十四節気を表示します。
こうした中国暦パーペチュアルカレンダーに関わる機構以外にも、さまざまな革新的で複雑な機能を搭載します。サイレントモードが設定できるグラン・ソヌリとプチ・ソヌリ(音の報時機構)とアラーム、同時にふたつの時間計測のできるスプリットセコンド・クロノグラフ、グレゴリオ暦パーペチュアルカレンダー、世界の主要時間帯を表示するワールドタイムなどに加え、精度を司る脱進機には球体ヒゲゼンマイを備えた3軸トゥールビヨンを採用します。それらは2877個の部品、245石のルビー、31本の指針、9枚のディスクで構成され、ムーブメントの組み立てだけでも12ヶ月以上が費やされたのです。
人と人の強い絆の下、創造と忍耐、情熱を注ぐ
ヴァシュロン・コンスタンタンのスタイル&ヘリテージディレクター、クリスチャン・セルモニ氏は新作について「技術的な傑作であることに加え、それを生み出した人間の探求心と信頼関係に価値があります」と語ります。製作に携わった3人の時計師のうち、2人は実の兄弟で兄がムーブメントを組み立て、弟が中国暦の不規則性の解析と構造設計を担当しました。西欧とは異なる中国の文化や生活習慣を理解し、天文学に関わるデータを分析し、さらに検証を続けるというプロセスは、通常の時計機構の開発とは異なり、それこそ手と頭のような信頼関係がなければできなかったといいます。
そしてもうひとりのキーパーソンが依頼主であり、新作のモデル名にもなっているウィリアム・バークレー氏です。公表では米国の実業家および慈善家で、50年以上に渡って貴重な懐中時計をコレクションする時計愛好家とされています。ヴァシュロン・コンスタンタンが1946年にエジプト王ファルーク1世のために開発製造した懐中時計も所有し、これは前述の「リファレンス 57260」が誕生するまで、複雑な機能の最多世界記録を保持しました。こうした長年の信頼関係と絆があったからこそ、さらなる発想が生まれ、時計師たちの飽くなき創造性を刺激したのです。そして前作から通せば約20年という、まるで辞書を編纂するような長大な取り組みは、関わった一人ひとりの人生にも深遠な時を刻み続けたに違いありません。
もちろん現代の中国社会では世界共通の暦が用いられています。しかし冠婚葬祭や卜占、好日を選ぶ時には伝統や文化で培われた独自の暦が用いられ、それは日本も変わらないでしょう。いまも脈々と受け継がれる時の概念であり、効率や合理性だけでは計れないものです。だからこそそれはゼンマイと歯車からなる原初でありながらも、人類が叡知を注ぎいまも進化を続ける機械式時計が挑戦するにふさわしい極致なのです。
文/柴田 充