芸術と祈りが融合する新しい仏像表現を。仏師・加藤巍山の挑戦

芸術と祈りが融合する新しい仏像表現を。仏師・加藤巍山の挑戦

仏教が日本に入ってきたのは6世紀のこと。

初期には渡来系の一族が私的に信奉していたとみられるが、欽明天皇の時代になって、朝鮮半島の古代王国の一つである百済の聖明王から正式に伝えられたと史書にある。この時に献上された金銅製の釈迦如来像が、日本史上に記録されるもっとも古い仏像だ。釈迦の時代から数百年経って初めて仏像が出現したインド仏教と違い、スタート地点から教えと像がともにあったのが日本仏教であり、よって日本仏教の歴史はそのまま仏像の歴史ともいえる。

6世紀末には排仏を主張する守旧派勢力が一掃され、聖徳太子が摂政を務めた推古天皇の時代には、仏像を国内制作する動きが出始めた。記録上、もっとも古い純日本製の仏像は奈良の飛鳥に建立された元興寺金堂(現在の安居院:通称飛鳥寺)の本尊として造られた丈六の金銅仏であり、この仏像を手掛けた鞍作止利(くらつくりのとり)こそ、日本で最初に自身の様式を確立した仏師として知られる人物なのである。

鞍作止利は、名前の通り鞍などの馬具を作る渡来系技術者一族の出身であり、この一族は古くから仏教徒だった。叔母は日本初の出家者となった尼僧の善信尼(ぜんしんに)であり、父の多須奈(たすな)もまた造寺や造仏に関わっていたとみられている。当時最新の技術を持つ集団が仏教徒だったという点、また仏教の普及に力を尽くした聖徳太子が後世の職人たちによって尊崇の対象となることなどからも、日本仏教と工芸/彫像の世界の関わりの深さが偲ばれる。

やがて平安時代になると名工・定朝が現れ、以後の仏教彫刻に決定的な影響を与えた。そして、平安末期から鎌倉時代にかけて運慶や快慶を排出した慶派の仏師たちが新風を吹き込み、日本の仏像彫刻は一つの頂点を迎えたのである。

それ以降は、各時代に名作は生まれながらも、信仰の対象として様式美を重視する方向に全体が流れたため、円空や木喰のような例外を除くと美術的オリジナリティという点では大きな発展はなかった。しかし、技術面においては質の高い宗教彫像を供給し続けたのが、近世までの日本仏師の歴史といえるだろう。

19世紀から21世紀へ 新しい仏像表現

明治時代になると、仏師の世界も大きな変化に直面した。明治初期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐、さらに公的権力からの庇護を失った寺院の衰退によって仏師の仕事は激減した。仏師受難の時代である。だが、そんな中でも西洋から入ってきた新たな彫刻技術を学ぶことで、新たな道を切り開いた人たちがいた。

近代日本を代表する彫刻家・高村光雲はまさにその代表格だ。

光雲は日本の近代美術界を形作った岡倉天心に才能を見いだされ、招かれて東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となった。そこで仏師として磨いてきた彫像技術を後進に伝えながら、古仏を近代美術の視点から見直し、新しい表現を生んでいった。このような時代の変化に伴い、仏像は芸術品、仏師は芸術家とみなされるようになっていった。一方で、伝統様式に従って造像する職人的な在り方も温存され、現在に至るのである。

芸術と祈りが融合する新しい仏像表現

21世紀になり、仏像はますます「芸術品」として鑑賞されることが多くなった。各地の美術館では毎年のように仏像展が開催され、大規模な企画展ともなれば会期中に数十万人の来場客を動員するほどの人気ぶりを誇っている。また、量産型仏像フィギュアの販売や有名仏像の萌絵化など、仏像のポップカルチャー化も進んだ。今や、仏像はアートの文脈で語られるものになったのだ。

しかし、信仰の対象としての仏像が完全に廃れたわけではない。たとえば、東日本大震災の被災地では、多くの寺院も被害を受け、仏像に流失や破損などの被害が出た。それを目の当たりにした地域住民は、自分たちの生活再建もままならぬ中、尊像の修復や再建に向けて動いたという。亡き人々の供養や未来への希望を仏像に託したのだ。仏像とは信仰の形。その基本は、止利仏師の時代から今も変わらない。

そうした現代において、まさに芸術と祈りを融合する独自の世界を築き続けている一人の現代仏師がいる。

加藤巍山(かとう・ぎざん)だ。

加藤氏は高村光雲の曾孫弟子にあたる仏師・岩松拾文師に師事し、近代彫刻の技術を取り入れた伝統的仏像を造像している。

施無畏与願印釈迦如来像

その一方で、主に歴史上の人物をモチーフにした一般彫像も手掛けてきた。その技術は2017年から翌年にかけて各地を巡回した「驚異の超絶技巧!展」に出品されたほどに高く、精神的ダイナミズムと静謐が同居する作風で注目を集めている。

そんな加藤氏が昨年末、東京・日本橋高島屋の美術画廊Xで個展を開いた。そして、そこで披露されたのは、往古と未来が二つながらに備わった、新たな可能性を宿す仏像の数々だった。

仏師として表現する“祈り”の形

まず、「示現I」と名付けられたこの像。

一見、仁王像のようにも見える。しかし、伝統的な形象ではない。けれども、頭を軽く下げて瞑想するような姿は、寺院の壇の上に安置されていてもまったく違和感がないだろう。
次にこの像。

「慈」というタイトルがつけられているが、瑞々しい女神のような、万物の慈母のような、善なる女性性を包括する尊容には誰もが安らぎを覚えるに違いない。

「これらの像に託したのは原始衝動に近い“祈り”の形なのだと思います」

このシリーズにおいて、加藤氏が目指しているのは宗教や時を超えた祈りだという。

「私は普段、仏師として儀軌通りの仏像を製作し、各寺院などにお納めしています。伝統的な仏像を彫る仏師という形は、紛れもなく私の核となるアイデンティティです」

加藤氏は、東日本大震災で被災し、流出や破損などで本尊を失った寺院に新たな仏像を寄進する活動を、同じく仏師である三浦耀山氏とともに進めている。活動に際しては被災地に何度も足を運び、檀家の人々の中にも入っていった。そんな氏であればこそ、伝統的な仏像の持つ力は熟知していることだろう。

その上で、新たな仏像表現を生み出したことに大きな意味がある。

「体系化された宗教に依るものではなく、宗教や民族が違う人たち、また無宗教を自認している人たちでも思わず手を合わせてしまうような、祈る人の側に寄り添うような像を作りたいという思いがあるんです。僕がこの像において彫ったのは、人間が祈り続けてきた数万年という歴史と今のクロスポイントです。そして、自らに問い続けている『祈りとはなにか』というテーマに対する今現在の回答がこの形になりました」

祈りと向き合うことがライフワークだという加藤氏は、近年正式に得度を受け、仏僧としての資格を得た。10世紀を過ぎた頃から多くの仏師は僧籍を有するようになったが、加藤氏の得度はその流れを汲むものでもある。

「人間の祈りに向き合う過程で得度を欲したというか、そこに導かれたというか……。仏像を彫るその先にあるフェーズに行くために得度が必要になったのだと思います。啐啄同時と言いますが、僕にとってはまさに来たるべきタイミングだったのでしょう。形式的なものではなく、なにかものすごく大きな流れに乗った気がしています」

仏師・加藤巍山の目指す地平

像には伝統的表現と現代的表現が混在する。

たとえば「慈」の女体表現は近代以降の彫刻に属するが、台座は飛鳥仏を思わせる古様な裳懸座だ。

「宗教に関係なく現代人の心にすっと染み渡るような表現を志す一方、仏師としてのアイデンティティを示すために古典的な表現を取り入れています。手も、施無畏印与願印をベースにしながらも、もっと包み込むような形にすることで繋がりや温かみを表しました」

また、「示現I」では寄せ木を繋ぐ鎹(かすがい)をあえて見せることで、伝統技術と現代表現を接続させた。

「昔の寄木造りの仏像は鎹で木をつなげていたんですが、現在は製材技術があがったこと、また接着剤を使用するようになったので、あまり鎹を打つことはありません。ですが、鎹の使用を始めとする古い寄せ木の技法や昔の寸法のとり方などを採用することで、千年以上前から続く仏師の歴史の上に立っていることを表現しました。ところがその結果、ちょっと未来っぽい雰囲気が漂うようになったのはおもしろいところだと思います。また、肉体に鎹が打ち込まれている生々しい姿に、キリストの磔刑像のような受難――自分の痛み、誰かの痛み、そして自然の痛みなど、現代にあふれる“傷”を象徴してもいます」
複合するシンボリズムは、現代の仏像だからこそできる表現ではある。

「今だけでなく、未来に向けての漠然とした祈り。祈らずにいられないような、大きな何か。そんなものを表していきたいなと思っているんですよ。宗教離れと言われている現代、活動するなら仏師と名乗らず、仏像彫刻師でもいいし、彫刻家でもいいんです。そうすると人の祈りや宗教から逃げることもできますから。でも、仏師と言ってしまうと逃げ場がありません。つまり、仏師という名乗りをすることで己の退路を断っているところはあります」

古代と現在、そして悠久の未来を一つの像に凝縮し、人類の普遍的な祈りを形にしていく。加藤氏の挑戦は始まったばかりだ。今後も、いくつか展覧会への出品などが予定されているという。

美術品として古い仏像を見物するのはもちろん悪くない。だが、現代に生きる私たちの精神性を写す「仏像」を観ることで、今必要とされている安寧や再生の新たなビジョンを獲得できるかもしれない。仏師・加藤巍山の像は、不安な今の時代にこそ求められるものなのだろう。

加藤巍山HP

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