国宝妙喜庵 待庵とは?智積院 楓図・桜図とは?

国宝妙喜庵 待庵とは?智積院 楓図・桜図とは?

目次

日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。2017年は「国宝」という言葉が誕生してから120年。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

智積院 楓図・桜図

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は秀吉好みの金碧障壁画、「智積院 楓図・桜図」と簡素を極めた最古の茶室、「妙喜庵 待庵」です。

長谷川等伯父子の競演 「智積院 楓図・桜図」

智積院 楓図・桜図

金地の大画面の中央に配された楓の巨木。その幹を覆い尽くすかのように、緑から紅色へと色相を変化させる紅葉が鮮やかな色彩で描かれています。躍動感あふれる巨木の表現と、繊細な秋の風情を同一画面に見事に収めた「楓図壁貼付」(以下「楓図」)。金地に艶やかな色彩で描かれた室内装飾画「金碧障壁画」の白眉である本図を描いたのは、桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯です。

いっぽう、等伯の長子・久蔵が描いたとされる「桜図壁貼付」(以下「桜図」)は、たおやかな枝ぶりを見せる桜の木に八重の花がこぼれるように咲く春爛漫の光景です。ふっくらとした花弁の描写、春風に揺れるような柳、樹下に姿を見せる可憐な草花などに、父とは異なる、繊細優美でモダンともいえる久蔵の作風が見てとれます。しかし、等伯の後継者として将来を嘱望されていた久蔵は、「桜図」を完成させた直後、26歳の若さで急逝。初の親子競作を果たした本作は、久蔵の遺作となってしまいました。

幾多の火災にあってもなお、奇跡的に生き残ってきたこの絢爛豪華な障壁画を依頼したのは、天下人・豊臣秀吉でした。天正19年(1591)、長子・鶴松がわずか3歳で病没したのを悲しんだ秀吉は、その菩提を弔うべく、京都の東山に智積院の前身である祥雲寺を創建。秀吉が52歳のときに生まれた待望の男児、鶴松のために建立する寺院は、壮麗なものでなくてはなりませんでした。そして秀吉がその内部を荘厳する障壁画制作の大役を任せたのが、等伯とその一派でした。

織田信長と豊臣秀吉が覇権を握った桃山時代、画壇の中心には、狩野永徳率いる狩野派が君臨していました。しかし、天才とうたわれた永徳は祥雲寺建立の前年に急死。祥雲寺障壁画制作の仕事は、狩野派から長谷川派に変更されたのです。

故郷の能登国七尾(現在の石川県七尾市)から30代になって上京した等伯は、このときすでに52歳。絵師として大成する野望を抱いて京に上ってから20年──。初の大仕事に賭ける等伯の並々ならぬ気迫は、生命力みなぎる異色の秋景色「楓図」にあふれています。「楓図」「桜図」は、長谷川一門の出世作にして、最高傑作です。

国宝プロフィール

長谷川等伯 楓図壁貼付 長谷川久蔵 桜図壁貼付

文禄元年(1592)頃 紙本金地着色 各4面 各172.5×139.5cm 智積院 京都

豊臣秀吉が長子・鶴松の菩提を弔うため祥雲寺を創建する際、長谷川等伯一門に依頼した障壁画の一部。楓の大樹を中心に、秋草でにぎわう「楓図壁貼付」、八重桜の白と金箔の対比が豪奢な「桜図壁貼付」。等伯・久蔵父子の意欲あふれる傑作。

智積院

利休の美意識の結晶 「妙喜庵 待庵」

智積院 楓図・桜図

京都府の南、天王山の山麓に建つ臨済宗東福寺派の寺院、妙喜庵。明応年間(1492~1501)に創建されたといわれるこの禅宗寺院の庭に建つのが、現存最古の茶室にして、茶人・千利休が設計に携わったとされる現存唯一の茶室「待庵」です。

堺の商人だった利休は、織田信長、豊臣秀吉の茶の湯の師を務め、秀吉の時代には、政にも大きな発言権をもつようになりました。天下人をも夢中にさせる魅力を備えた利休の茶。待庵は、茶の世界を追求しつづけた利休がたどり着いた美意識の結晶といえる究極の茶室です。

喫茶の習慣は、鎌倉時代、宋から茶の種を携えて帰国した臨済宗の開祖・栄西によって普及しました。室町時代になると、茶を楽しむための「座敷」には畳が敷きつめられ、中国から渡来した珍しい掛物や調度品などの「名物」で飾り立てられました。

しかし室町時代中期、こうした喫茶の流れを変える人物が登場します。わび茶の開祖・村田珠光です。珠光は華美な装飾をやめ、もてなす亭主と客とのより親密な交流に重きをおくため、四畳半という狭い空間に新たな可能性を見いだしました。この志向は、利休の師といわれる武野紹鷗、利休に受け継がれていきます。彼らが理想としたのは「市中の山居」、つまり町中にいながらにして山里の風情を味わう「草庵の茶」でした。そしてこの思潮こそが、のちに「わび茶」と呼ばれる茶の湯の真髄となっていきました。

待庵は一畳の次の間がついたわずか二畳の空間です。当時主流だった座敷の要素を排した利休は、仕上げ塗りをしない土壁や天井・窓などにこまやかな創意工夫を施し、草庵風の茶室を完成させました。

待庵は天正10年(1582)の山崎の戦いの際、秀吉が利休に造らせたと伝えられていますが、実際には山崎の利休邸にあった茶室を移築したと推測されています。また利休が造ったとされる確たる記録もありません。それでも待庵に見られる、究極まで無駄を削ぎ落とした空間構成と革新的な創意の数々は、待庵が利休にしか造りえなかった唯一無二の茶室であることを物語っています。

国宝プロフィール

妙喜庵待庵

天正年間(1573~92) 1棟 茶室2畳 切妻造 杮葺 写真/岡本写真工房(岡本茂男)

室町時代に創建された臨済宗の寺院、妙喜庵にある現存するもっとも古い茶室。豊臣秀吉が千利休に命じて造らせたと伝わる。内部は二畳という狭さで、皮を剝いだままの柱や藁が見える土壁、下地の竹がむきだしの窓など、典型的な草庵茶室。その質素を極めた空間に、利休の「わび」の精神がたどり着いた境地を見ることができる。

妙喜庵

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