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2018.05.15

葛飾北斎の富士山全部見せ!富嶽三十六景から肉筆画まで

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葛飾北斎が描いた「富嶽三十六景」は、“山”を題材にした絵画シリーズの世界最高峰ともいわれています。葛飾北斎は、そんな「富嶽三十六景」以外にも、富士山を主題にした作品を多く残しました。今回は、初めての富嶽作品から、80歳で描いた抒情あふれる肉筆画などをご紹介。北斎がどのように富士山を描いてきたのかをたどっていきます。

葛飾北斎

葛飾北斎は50代のころに2度、名古屋の弟子のもとに逗留(とうりゅう)。西国(さいごく)にまで足を延ばしています。その旅の途中、東海道の各宿場から見た富士山をスケッチした北斎は、その後何年もかけて構図を練り、趣向を考えていたといいます。

その一端を垣間見させてくれるのが、葛飾北斎60代半ばの作である、櫛(くし)と煙管(きせる)の職人のための図案集「今様櫛きん雛形」。櫛の部2冊には約250図、煙管の部1冊には約160図が収められました。これが後の「富嶽三十六景」に見られるスラリとした富士山の姿を描いた最初の作例だとされ、葛飾北斎は櫛に富士山を配するなど、工芸デザインにも才を発揮しました。

葛飾北斎「今様櫛きん雛形」(部分)半紙本 文政6(1823)年初刊 国立国会図書館

以後も富士山の絵の構想を練りに練り続けた葛飾北斎は、70歳を過ぎてから満を持して「富嶽三十六景」を刊行。初めに36図が摺られたのですが、あまりの人気ぶりに10図が追加され、全部で46図という富士山の連作となりました。

下の作品は、当時の深川、現在の江東区大島にあった五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ)。境内の「さざえ堂」からは、隅田川をへだてて富士山の姿が美しく見えたといいます。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 五百らかん寺さゞゐどう」横大判錦絵 天保2〜5(1831〜1834)年ごろ 山口県立萩美術館・浦上記念館

当時、江戸では町人文化が花開き、物見遊山(ものみゆさん)と信仰を兼ねた伊勢参りや名所巡りなどの旅行ブームの真っ只中で、今でいうところのガイドブック的な意味合いも兼ねた絵が飛ぶように売れていました。

そのような時代背景にマッチしていたことも幸いして、葛飾北斎が描き上げた「富嶽三十六景」の斬新にして美しい46の富士図は、当時の江戸庶民の度肝を抜いて余りあるほどでした。

葛飾北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」横大判錦絵 天保1〜4(1830〜33)年ごろ 大英博物館

すべての図に配された富士山の配置や構図の面白さなど、創意工夫に満ちた絵の数々を、人々は競って買い求めるようになり、やがて「北斎といえば富士、富士といえば北斎」と称されるように。一気にトップ絵師の仲間入りを果たしたのです。

その後、葛飾北斎はさらに工夫を凝らした構図を満載した「富嶽百景」を刊行するのですが、浮世絵風景画界に新たに登場した若き天才・歌川広重の「東海道五十三次」の大ヒットのあおりを受けて、人気は尻すぼみになってしまいます。

葛飾北斎「富嶽百景 初編 田面の不二」半紙本 天保5(1834)年 すみだ北斎美術館

それを潮時と感じたのか、北斎は錦絵の制作に見切りをつけ、従来の浮世絵とは次元の違う、肉筆画へと重心を移していきます。長年培ってきたキャリアのすべてを傾けて取り組んだ肉筆画によって、葛飾北斎が新たに切り開いた画境をうかがうことができるのが「富士と笛吹童図」。完璧なまでに美しいシルエットで描かれた富士山と相対しながら、童子が笛を吹いている構図に、自然と人が調和した平和な様子が見事に描き表されています。

葛飾北斎「富士と笛吹童図」絹本着色 一幅 江戸時代(1839)年 フリーア美術館 Freer Gallery of Art, Smithsonian F1898.110

その画面には技術よりも抒情性が勝っていて、過ぎし日を懐かしんでいるような趣さえ感じられます。

90歳で亡くなるまで画境を追求し続けた葛飾北斎。その画歴を代表する存在となった富士山の絵が、はるか海を越え、西洋の近代絵画に革命的な影響を与えていたことなど、生前の葛飾北斎には知る由もなかったことでしょう。