江戸琳派・鈴木其一への注目度が急上昇中!
サントリー美術館で開催されている展覧会「KIITSU 鈴木其一 江戸琳派の旗手」(2016年9月10日~10月30日)によって、鈴木其一への注目ががぜん高まっています。
鈴木其一は酒井抱一(さかいほういつ)の内弟子として画業に足を踏み入れ、やがて抱一とは異なる独自の琳派様式を確立したことで知られる、江戸琳派の絵師です。
その作品の数々は、明治時代に日本を訪れたフェノロサやフリーアなどの名だたる日本美術愛好家の心をとらえ、海外の美術館でいち早く紹介されたことから、アメリカでは琳派を代表する絵師として知られています。
落款(らっかん)や印章から其一の存在は確かなのですが、詳細な記録や文献は残っておらず、その人生は謎に包まれたまま……。
鈴木其一とはいったいどんな絵師だったのか、どんな人生を歩んだのか、数少ない記録から、その足跡を追ってみましょう。
幻想的な一瞬を切り取った『柳に白鷺図屛風』。其一はいったいどこで何を見て、この構図を思いついたのだろう……。
鈴木其一っていったい何者!?
江戸の染物屋の家に生まれた其一は18歳のときに、狩野派や浮世絵、中国絵画、円山四条派など様々な画風を習得していた酒井抱一の内弟子となっています。
さらに、抱一のはからいで酒井家の家臣という地位を得て、安定した暮らしの中で画業にいそしみました。
それから間もなく、抱一は約100年前に活躍していた尾形光琳への憧れを強くして、光琳の画風を独学で学んで江戸琳派を立ち上げます。其一も当然抱一に従い、琳派様式にならっていたのです。
抱一のもとで絵師修業に明け暮れた、其一・第一期
其一の画業は一般に3つの時代に分けられます。抱一に入門した18歳のころから抱一が亡くなった33歳のころが第一期。其一にとって絵師としての修行に明け暮れた雌伏(しふく)の時代です。抱一の画風を学びながら、光琳に私淑した抱一が描いた『光琳百図』の版下絵などを手伝い、光琳様式を身に付けていったと考えられています。
其一が若いころに親しんだ浮世絵の手法で描かれた『群舞図』(エツコ&ジョー・プライスコレクション)のにぎやかな様子は、現在の浅草で観ることができる。
縛りから解放され独自色を出した、其一・第二期
抱一を失ったことで一代絵師として独立し〝噲々(かいかい)其一〟の落款を用いていた48歳までが第二期です。
其一は師亡き後、みずからの特性である自由奔放な造形力を発揮するようになります。それはまるで、抱一や江戸琳派という縛りから解き放たれて自由を謳歌しているようにも感じられます。
やがて其一は40歳を前にして、絵画修業のための西への旅を決行。京都から酒井家の本家がある姫路、山陽、四国、大宰府を転々とするうちに自然の美に触発された其一は写生に熱心に取り組むようになり、表現の幅を広げていきました。
30代半ばから40代後半までの第二期に其一は絵師として知られる存在となり、『夏秋渓流図』(根津美術館)や『椿に薄(すすき)図屛風』(フリーア美術館)などを残しています。大胆な構図で自然を再構築し、色鮮やかに彩色するのがこの期に到達した表現方法でした。
左/其一・第二期の作品『左義長図』(エツコ&ジョー・プライスコレクション)。右/街角に咲く朝顔も其一の手にかかると、『朝顔図屛風』のようなエキセントリックな姿に。
独自画風を極め、画狂、奇才と呼ばれた、其一・第三期
以後、63歳で亡くなるまでの第三期に用いた落款が〝菁々(せいせい)其一〟。
絵師として円熟期にあった其一は、抱一の特徴であった抒情性を再び取り入れるようになり、光琳模様を改めて手がけるなどして、表現の可能性を追求。一瞬の情景を鮮やかに写しとったような画風を確立した其一は、画狂や奇才と呼ばれるまでになります。
この第三期を代表するのが『柳に白鷺図屛風』(エツコ&ジョー・プライスコレクション)や『朝顔図屛風』(メトロポリタン美術館)、『向日葵図』(畠山記念館)など。いずれも、かつてない自然のとらえ方をした特異な名画です。
多様な絵画表現を学び、一度は琳派様式から離れるも再び立ち返り、時代を重ねるごとに画風を研ぎ澄まし、江戸琳派に独自の足跡を残した其一。
その鮮烈にして異色な画風は伊藤若冲にも比肩され、注目度は高まるばかりです。