豪快にうねる波、繊細で細やかな海の描写。この画像をひと目見れば、誰でも葛飾北斎の傑作『神奈川沖浪裏』を思い起こすはず。
波に浮かぶ玉を富士山に置き換えれば、まさにそっくりです。
これ、実は行元寺(ぎょうがんじ。千葉県いすみ市)の欄間(らんま)の一部。木彫りでこれだけの迫力や微細なニュアンスを表現したのは、武志伊八郎信由(たけし いはちろう のぶよし)。別名「波の伊八」と呼ばれた彫工(彫刻師)です。作品名は『浪に漂う宝珠(ほうじゅ。ほうしゅ、とも)の図』。宝珠とは、あらゆる願いをかなえてくれる宝の玉のこと。
「やはり北斎は、それほどの影響力を持っていたのだな」と思った人も多いことでしょう。でも、違います! 伊八がこの作品を彫ったのは、“浪裏”が描かれる20年以上前のことなのです!
「波の伊八」とは何者なのか? 「波の伊八」と北斎の関係は?
「波の伊八」とは?
「波の伊八」は1752(宝暦2)年(1751年と記す資料も)、現在の千葉県鴨川市で生まれました。この「波の伊八」は初代。以後、5代まで彫工の武志伊八郎は続きますが、5代目が1954(昭和29)年に亡くなり、途絶えました。その中でも、初代の技術力、芸術性の高さが抜きんでているとされます(ここでは「波の伊八」「伊八」はすべて初代のこと)。
伊八が生まれたのは、代々、地元で名主を務める家柄で、平安時代まで家系をたどることができる一族だったという説もあります。幼い頃から手先が器用だった伊八は、彫刻師島村流の島村丈右衛門貞亮(さだすけ)の弟子となり、腕を磨きました。島村流は、日光東照宮の「眠り猫」などで知られる江戸時代初期の名工、左甚五郎の流れをくむ彫工界のエリート集団です。
伊八が初めて作品を手がけたのは20歳のとき。生まれ故郷の近くの鏡忍寺(きょうにんじ。鴨川市)祖師堂の蟇股(かえるまた)です。蟇股とは、社寺建築で重さを支えるため梁(はり)の上に置かれるもので、カエルが股を開いたような形をしていることから、こう呼ばれます。
その後1824(文政7)年、73歳で亡くなるまで、千葉県を中心に50以上の社寺に作品の数々を残した伊八。現代アートのような龍、表情豊かな人物など、その作風は実に多彩ですが、その中でも代表作のひとつとされるのが、1809(文化6)年、58歳のときの作品『浪に漂う宝珠の図』なのです。鴨川の海岸で波の研究に没頭したといわれる伊八は、波をモチーフにした独特のスタイルを確立し、いつしか「波の伊八」とまわりから呼ばれるようになったのでした。
葛飾北斎と「波の伊八」の関係は?
『浪に漂う宝珠の図』が作られてから約22年後、1831(天保2)年頃に制作されたとされる葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』。はたして北斎は「波の伊八」の作品を目にしていたのでしょうか?
結論から言うと、それを証拠づける資料はありません。二人が出会っていたという資料も残されていません。
しかし、二人は8歳違いの同時代人。北斎は千葉県を何度も訪れていることは確かだとされます。行元寺には『土岐の鷹』という杉戸絵が現存していますが、これは絵師、等随(とうずい)の作。等随は堤派を代表する絵師3世堤等琳(つつみとうりん)の弟子で、北斎とも親交がありました。さらに、北斎と等琳も友人だったとされます。また、北斎は日蓮を深く尊崇していて、日蓮が誕生し日蓮宗の霊場が点在する鴨川を巡ったのではないかと考えられます。
「波の伊八」は若い頃から地元では知られた彫工でした。『浪に漂う宝珠の図』のうわさも当然広まっていたはずです。しばしば千葉県を訪ねていた北斎が、「波の伊八」の作品を目にしたのは当然のことだったのではないでしょうか。二人の作品を並べて鑑賞すると、やはり北斎が強く影響を受けたことは真実なのだと感じられます。
初代「波の伊八」のファンクラブ 「伊八会」
世界的に知られる葛飾北斎。その北斎に何かしらのインスピレーションを与えたと考えられる「波の伊八」ですが、地元でも案外知られていないようです。文献や研究資料も数点に過ぎません。しかし、写真集や作品集などを自費出版し、精力的に「波の伊八」を広めようとしているグループがいます。その名も「伊八会」。
「20年前、行元寺の絵葉書で『波の伊八』の作品を知り、衝撃を受けました。完璧な作品だと思いましたね」そう話すのは、「伊八会」代表の當間隆代さん。すぐに「伊八会」を立ち上げ、活動を始めます。
2011年には写真集『江戸時代の彫工 初代波の伊八~武志伊八郎信由の世界~』、2015年には『江戸時代の彫工 初代波の伊八 武志伊八郎信由作品集』を自費出版。2018年には作品集をもとにDVD『初代波の伊八 武志伊八郎信由作品集』を製作を製作。現在、「波の伊八」の世界に手軽に触れられるのは「伊八会」のおかげなのです。
2024年は「波の伊八」没後200年
20年以上にわたり「波の伊八」のことを広めるために活動してきた當間さんが、現在、取り組んでいるのは「波の伊八」没後200年に当たる3年後の2024年に向けたキャンペーン。伊八記念館の開館や伊八作品の修復、さらに伊八作品を国宝にする運動、県立美術館での伊八没後200年展開催など、幅広い活動を目指しています。
さらに、宮彫(神社仏閣などの欄間や柱などに施された装飾)全般へまなざしも。「神社仏閣には数多くの装飾品があります。動かすことができないので、一堂に集めるというのは難しいのですが、その芸術性の高さ、日本文化の水準の高さを再認識することは、とても大切だと思います」(當間さん)
「波の伊八」の作品がこれだけの寺社に点在していることを考えると、確かに当時の文化水準の高さには改めて驚かされます。そして、彫工たちや絵師たちが互いに刺激し合い、おのれの技を磨いていっていたのだと考えると、うらやましく、楽しそうで、なんと豊かな世界だと感じずにはいられません。
「世界のHOKUSAI」が驚嘆したにちがいない彫工「波の伊八」のこと。もっと知りたくなりませんか?
(伊八作品すべての画像提供:伊八会/撮影:小田嶋信行)
主な参考文献 『名工波の伊八、そして北斎─伊八五代の生涯─』(片岡栄 文芸社)
『波の伊八』(長谷川治一 ロング出版)
『図説 長生・夷隅の歴史』(郷土出版社)