日本の彫刻には“ビフォア運慶”と“アフター運慶”があると言っていいほど、表現方法に大きな革命を起こした天才仏師・運慶(うんけい)。動乱の世の中で運慶と一門の仏師たちがどのように芽を出し、花開いたのかをご紹介します。
運慶とその一門の慶派が、新たな仏像表現を追求
日本の仏像彫刻史において名実ともにナンバーワンの人気仏師・運慶が活躍したのは平安時代末期から鎌倉時代のこと。12世紀半ばから13世紀、貴族中心の社会から武士が政権を握る社会へと移り変わる、大きな時代の転換期に、運慶とその一門の慶派は、新たな仏像表現を生み出しました。
運慶が生まれた正確な年は不明ですが、息子・湛慶(たんけい)が承安3(1173)年生まれであることなどから、およそ1150年ごろと推測されています。運慶の父親は、興福寺周辺を拠点にした奈良仏師のひとりである康慶(こうけい)。当時の仏師は、平安中期の仏師・定朝(じょうちょう)の系譜を引く3集団に分かれていて、奈良仏師に加えて、京都を拠点とする院派(いんぱ)と円派(えんぱ)がありました。貴族に支持された“定朝様”を保守的に受け継ぐ院派・円派に対して、奈良仏師は新しい造形表現を模索し、一門を率いたのが康助(こうじょ)、康朝(こうちょう)と運慶の父、康慶だったのです。
実力のある奈良仏師として知られていた父・康慶のもとで修行していた運慶が、初めて単独で仏像制作を担ったのは25歳ごろ、安元2(1176)年に完成させた奈良・円成寺の大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう)でした。本来ならば3か月ほどで制作できる仏像ですが、11か月という時間を費やした入魂のデビュー作です。
南都焼打後の復興に尽力
それから4年後の治承4(1180)年、衝撃的な出来事が起こります。平清盛が安徳天皇を即位させ、独裁政権を樹立すると、それに反発した源氏一門が各地で挙兵。源平の戦いは激しさを増し、ついに、その年末、平重衡(たいらのしげひら)が東大寺と興福寺に火を放ち、多くの伽藍(がらん)が大炎上して破壊されたのです。運慶は、父・康慶と一門の仏師たちとともに、その復興に尽力することになります。
南都復興の大事業が着手され、円派・院派の仏師たちとともに、奈良仏師も造像を請け負います。平家が滅亡した翌年の文治2(1186)年には、運慶作の興福寺西金堂の本尊が完成しました。さらに、運慶の活動は奈良にとどまらず、同年、源頼朝の義父である北条時政の依頼で、伊豆の願成就院(がんじょうじゅいん)の仏像を制作します。そのとき運慶は35歳ごろ。実際に東国に赴いたかは明らかではありませんが、鎌倉幕府と強い関係を結び、活躍の場を東国に広げていったのでした。
チームでつくりあげた大きな仏像の数々
メキメキと実力を発揮しながら運慶が最大の表舞台に立つことになったのは、東大寺大仏殿の大仏脇侍(きょうじ)、四天王像の造像、そして、有名な南大門の金剛力士立像の制作においてでした。運慶はベテランの仏師・快慶(かいけい)や息子・湛慶などと一門で総力を挙げ、迫力に満ちた二王像を完成させました。ひとりでノミを振るうのではなく、運慶がディレクターとなり、各々高い技術をもつ一門の仏師たちとチームで作品をつくる工房制作によって、大きな仏像を次々と手がけることができたのです。建仁3(1203)年の東大寺総供養に際して、運慶は僧綱位(そうごうい)の最高位である法印に叙されています。
承元2(1208)年に制作が始まった興福寺北円堂の諸像の制作は南都復興の最後のしめくくりであり、運慶自身にとっては集大成とも言うべき仕事になりました。玉眼(ぎょくがん)が輝き、まるで生きているかのようなリアリティを感じる無著・世親の2像、そして四天王像は、いずれも運慶の息子たちが制作を担い、運慶工房の最盛期の技術が遺憾なく発揮されています。
語り継がれる運慶仏像の素晴しさ
貞応2(1223)年に運慶が没した後は、湛慶が一門を率いて慶派の繁栄は続きますが、悲しいかな、仏像彫刻の質そのものは、運慶の力強さをだれも超えることができませんでした。だれも真似ができなかった運慶の表現。しかし、だからこそ、運慶の仏像の素晴しさは語り継がれ、時を超えて愛されてきたのかもしれません。
左/運慶「世親菩薩立像」国宝 木造、彩色・玉眼 高さ190.4cm 鎌倉時代・建暦2(1212)年ごろ 右/運慶「無著菩薩立像」国宝 木造、彩色・玉眼 高さ194.7cm 鎌倉時代・建暦2(1212)年ごろ ともに奈良・興福寺蔵 写真:六田知弘
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