品のいい初老の紳士がネクタイを締めたままワイシャツの腕をまくり上げ、慣れた手つきで轆轤(ろくろ)をひいている。陶芸家には見えないが…この人はだれ?
彼は川喜田半泥子(かわきた はんでいし)。銀行の頭取でありながら茶の湯や書画、俳句、写真などに親しみ、こと焼物に関しては玄人(くろうと)以上の素人(しろうと)だった。美食家として知られ、陶芸家、画人、書道家などいくつもの顔を持つ北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)と同時代を生き、彼に比する人物として「東の魯山人、西の半泥子」と称される。
慎重に慎重を期す堅実な仕事ぶりで知られたが、いったん本業を離れると軽妙洒脱なトークやエッセイで人々を煙にまき、高齢になってもテニスを愛好。異名は“タアザン”そのほか。伊勢湾を眼下に毎朝大声で号令をかけながら素っ裸でラジオ体操するなど、人間味あふれるエピソードには事欠かない。多くの人々に愛された稀代の粋人だった。
東京の元赤坂に「東洋軒」という西洋料理店がある。本店は三重県津市。東京にあった「東洋軒」を津市に引っ張って来たのも半泥子だ。名物のブラックカレーは、彼が初代料理長に頼んでつくってもらった裏メニューだった。
津市千歳山のふもとには、半泥子の作品や川喜田家代々のコレクション約3万点を収蔵・展示する「石水(せきすい)博物館」がある。学芸課長の龍泉寺由佳(りゅうせんじ ゆか)さんに半泥子の生涯とその芸術について聞いた。
100万人都市江戸のファッションを席捲した伊勢木綿の問屋・川喜田家
明治11(1878)年11月6日、半泥子は伊勢屈指の豪商・川喜田久太夫(かわきた きゅうだゆう)家の長男として大阪に生まれた。幼名は善太郎。半泥子は号であり、本名は久太夫政令(まさのり)という。
川喜田家は江戸日本橋大伝馬町1丁目(現・日本橋本町2・3丁目)に大店を構える伊勢木綿の問屋だった。創業は寛永3(1626)年というから、半泥子が生まれた時すでに200年以上経っている。生え抜きの伊勢商人だ。「伊勢商人の当主は伊勢の本家にいて経営権を掌握し、江戸の店の運営は有能な番頭(支配人)に任せていました」と、龍泉寺さんは教えてくれた。
伊勢木綿の特徴は渋い藍染めに縦縞のデザイン。肌触りがよく、保湿性や通気性に優れ、染色も容易だったので、江戸で大流行。幕府の厳しい倹約令によって着物の柄まで統制を受ける中、江戸市中の女性をとりこにした。歌川広重の描く「東都大伝馬街繁栄之図(とうとおおでんまがいはんえいのず)」には、川喜田をはじめとする伊勢商人の繁栄ぶりとともに、大伝馬町の目抜き通りをそぞろ歩く伊勢木綿の着物に身を包んだ女性の姿が見える。ウインドウショッピングを楽しんでいるのだろうか。
北海道の名付け親・松浦武四郎の友人でもあった半泥子の祖父・石水
「川喜田家の歴代当主は和歌や茶の湯、国学、本草学(ほんぞうがく:中国古来の薬物学で、薬となる植物について研究する学問)などに造詣が深く、趣味を同じくする文化人が集まるサロンのような場所が伊勢に生まれました。その人脈は江戸や大阪などの大都市圏にも広がり、文化活動を通じて得たさまざまな情報を家業にフィードバックすることもあったと思われます」と龍泉寺さん。
特に9代目以降は文化への傾倒が顕著であるという。9代、10代は早くに隠居して京都の嵯峨野に住み、公家の門人となって和歌を詠んだ。11代は早世したが、12代、13代は松阪の本居宣長の門人となって国学を学び、表千家の茶道もたしなんだ。半泥子の祖父にあたる14代の石水は本草学に造詣が深く、京都の本草学者らと交流し、地元で物産会を開くなどしている。また北海道の名付け親で探検家として知られる松浦武四郎とは幼馴染で、親友だった。15代政豊(半泥子の父)は早世しているが、半泥子は間違いなくその血筋を受け継いでいる。
自分を誉める者は悪魔と思え! 半泥子を育てたしっかり者の祖母・政(まさ)
半泥子が歴史ある川喜田家の当主となったのは1歳になる前であった。なぜなら彼が生まれるとまもなく、祖父・石水と父・政豊が相次いで他界。母の稔(とし)はまだ若く、家に縛り付けるのはかわいそうという理由で離縁され、半泥子は祖母・政(まさ)に育てられた。
政は、半泥子が200年以上続く川喜田本家の16代当主として恥ずかしくない立派な人間に育ってもらわなければ先祖に申し訳ないと思い、その養育に心を砕いた。彼女は松阪の豪商・竹川竹斎(ちくさい)の妹である。文化人、教養人でもあった竹斎は万古焼の創始者・沼波弄山(ぬなみ ろうざん)とは遠縁にあたり、万古焼を復興したことでも知られる。
明治32(1899)年、半泥子が21歳の誕生日に政は遺訓を与えているが、その中に次のような言葉がある。
われをほむるものハあくまとおもうべし、我をそしる者ハ善知しきと思べし
「自分を誉める人間は悪魔であり、そしる人間こそが自分を真に導いてくれる良き人であると思いなさい」というのである。かわいい孫が人としての道を踏み外さないよう、政は奥行きの深い戒めを半泥子に与えた。
彼は終生「処世術のお守り」としてこの遺訓の写しを懐にいれ、長女の秋子にも写しを持たせたという。政はこの7年後に亡くなるが、半泥子は祖母の恩を終生忘れず、後に紅梅閣という供養のためのお堂を建てている。政こそが半泥子にとっての善知識だった。
半ば泥(なず)みて、半ば泥(なず)まず
半泥子が参禅するようになったのも、政の影響が大きかったと思われる。明治41(1908)年、三重県志摩町御座(ござ)出身で京都・南禅寺の官長を務めた大徹禅師(だいてつぜんじ)の下で初めて参禅。後に“半泥子”の号を授かる。「半泥子とは“半ば泥みて半ば泥まず”という意味です。“泥む”とは“こだわる・執着する”ということで、こだわりを持ちながらそれにおぼれてはならない。常に客観的に自分を見つめる目を持てという禅の師の教えです。ついつい陶芸に没頭しがちだった半泥子は禅師の言葉を思い出して、本業に立ち戻っていったのではないでしょうか」と、龍泉寺さんは当時に思いを馳せる。
半泥子は大徹禅師から“数息観”という呼吸法と“内観法”という精神統一法を授かっている。「以前は悲観的で愚痴やひがみが多く、取越苦労で思うことを口にする勇気がなかった半泥子でしたが、内観法を会得してからは楽観的で愚痴は一切言わなくなり、誰かを恐れることもなく、思うことはドシドシ口にすることができるようになったそうです」。禅は茶の湯の心とも強く結びついており、半泥子の心身の成長に大きな影響を与えた。
豊かな天分に恵まれた半泥子の青春 洋画家・藤島武二との出会い
半泥子が三重県尋常中学校(後の津中学、現・三重県立津高校)に通っていた時、洋画家の藤島武二が同校で美術の教師をしていた。鹿児島出身の藤島は、1歳年上で同郷の先輩にあたる黒田清輝の招きで後に東京美術学校の助教授になり、長く日本の洋画壇で指導的役割を果たしている。半泥子は藤島に心酔し、藤島が東京に去ってからも二人の親交は続いている。
半泥子は津市で最も早く自転車に乗った人間だったと伝わっている。そして、写真にも夢中になった。当時はガラス乾板(感光する写真乳剤をガラス板に塗ったもの)を使用した大判の写真機で、その値段は家一軒分と言われるほど高価であり、現像も高額だったという。身内や風景など身の回りのものを被写体として半泥子が撮影した作品が千枚以上残っているが、その技術の確かさと芸術性の高さに驚く。中学5年(16歳)の時には『寫眞真術小史』という写真の歴史に関する本を著すまでになっていた。
半泥子「百五銀行」の頭取として三重の経済界に貢献
明治33(1900)年、22歳の半泥子は「東京専門学校(現・早稲田大学商学部)」に入学するが、翌年6月に退学し、三重に戻って7月には分家筆頭である川喜田四郎兵衛家(かわきた しろべえけ)の長女・為賀(いか)と結婚する。明治36(1903)年には25歳の若さで「百五銀行」の取締役に就任した。
ここで「百五銀行」について触れておこう。同銀行は明治11(1878)年に国立銀行条例に基づき、旧津藩の家老・藤堂高泰(とうどう たかやす)らを中心とした旧藩士によって設立された。名前に番号がついている国立のナンバー銀行であり、105番目に認可された銀行だった。
半泥子と百五銀行の関係は、買い占めにあった百五銀行の株を、川喜田家の筆頭分家である川喜田四郎兵衛らが買い戻したことから、川喜田家が経営に参加したことに始まる。川喜田家は津の有力な商人で、藩主家とも懇意であった。奇しくも半泥子は百五銀行と同い年であった。しかし、1歳に満たない子どもをトップに据えるわけにはいかず、半泥子が十分な年齢になり、社会人としての経験を積むまでほかの人間がつないだ。取締役就任後には津市議会議員や三重県議会議員を務め、大正5(1916)年には「三重県農工銀行」(後継「日本勧業銀行 津支店」)頭取に就任。同8(1919)年にはその職を辞し、妻の父であり、5代目頭取・川喜田四郎兵衛から「百五銀行」プレジデントのバトンを渡されたのである。
以後昭和20(1945)年まで26年間にわたり頭取を務めた。“安全第一”をモットーに手堅い経営で数々の金融恐慌を乗り切り、百五銀行の発展に貢献したばかりでなく、三重県の財界でもリーダーシップを発揮。「三重合同電気(後に「中部電力」に合併)」社長や「明治生命」の監査役などを歴任している。ただし実務は得意ではなかったようで、封筒にお金を入れるのを手伝ったところ見事に間違え、二度と現場の仕事はやらなかったそうだ。半泥子の招致により、東京の「東洋軒」が津市の百五銀行ビルに出張所として開業したのは昭和3(1928)年。彼の頭取時代であった。
半泥子、焼物にのめり込む
半泥子は、中学生の頃から雑貨屋の店先で皿や徳利などを眺めるのが好きだったらしい。昭和12(1937)年に「學藝書院」から発刊された半泥子の『随筆 泥仏堂日録(でいぶつどうにちろく)』(現在「講談社」の学芸文庫として発刊 ※以下『日録』という)には、京都などへ旅行するたび、五条坂や高台寺前の焼物屋を覗いて歩いたと書かれている。
『日録』は昭和10(1935)年に鈴木恵一が創刊した『焼もの趣味』という雑誌に連載されたエッセイをまとめたものだ。連載中から好評を博し、半泥子の名前が焼物の世界に知られるきっかけになった。軽妙洒脱なユーモアあふれる語り口と、時にシニカルで歯に衣着せぬ本音トークが痛快だ。
大正5(1916)年に半泥子は東京の「集古会(古物や歴史を愛する趣味人の集まり)」の同人になっている。彼は陶製の貯金玉(貯金箱)コレクターだった。「集古会」で小説家の泉鏡花や日本画家の鏑木清方(かぶらき きよかた)らと交流を深め、古陶を研究するようになった。祖母の兄の竹川竹斎が万古焼の復興者であったことも大きかったと思われる。
半泥子の焼物歴を『日録』から紹介しよう。(『日録』の年号に一部誤りがあるため、修正している)
無茶法師(むちゃほうし)焼物年表
大正元年 頃から、千歳山の土で楽焼(轆轤を使わずに手とへらだけで作る“手捏ね(てづくね)”と呼ばれる方法で成形したもの)を試む。同 十四年 寅歳元旦、蒲郡(がまごおり)「常盤館(ときわかん)」の楽焼(らくやき)窯場で、初めての轆轤で砧(きぬた)形の花生(はないけ)を辛じて作る。
同年 七月二日、長江寿泉氏(蒲郡の楽焼師と思われる)の指図で、勢州千歳山に両口倒炎式(焚口が窯の両側にあって、炎が壁に沿って上昇し、天井にぶつかって下降することで、熱が平均化する)の石炭窯(石炭を燃料とする窯)を築く。
同年 十二月二十五日、長江寿泉老が来て、初窯を焚く。
“無茶法師”は数ある彼の号の一つだ。半泥子の“無茶”とは世間でいう常識や既存の型にとらわれず、心を自由に遊ばせることである。焼物には“半泥子”、書画には“無茶法師”の号を用いた。大正4(1915)年には津市千歳山に「千歳山荘」を建て、同市中心部の分部町(わけべまち)(現・東丸之内)にあった旧宅から移り住む。以後、昭和20(1945)年に千歳山を進駐軍に接収され、津市の郊外にある長谷山麓の広永に疎開するまで同山荘に住み、轆轤場を「泥仏堂」と名付けて作陶の拠点とした。早朝から泥仏堂に入って轆轤を引き、10時には職場へ。終わると作業着に着替えて飛ぶように泥仏堂に駆けつけるのが半泥子の日課となった。
こうして轆轤に向こうた時の楽しさ、長閑さ、輝かしさ。焼物は一生止められないなあ 『日録』
と半泥子。
自ら現地に足を運び、見て確かめ、研究する半泥子の“おれ流窯づくり”
石炭窯を築いた後、蒲郡、桑名、京都などから名だたる陶工がやってきて窯焚きを行ったが、どれも半泥子の趣味に合わないものばかりだった。『日録』には「ガッカリしてイヤになった」と書かれている。
昭和8(1933)年、「川喜田」の東京開業300年を記念して従業員一同から登窯をプレゼントされることになり、設計を陶磁器研究家として知られる小山冨士夫に依頼する。ところが初窯は失敗だった。またまたがっかりするかと思いきや、これが半泥子の心に火をつけたのである。
若(も)し此の窯が成功していたら、恐らく一生涯此の生きた教えを受ける事が出来なかったろう、とツクヅク思う。言い換えると「窯」なるものが、いつ迄(まで)も法師の腹に入らずに終ったであろう。窯というものは専門家が設計をして、窯築き職人が築くものとの考えで終ったであろう。幸いなる哉(かな)、此の失敗によって「素人の設計で素人の手で築いてもキット焼ける」と、いう信念を植付けられたのだ。元来法師は焼物が好きであったが、それは茶盌(ちゃわん)や、鉢や、其他の物を形造る事であった。それが此の時から一転して窯を築くことに興味を覚える事になった ※法師=半泥子『日録』
窯づくりに目覚めた半泥子はさっそく焼物の産地として名高い多治見や瀬戸、唐津、朝鮮半島の窯を見学し、千歳山の窯を改造。昭和8(1933)年11月にようやく焼成に成功している。瀬戸の陶工・加藤唐九郎に師事し作陶に励む一方、各地の作家たちと交流を深めながら土や釉薬、焼成についても学んでいる。さらに唐津や朝鮮半島、飛騨高山、伊勢松坂、京都鳴滝の乾山窯跡などの調査も精力的に行っている。作陶はもちろんだが調査も決して人任せにしない。自分の足で歩き、目で見て確かめ研究する。それこそが半泥子の“おれ流窯づくり”だった。
西の半泥子、東の魯山人に会う
そんな中、58歳の彼は鎌倉に北大路魯山人を訪ねる。昭和11(1936)年8月のことであった。
半泥子と魯山人。その境遇や生い立ちに違いはあるが、同じ時代を生きた大物どうし、意識はしていたとみえて「互いに聞こえるように悪口を言い合っていました」と龍泉寺さんはいう。『日録』で、半泥子は魯山人を「僧正坊はだしの大天狗」と評している。しかしその一方で自分も天狗の仲間だといい、魯山人との出会いに大きな期待を寄せていることがわかる。
火花が飛ぶか、それとも存外ピッタリト気が合うか。火花が飛んでからピッタリすればお誂(あつらえ)向きだ。法師の見る処では、存外罪のない無邪気な人じゃないかと思う。それに流石(さすが)料理の心掛けがあるだけに、器の形や、絵付けには、一寸隅におけないイイ処がある。兎に角、キヨウな天狗さんだ。『日録』
二人の出会いはいきなりやってきた。上京していた半泥子が西銀座「中島」のおかみに「魯山人に会いたいと思っている」と告げるやすぐに訪問が決まり、鎌倉の魯山人邸に出かけることになった。「中島(中嶋)」は昭和6年創業。主は魯山人が開いた「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」で初代料理長を勤めた中島貞治郎だった。
北鎌倉にあった魯山人の屋敷は『源氏物語』を連想させるような風雅な茅葺屋根の庵で、近所の古民家を移築したものであるらしかった。暑い最中東京からわざわざやってきた半泥子を、魯山人は門前に打水して迎えた。その心尽くしが、半泥子にはとても嬉しかった。以前『日録』でさんざん悪口を書いたことなど、とうに忘れていたかのようだ。魯山人が知っていたかどうかはわからないけれど…
白衣の中国服に身を包んだ魯山人は屋敷をくまなく案内し、製陶場や絵付場、瀬戸の発掘品も見せてくれた。しかも、芋煮と青唐辛子、加茂茄子のシギ焼、鱸(すずき)の洗いなどでもてなされ、すっかりご機嫌になった半泥子はお芋のお代わりとご飯を5杯たいらげて、魯山人を驚かせたという。延々9時間半にわたり、あごがだるくなるまで2人はしゃべり通した。しまいには帰るのがいやになったと、半泥子は告白している。
「あなたは話が面白いからツイウカウカと色々の物を持出します」といいながら、それでも嬉しそうな顔をして、一々自分で出しに行かれる山人と、持出された夫(そ)れ等(ら)のものを嬉しそうに、他愛なく眺めている法師とは、他所目には子供が二人仲よく遊んでいるように見えたであろう。『日録』
半泥子はこの日のことを『北大路さん』というタイトルで『日録』に書き残している。魯山人はこの時、傲岸不遜で気難しい一面はみじんも見せてはいない。半泥子に対して「あなたも自由人でお幸ですネ」と言ったという。これを「昔からの約束や、型に捕らわれないで、物を眺め、楽しむことが出来る自由さのある男という意味らしい」と、半泥子は解釈している。
半泥子が魯山人と「話がピッタリした」ところの一部を『日録』から抜粋させていただく。
一、作品のよしあしは、技術というよりも、人格の現われだという事。
一、昔のイイ焼物は、土も釉も、其場所と其時其時の自然の産物であるから、自然の味が出るのだ、という事。
一、玉の類、目貫(めぬき)、古銭等には興味を持たぬということ。
一、茶道というものは、確かにイイものでタイシタモノだが、之を誤り伝えて居る「茶人型」はイヤだ、という事。
半泥子はこの日の出会いを心あたたまる思い出として、何度も反芻(はんすう)して楽しんだようだ。しかも最後に見せられた魯山人の書は、半泥子をおおいに驚かせた。
趣味界における山人の如きは、個人的の存在として取扱うのはよくない。社会が何とかして、適当に保存する必要があるようにさえ思う。
この時、北大路魯山人53歳。半泥子より5歳年下であった。さまざまな逸話で彩られる魯山人だが、彼を見つめる半泥子のまなざしはどこまでもあたたかい。
『茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなることを知るべし』
半泥子が生涯で残した作品は3万点ともそれ以上ともいわれているが、その多くは茶陶(茶の湯に用いる陶器)である。祖母の政もお茶をたしなみ、自らも表千家流久田家の11世である久田宗也に師事し、皆伝の腕前だったという。昭和14(1939)年には自ら茶室「山里」を設計し、大工さんに手伝ってもらいながらカンナやノコギリなどを使った。茶席開きで披露した茶碗や茶道具、軸から花入、茶杓に至るまで彼の手作りで、飲んだ茶碗はそれぞれ持ち帰ることができた。茶道に精通していた半泥子だが、形骸化した茶道やそれを尊ぶ茶人と呼ばれる人々を嫌い、茶陶を資産としか考えないような似非茶人は論外だった。
「千利休は『茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなることを知るべし』と述べたといいます。とてもシンプルで、奥の深い言葉ですよね。半泥子にとっての茶陶とはお茶を客と共に楽しく、おいしくいただくための器であり、それを追求することが半泥子のライフワークでした」と、龍泉寺さん。
半泥子の茶陶たち
全体に白い粉が吹き出しているように見えるところから粉引茶碗と呼ばれる。
心酔したのは本阿弥光悦・尾形乾山 その素人性に注目
焼物の腕が上達しても、半泥子はプロではなく素人であることにこだわった。作品を売らなかったのは経済的に恵まれていたからでもあるが、彼にとっての焼物はあくまで自分が楽しむための道楽だった。人のためではなく、自分が心から欲するものを創る。約束事や慣習にとらわれず、窯の神様に任せてまだ世に出たことのないものが焼けた時は無上の喜び。その先にこそほんとうの芸術がある。それが半泥子の考え方だった。
彼が心酔し、格別の共感や親近感を抱いていたのは本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ:1558~1637)と尾形乾山(おがた けんざん:1663~1743)。室町時代から続く刀剣鑑定の家に生まれた光悦は家業に携わる傍ら、書や焼物などを得意とし、中でも書は「寛永の三筆」とうたわれた。琳派の祖として京都の鷹ヶ峰に芸術村をつくったマルチなアーティストだ。尾形乾山は尾形光琳の弟である。裕福な京都の呉服商に生まれ莫大な財産を受け継いだが、それにおぼれることなく37歳で窯を開き、陶芸に専心した。光悦と乾山は遠戚関係にある。
半泥子は二人の出自や育った環境に親近感を覚えると同時に、その芸術性に“素人性”―自分が欲するものを作る―を見出した。「光悦を夢に昼寝の伽羅枕」という句を詠むなど、光悦には憧れにも似た思慕を抱いていたようだ。また乾山の著作である『陶工必用』(作陶法などを記した秘伝書)を調査研究し、世の中に公開した。特に「あらゆる土が焼物になる可能性を秘めている」という部分に深く共感し、手当たり次第に各地の土で実験を繰り返した。そして得た結論は次のようなものであった。
第一にどんな土でも焼物になるということである。
第二に合わせ土をしないことである。半泥子は合わせ土を嫌った。「単味の土こそ灘の生一本の味である。合わせ土は安物のカクテルだ」と言った。それぞれの土の個性を大事にした。茶碗の口縁が歪んだり切れたりしても、これを修理し、いとおしみながら焼いた。焼成中に器体が割れても継いで焼いた。
第三に、腐った土よりも、山から持ってきたままをザっと篩(ふる)って使うほうがおもしろみがあるということである。百姓が鍬を打つ、その時の音に半泥子は親愛を覚えた。また霜柱の立った土を踏んだ時の感触を楽しんだ。「川喜田半泥子 無茶の芸」千早耿一郎(こういちろう)・龍泉寺由佳 共著 二玄社刊
「からひね会」設立 桃山陶の復興を通じて作陶家から指導者へ
昭和17年、半泥子は荒川豊蔵、金重陶陽(かねしげ とうよう)、三輪休和(みわ きゅうわ)とともに、「からひね会」というグループを立ち上げた。『日録』によれば“からひね”の名は、かつて千歳山に鎮座していたという“可美乾飯根命(うましからひねのみこと)”という焼物の神様に由来する。
荒川豊蔵は岐阜県多治見市出身で美濃焼の陶芸家。岐阜県可児市久々利(かにし くくり)の大平・大萱(おおがや)の古窯跡を調査し、古志野が美濃で焼かれたことを発見する。金重陶陽は岡山県出身。備前焼の茶陶の再興に尽力し、“備前焼中興の祖”とされる。三輪休和は山口県の人。旧萩藩御用窯(きゅうはぎはんごようがま)三輪家に生まれ、後に第10代休雪を名乗る。半泥子以外は3人とも人間国宝だ。
「からひね会」が目指したのは“桃山陶”と呼ばれる桃山時代に焼かれた茶陶の復興であった。桃山時代はわずか30年ほどの短い期間でありながら、茶の湯の流行とともに国産の焼物が飛躍的な発展を遂げた時代でもあった。特に千利休亡き後、弟子の古田織部が秀吉の茶頭となり、「織部焼」と呼ばれる斬新でユニークな茶陶が流行する。「『からひね会』の3人はそれぞれに美濃焼・備前焼・萩焼を代表する陶工であり、桃山陶復興活動を通じてそれぞれに独自の新境地を切り拓いていきました。半泥子は彼らから技術を学ぶ一方で、『昔の桃山陶を模倣するのではなく、それ以上の焼物をつくる』という信念を持っており、メンタル面における彼らの指導者でした。この活動が契機となり、彼らは職人的“陶工”から芸術的“陶芸家”として成長したと考えられます」と龍泉寺さん。半泥子が“近代陶芸の父”と評されるゆえんである。
廣永でたどり着いた境地 “人に褒められたくない茶碗”
第二次世界大戦が終わり、津市郊外の廣永に邸宅と窯を移した半泥子はそこで坪島圡平や吉田耕三らの弟子たちを育て、作陶三昧の日々を送った。この時代に彼が作ったのが「大侘び」と名付けられた素朴な茶碗である。形もいびつで生地も荒い。ゆがんだまま、あえてこぎれいに整えることをせず、誰にも褒められようとしていない茶碗。それこそが半泥子がたどり着いた境地であった。頭取を辞して会長となり、廣永で焼物三昧の生活を送る半泥子はもはや人の評価を気にする必要もなく、それまで背負ってきたさまざまなものをすべて下ろして素に戻ったのである。
「秋晴れやおれはろくろのまわるまま」
「廣永窯」の「泥仏堂」には半泥子像が安置された厨子がある。高齢で病気がちになった半泥子が、来客に対して失礼があってはいけないと自作したものだが、首が回るしくみになっているのはイヤな客が来た時にそっぽを向くためだという。
像の背面には「秋晴れやおれはろくろのまわるまま」の句、左右の扉の内側には、向かって右に「把和遊」(How are you?)、左側に「喊阿厳」(Come again)と書かれている。
最晩年は書画や俳句を楽しみながら昭和38(1963)年10月26日、84歳でこの世を去った。後日百五銀行葬が行われ、約3000人が別れを惜しんだ。
半泥子の遺志を現代に伝える「石水博物館」
「石水博物館」は、昭和5(1930)年に半泥子が私財をつぎ込んで設立した『石水会館』が母体となっている。“石水”の名は尊敬する祖父の号から取ったものだ。半泥子は川喜田家先祖伝来の美術品や書籍を整理するとともに、地域振興事業の一つとして「石水会館」で美術展や講演会、音楽会を開催した。創建当時は津市東丸之内にあって、鉄筋コンクリート3階建ての洋館や日本館を備えていたという。同20(1945)年に戦災で焼失したが、同50(1975)年に登録博物館として誕生。その後平成22(2010)年に法人名を「公益財団法人石水博物館」に変更し、翌23(2011)年5月、現在の場所にリニューアルオープンした。交通量の激しい国道23号が山の東側を走っているが、その喧騒(けんそう)がうそのような静けさだ。
博物館の周囲には十数メートルもあろうかという大樹が茂り、木立の向こうには昭和5(1930)年に建てられ、国の登録有形文化財となっている「千歳文庫(ちとせぶんこ)」(非公開)が見える。川喜田家に伝来する書籍2万冊を含む所蔵品約3万点を収蔵する保管庫として現役だ。4階建てで高床式、壁が二重になっており、湿度の調整に優れた構造となっている。創建当時はイタリア・スティグラー社のエレベーターがついていた。
現在、同博物館では「企画展 紅梅閣建立90周年記念 天神様と梅」2/13(土)~4/11(日)が予定されている。
〔撮影協力・写真提供〕
・公益財団法人 石水博物館 〒514-0821 三重県津市垂水3032-18 TEL:059-227-5677 http://www.sekisui-museum.or.jp/
・半泥子廣永窯 〒514-0071 三重県津市分部1770-1 TEL:059-237-1723 ※見学は要予約
・ギャラリー仙鶴 〒514-0028 三重県津市東丸之内33-1 津フェニックスビル1階 TEL:059-221-7120
〔取材〕
龍泉寺由佳 「石水博物館」学芸課長
〔参考文献〕
図録「川喜田半泥子物語-その芸術的生涯-」
川喜田半泥子著「随筆 泥仏堂日録」講談社文芸文庫
千早耿一郎・龍泉寺由佳共著「川喜田半泥子 無茶の芸」 二玄社刊