「葛飾北斎は確実に足利に来ていたと思います」。
令和の蔦重(つたじゅう)は、そう口にして目を輝かせる。栃木県足利市ゆかりの人物、とりわけ足利における北斎作品の研究に情熱を傾ける、市内出身の川岸等(かわぎし ひとし)さんだ。新聞記者をしながら地元で活躍する人たちを繋ぐ要(かなめ)役も買って出ている地域おこしのキーマンは、江戸時代に北斎や喜多川歌麿、写楽、滝沢馬琴はじめそうそうたる面々の活躍を支えた蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の現代版である。足利の調べ物で困ったことがあったらこの人に聞いてみるといいよ、そんな言い方でこの足利における令和の蔦重――今蔦(いまつた)の名を耳にすることも多い。
「地元の研究者も、あれは実際に来なければ描けない景色だと口を揃えています。もちろんデフォルメはされているんですが、この地点から見た景色だろう、というスポットもあるんですよ」。
今蔦は目を細めながらそう言った。ただ、現在は木々が生い茂り、北斎の見たであろう景色を眺めることは難しいという。
浮世絵の色彩そのままに
春先のほんの一時(いっとき)、足利の山々は北斎の色彩を現実のものとする。
撮影者(私です……)の腕がよろしくない関係で、その美しさの1割もお伝えできないのが歯がゆいのだが、初めて目にしたとき、我が目を疑った。緑にはこれほどまでのバリエーションがあったのか。
浮世絵の世界に迷い込んでしまったような、不思議な瞬間だった。
足利ゆかりの北斎3作品
足利を舞台にした北斎作品は、現在、以下の3点が知られている。
・滝沢馬琴『椿説弓張月』の挿絵「大岩山」
・『北斎漫画』「下野行道山」
・浮世絵「足利行道山くものかけはし」
このうちの1つ、浮世絵「足利行道山くものかけはし」を地元の職人が組子細工で再現している。まだ製作途中だというが、見せてもらった製作風景の写真だけでもその迫力は伝わってくる。実際の作品をぜひ見てみたい!
ということで、製作プロジェクトにも関わった今蔦こと川岸さんに同行させていただいた。……のだが、まずは北斎足利3作品を見てみよう。
滝沢馬琴『椿説弓張月』の挿絵「大岩山」
北斎は江戸時代の戯作者(げさくしゃ。現在でいう小説家)・滝沢馬琴(たきざわ ばきん)『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』の挿絵を手掛けている。
以下は、のちに足利義兼(あしかが よしかね)を名乗って鑁阿寺(ばんなじ)を創建する朝稚(ともわか)が、母親のどくろを持って下野へ帰る、というシーンだ。
背景は、足利市五十部(よべ)町付近から望む大岩山(おおいわやま)に酷似するという。
大岩山は、その他2作品の舞台である行道山(ぎょうどうさん)と尾根伝いで約1時間の山だ。ハイキングコースとしても人気が高く、山頂には日本三大毘沙門天の1つ、大岩毘沙門天最勝寺(さいしょうじ)が佇んでいる。
『北斎漫画』「下野行道山」
下野行道山(しもつけぎょうどうさん)は、下野国(現在の栃木県)足利市にある行道山(ぎょうどうさん)を描いたものである。
こちらも現在人気のハイキングコースとなっており、先ほどの大岩山山頂から足を伸ばすハイカーも多い。
画面下半分には南側の山から見下ろした浄因寺(じょういんじ)が描かれているのだが、このスケッチこそが足利における北斎研究の重要な資料となっている。
実は、北斎の浮世絵に描かれた頃と現在とでは、画面右下端の陸の孤島に佇んでいる「清心亭(せいしんてい)」の構造が異なる。
明治19(1886)年4月、浄因寺は大火に見舞われて大半を焼失した。清心亭もまたその災禍を免れ得ず、現在見られる姿は大正時代に再建(平成5年に改修)されたものである。
焼失前の清心亭は、京都清水寺の舞台と同じ構造、つまり岩の斜面に柱を立てて建物を支える「懸造り(かけづくり)」であった。この構造だった時代に撮影された古写真と北斎漫画のスケッチが酷似しているのだという。他人のスケッチや伝聞で描かれたのではないかとする研究者もいるが、細部の再現度の高さや構図などから考えると、実際に訪れていたと考えるほうが自然だと考える人も多い。
このスケッチを元に描かれたのでは、と言われるのが、次に紹介する「足利行道山くものかけはし」である。
浮世絵「足利行道山くものかけはし」
断崖に佇む寺院、そびえ立つ陸の孤島にも三角屋根の建物、深い谷を越えてその2つを繋ぐ架け橋。谷を満たして上空へたなびく雲はもう1つの架け橋か。
北斎74歳のときに出版された『諸國名橋奇覧(全11図)』のうちの1枚、「足利行道山くものかけはし」である。
奈良時代(714年)に高僧・行基(ぎょうき)によって開かれ、「関東の高野山」と評される行道山浄因寺。由緒ある寺院にこの雲が現れるのは、1年のうちわずか2日程度だという。北斎の描いた光景はあまりにリアルで、実際に見なければあの光景は描けない、と浄因寺の前住職は語ったという。
山水画さながらと評される美しい足利の風景は文人画家らにこよなく愛され、谷文晁(たに ぶんちょう)一門も足利とゆかりが深い。行道山麓の旧家には、かつて多くの文化人が訪れたといい、そこに名を連ねる人物と北斎との繋がりも推測されるという。
まだ研究段階ではあるが、北斎が実際に足を運んで描いたかもしれない、と考えると、ロマンティックが止まらない。
北斎浮世絵の組子作品と感動の対面!
ではお待ちかねの組子作品をご紹介しよう。
北斎の浮世絵を組子細工で再現しているのは、渡辺勝寿(わたなべ かつとし)さん、市内在住の建具職人だ。
渡辺さんは建具製造業「ワタモク」の4代目。中学卒業後15歳で修業を開始し、この道ひと筋約65年という熟練の職人だ。現在81歳、11年前の70歳のときに組子細工を極めると決意し、以来、衝立や屏風、灯籠など多数の組子作品を手掛けてきた。
「等さん(川岸さん。今蔦)がやってくれって言ったから、やってるんです」。
この「足利行道山くものかけはし」を作り始めたきっかけを聞くと、渡辺さんはすぐさまそう答えた。
「等さんの飾らない人柄が好きだから、大変な作業になると分かっているけれど引き受けたんです。他の人なら金を積まれてもやらなかった」。
今蔦、照れることしきりである。
今回の組子細工は、畳3枚分の地組(じぐみ)と呼ばれるベースの枠に、切れ込みを入れた小さな木片を組み合わせてはめ込んでいく。通常、組子作品に着色することはないが、今回は浮世絵の再現ということで、市内のアーティストに木片の着色を依頼しているそうだ。
上の画像右側の小さな木片を「ハッパ(葉っぱ)」と呼び、ハッパを6枚組み合わせて三角形の「コマ」が1個できる(画像左側)。今回の作品では、このコマを6万個使う予定だという。そうするとハッパは36万枚、気の遠くなるような作業である。もちろん、ハッパも渡辺さんが1つ1つ専用の道具で作る。
1コマを実際に組んでいただいた。
おまけ。
渡辺さんは独自の方法でこの浮世絵の再現に取り組んでいる。
原画をコピーして線を引き、それぞれの線に数字を振っていく。引かれた線がそのまま組子のラインになるという、いわば設計図だが、数字の線の交差する場所を基準にして、それぞれの絵柄の場所を決める。これがなかなか難しいそうだ。
去年10月に製作を開始して現在半年、完成までにはあと半年ほど要するという。
今回のプロジェクトには今蔦含め、市内在住の5人のメンバーが関わっている。完成が今から楽しみだ。
【進捗状況追記:2021年7月27日】
圧巻の大波!
ところで、渡辺さんが北斎作品を手掛けるのは、実は初めてではない。
2020年に北斎の浮世絵「神奈川沖浪裏」を題材にした精緻な組子屛風作品を再現し、高い評価を得た。製作に要したのは5年、1日10時間ほどの作業を続けたという。
障子6枚分にあたる大きさの屛風に使われたコマは約10万個にも及び、そのすべての加工を渡辺さん自ら行った。曲線部分に特に苦労し、鹿沼(かぬま)組子の名人宅に通い詰めて技法を学んだそうだ。
「この神奈川沖浪裏のように発注者がいないものは、途中でやめたって文句を言う人は誰もいないんです。でも、何年かかろうが絶対に仕上げます。完成したときには、もう次の作品のことを考えていますね。どうやったら一番きれいに仕上がるか、作業工程を考えるのが楽しいんです。こんな細かくて地道な作業、と言われることも多いですが、やっぱり好きだから、やっているんでしょうね」。
始まった仕事には必ず終わりがある、という奥様の言葉をずっと大切にしている熟練の職人は、まだまだ分からないことだらけの小僧(弟子)だよ、と北斎のようなことを言って気持ちよさそうに笑った。
足利には今、北斎と蔦屋重三郎が出現している。
取材協力:
・川岸等さん
・渡辺勝寿さん(ワタモク)