幾つもの「色」で溢れた空間だった。
同じ赤でも、青でも、緑でも、微妙に少しずつ色合いが違う。ほんの少しのグラデーションが、柔らかい印象を与えていた。
向こうが透けて見えることで、それがオブジェではなく、空間を仕切る「パーテーション」だと気付いた。よく見れば、1つ1つの小さな丸い飾りに模様がある。これらは、ただの糸ではない。
──「水引」だ
一般的に「水引」とくれば、進物用の包装やご祝儀袋を思い出す。見慣れたあの紅白や金銀の豪華なアイテム。それが「パーテーション」という形で対面するとは、思ってもみなかった。
さて、「水引」とは、良質の和紙で「紙縒(こより)」をつくり、米のとぎ汁や水糊(みずのり)などに浸けて固めたもの。
じつは、その歴史は定かではない。一説には、遣隋使が持ち帰った返礼の贈り物に紅白の「麻紐」が結ばれていたのが由来だとも。のちに、宮中への献上品を紅白の紐で結ぶという習慣が出来上がったとか(諸説あり)。
ちなみに、贈答品に水引をかける作法が一般に広まったのはもっとあと、江戸時代以降の話だといわれている。色や結び方にも意味が付され、「吉凶」で使い分けたとか。例えば、貴重な食べ物だった「鮑(あわび)」の形に似た「鮑結び(あわび結び、あわじ結びとも)」。他にも、「松竹梅」や「鶴亀」など、それぞれに似た結びの形があるという。
そして、時代と共に、水引はさらに変化を重ねて。
現在では「水引」だけが切り離され、さらに自由なモノが次々と生まれている。
今回は、その最前線で活躍する金沢の水引工房「自遊花人(じゆうかじん)」を訪ねた。工房も兼ねるギャラリーまでは、JR金沢駅からバスで15分と割と近い。犀川(さいがわ)のほとりにある小さなガラス張りの店が目印だ。
「自遊花人」は、単に「水引」という固定概念を覆しただけではない。「飾り」でもあった「水引」を、いつの間にか生活の中に溶け込ませたのだ。今回は、そんな新しい「水引」を、是非とも知ってもらいたいと取材を申し込んだ。
金沢から発信される「水引の可能性」。
それでは、早速、ご紹介していこう。
そもそも「加賀水引」ってナニ?
今回、お話をうかがったのは株式会社「自遊花人」の代表であり、自身も水引作家である「廣瀬由利子(ひろせゆりこ)氏」だ。
以下、インタビュー形式のため、登場人物は敬称略とする。
Dyson:「『加賀水引』を認められているのって、金沢で1店舗だけなんですよね。取材前に色々調べたんですが、その系譜がよく分からなくて…」
飛ばし気味の最初の質問に、廣瀬氏はゆっくりと話し始めた。
廣瀬:「じつは、伝統工芸の方たちとは、全く接点がないんです。『水引』の組合もないですし。他の水引屋さんがどんなことをしているのか、全くわからないんです…」
話に出てきた石川県の「伝統工芸」の水引とは、いわゆる「加賀水引」のコトである。
ここで簡単に説明しておくと、「加賀水引」の創始者は、初代「津田左右吉(そうきち)」。泉鏡花の幼馴染でもある。もともと小笠原流の水引折型を勉強し、のちに結納業を始めたという。端正な水引の形作りに大層苦労し、研究を重ねた結果、考案されたのが「立体的な」水引だった。
技術的に未熟な部分を目立たせないため、逆転の発想で思いついた奇策。しかし、この「立体的」な水引が、石川県の伝統工芸である「加賀水引」の始まりとなった。これまでの「平面的な水引」から「立体的な水引」へ。加賀から全国へと広がり、「水引」の主流となったのである。なお、石川県でこの「加賀水引」が継承されているのは「津田水引折型」1店舗のみだとか。
Dyson:「廣瀬さんの水引って立体的ですよね? 『加賀水引』とは違うんですか?」
廣瀬:「確かに『加賀水引』は立体的なんですけれども。『加賀水引』と名乗る時は、その先生、師匠から習った人しか名乗れません」
Dyson:「ああ、そうなんですね」
廣瀬:「私は勝手に形を作ってたので、今更習うことも違うなと思って。だから名乗れないんです」
なるほど。それにしても、勝手に…水引の形を作る?
果たして、そんなコトができるのか。
展示されている水引の作品を見る限りでは、非常に繊細で難しいという印象なのだが。
この不可解な流れに、取材中にもかかわらず、俄然、興味が沸いたのである。
「水引」に関わることになる運命的な出会い
そもそも、どうして「水引」制作を始めたのか。
まずは、そのきっかけをうかがった。
廣瀬:「ニュージーランドに日本の文化を紹介する内容のワークショップの手伝いがきっかけです。民間レベルですけれども。母の友人がニュージーランドに移住したんですね。日本の文化を発信ということで、1回目は『生け花』、2回目に『和紙』を持っていって。3回目に『水引』を持って来て欲しいと言われて」
Dyson:「向こうから『水引』を指定された?」
廣瀬:「はい。水引も触ったことがないですし、それを私たちに言うの…? みたいな。で、どうしよう…となって、金沢市内の有名な水引屋さんのところに話を持って行ったんですが、全然興味ないからと断られて」
普通なら、ここで諦めそうなところだが、先方からの指定であれば仕方あるまい。色々調べた結果、「水引」産業が有名な長野県飯田市を探り当てる。
廣瀬:「とにかく(母たちと)そこに行って、どのように水引が作られるか見に行こうとなりました。けれど、水引を作っている工場も見たんですが、(手作業で)どうやって水引を作るのかはわからない」
Dyson:「そうですよね。出来上がったものしか、見れないですもんね」
廣瀬:「どうしようと思って、朝ご飯をみんなで食べていた時に、隣のグループの人たちが、どうも水引教室の先生とお弟子さん達で。そういうグループがいたんですよ。『あ、先生だ』と。で、母が上手に交渉してくれて、その先生が教えてあげますよ、ニュージーランドも一緒に行きますよと言ってくれて。協力してくれることになったんです」
Dyson:「ええっ? スゴイ展開ですね」
廣瀬:「はい、その先生から母が水引の基本や『あわじ結び』を習って」
Dyson:「あれっ? そこは、水引を習うのは『お母様』…だったんですね…」
廣瀬:「ええ。私もニュージーランドに行きたかったので、だったら『あわじ結び』を覚えてと母に言われて…」
大学院卒業後、当時は民間の一般企業に勤めていた廣瀬氏。このニュージーランドのワークショップ開催が転機となり、以降、水引と関わる人生を歩むことになる。
ちなみに、長野県の飯田で出会った水引の先生は、地元の方ではなかったとか。偶然にも関東の方から来られていた先生と一緒になったというのである。
「水引」との出会いは偶然の連続。
これこそ、「巡り合わせ」といえるだろう。
押し寄せる「人生の流れ」に乗ってみると…
最も気になるのは、ここからだ。
手伝いとして関わっただけの「水引」が、なぜ、一生の仕事となっていくのか。
廣瀬:「日本に帰りますよね。日本に帰ってきて、家の中に水引の素材が結構残っていて。私は小さい頃から手芸とかそういうものには一切興味がなくて。でも、水引だけはちょっと面白いなと思いかけてたんですね」
ニュージーランドの人たちの反応も良かったという。せっかく覚えた「あわじ結び」を忘れたくない一心で、暇があれば小物を作っていた廣瀬氏。
廣瀬:「作っていたら、こんな形ができるなとか、こんな使い方ができるんじゃないかとか、ちょっとずつアイデアが出てきたんですね。拙いアイデアなんですが。で、勝手に作り出してました」
少しずつ形ができてきたところで、お母様主催の生け花教室のお弟子さんにも声をかけ、水引を作りたい人が集まったという。こうして、当時住んでいたマンションの一室を工房にし、作品作りを始めたのだとか。
Dyson:「この水引でやっていこうと、具体的に思われたのはいつですか?」
廣瀬:「そんなん、全然思ってないです。まだまだです。趣味みたいなつもりでしたし…」
Dyson:「じゃあ、本当に色々作ってて、次第に?」
廣瀬:「そうです。いろんな形が出来上がってきて、みんなで作って忙しくなってきて。だんだん(作品を)買いたいなという人が出てきて。それ買わせてくださいって」
Dyson:「そこからですよ! それがどうして起業へと…。もう、取材とかじゃなくて、個人的にそこに興味があるんですよ」
廣瀬:「そうですよね。私もそこからどうしてか…わかんないんですよね。本当に今、どうなってそうなったんだろうと、思ってますね」
そこは、「水引」の仕事に辿り着いた当の本人が戸惑うほど。
謎だ。本当に謎だ。
しかし、まさにコレが、人生における「流れ」なのかもしれない。
まさか…「あわじ結び」オンリー?
じつは、これまでに加賀山代温泉「星野リゾート 界加賀」など、様々な大型施設の内装を手掛けている「自遊花人」。
どうして、インテリア方面にも舵を切ったのか。
押し寄せる「流れ」について、その続きをうかがった。
廣瀬:「インテリアとかにも興味があって。何年かそういうものを作っていると、水引の長いものが手に入れば、照明のカバーのようなものができるなと思ったり。それが『あわじ結び』で作れるなとかアイデアが出るようになって。そういう実験を兼ねて作っていきました」
Dyson:「えっと…基本が『あわじ結び』なんですか?」
廣瀬:「はい。私、『あわじ結び』しか知らないので」
おっと。これは、どういうことだ。
「あわじ結び」しか知らないというコトは…。
まさか…。
Dyson:「ええっ? コレって…『あわじ結び』だけで作られているんですかっ?」
廣瀬:「ですね。平たくなったり立ち上がったり。(あわじ結びが) いろんな形に変身して、バリエーションが増えていきました。意外と『あわじ結び』って、しっかりした結びになっていくんですよ。たくさん結んでいくと」
じつに斬新だ。色々な結びのパターンを組み合わせて作られたかと思っていたが、そうではなかった。シンプルな「あわじ結び」オンリーで、作品は成り立っていたというワケである。
廣瀬:「隙間を作ってみたり、逆に、隙間なく結んでみたり。『あわじ結び』といっても、色々なバリエーションができます。本数を変えるとか。『3本取り』を『5本取り』にするとか。それで違う雰囲気のものが作れるんです。『あわじ結び』からお花ができるなとか。お花を重ねて立体的なブローチができるなとか。作った時に初めて発見していくような、そんな感じです」
純粋に水引を楽しむグループだったはずが、いつの間にか作品の口コミが広がっていく。次第に個人の顧客のみならず、法人の顧客も出始めたという。
廣瀬:「一緒に仕事をした人の知り合いの方が興味を持ってくださったりだとか。『これは面白いから、こうしたらもっと仕事になるんじゃないか』とか。『こういうものを作ってもらえないですか』とか。そういう風に言ってくださって」
やはり、流れとはそういうものなのだ。
ムリに流れを作っても、あとで曲がりくねって制御不能に陥ることもある。しかし、自然にできた流れは、そうならない。もちろん、流速の緩急はあるにしろ、確実に前へと進んでいくことはできるのだ。
廣瀬:「最初の頃は、本当にそういう助けが多かったですね。皆さんから来られて。助けの手を多く頂いて。私たちがアピールする前に、外から私たちのことを見つけてくれたんです」
こだわりの水引の「糸」は160色以上?
徐々に持ち込まれる仕事が多くなったと、廣瀬氏。
ただ、このコロナ禍では別の動きがあるという。
廣瀬:「じつは、最近、『素材系』が売れてるんです。うち、糸とかも作っているので」
Dyson:「糸というのは?」
廣瀬:「紙芯に糸が巻かれていてる『飾り糸巻き水引』を作りたかったんですね」
水引の材質は様々だ。
そのまま色付けするものもあれば、紙芯に色のついた糸を巻くものもある。この「飾り糸巻き水引」は後者だ。当初は、水引の糸を長野県の飯田から取り寄せていたという廣瀬氏。ただ、これには問題があった。
廣瀬:「廃番になる色が出てきたんですね。私たちにとっては1色1色が大事な色なので、それがなくなったら困るんですが、どんどん廃番になっていて。これじゃあ作品を作れなくなると。そういう危機感もあって。糸も自分たちで作るしかないと、石川県の工業試験場に相談に行ったんです」
Dyson:「で、どうなったんですか?」
廣瀬:「紙芯は調達できるんですが、そこに糸を巻く技術を持つ人が欲しかったので。ズバリそのものの技術ではないですが、カバーリングという『巻く技術』を持つ人を紹介してもらいました。その方が非常に頑張ってくださって…紙芯に糸を綺麗に巻いてもらう技術を確立してもらいました」
その結果、「自遊花人」は石川県産の水引の糸を使用して作ることができるようになったという。廣瀬氏曰く、「飾り糸巻き水引」は一番丈夫で作りやすく、発色が綺麗で長持ちもするのだそうだ。その上、現在は廃番の心配もなく、逆に作品で使いたい色も自由に使用できるようになったとか。なんと、その種類は160色以上。繊細な色合いの作品が作り出せるのも頷ける。
Dyson:「よくぞ、いい人材と巡り会えましたね?」
廣瀬:「公益財団法人石川県産業創出支援機構(ISICO)のお陰です。新しく仕事をする人たちをバックアップし、相談に乗ってくれる機関です」
Dyson:「どうして、そこに?」
廣瀬:「ビジネスプランを発表して、最優秀賞をもらって現金500万円頂いたんですね」
Dyson:「おおお。スゴイですね」
廣瀬:「有難いのは、経営指導を1年間してもらえるんです。どんなことがしたいのか全部聞いてくださって、自前の水引の糸が作りたいと言えば、工業試験場さんを紹介してくれて。やりたいことを全部言ったらバックアップをしてくれるんです。糸が作れたのも、そこのお陰なんです」
ただ、糸を作る側からすると、その苦労は並大抵ではなかったらしい。本来は「ゴム」に巻きつける技術だったとか。それが「紙芯」に変わるのだ。そのため、道具作りから始めて、巻く回転数や強度など試行錯誤の末、ようやく「糸」が完成したという。
Dyson:「今となっては win-win ですよね。その糸を作った業者の方も利益が出ますし…」
制作リーダーの石丸睦美(いしまるむつみ)氏と廣瀬氏が顔を見合わせる。
石丸:「いや、もうちょっと売れないと…」
廣瀬:「私たちがもうちょっと頑張らないと…win-win にはなりませんね。本当に申し訳ないという気持ちがあります」
Dyson:「何か挑戦してみたいことはありますか? 今後の展望とか」
廣瀬:「個人的に、やはり今までやってきた仲間と仕事をしていきたいし、空間の装飾ができたら楽しいだろうなとは思います。あと、個人で(水引を)作る人も増えてきたので、糸をいろんな人に可愛がってもらって、作品が巷に溢れるようになってくれたらいいかなと思います。それには、糸を使って作品ができるように自分達も発信していく、そういう方面にも力を入れたいと思っています」
「水引」で繋がった最高の仲間
取材の終盤で、会社、そして廣瀬氏自身のことをうかがった。
株式会社「自遊花人」は、ちょうど設立10周年を迎えたところだという。現在、従業員は15名ほど。じつに、かけがえのない最高の仲間だと、廣瀬氏は感謝の言葉を何度も口にする。
これには、制作リーダーの石丸氏も同意する。
石丸:「本当に楽しくやってます。昔は3時にお茶したり、集まって話をしたり。物を作るのも楽しいですが、そこに行って社長やみんなと一緒に過ごすことが楽しい。そうやって続けてきました」
廣瀬:「内装とかをみんなで一緒に作り上げて、最後、完成した時の喜びが忘れられなくて。もっとこんな仕事をしたいという気持ちになったんです」
石丸:「そうそう、パーテーションを作った時に徹夜して。(納品先が)レストランなんですけれども、設置できる時間が限られてて。他の作業が押してくると私たちの時間がどんどんなくなって、どうなるかと思ったんですけれども。社長と一緒で、その完成したときの喜びがずっと残ってて、未だにみんなと作るのがやめられないんです」
好きなコトを仕事にして、仲間と楽しむ。その成功体験で、さらにもっと好きになる。良い循環だと思う。仕事の動機は人それぞれだ。「お金のため」と割り切るのも1つ。もちろん、やりたくない仕事もあるだろう。そんななかで、「好き」と「仲間」の両方を手に入れたのは、「自遊花人」の強みといえるだろう。
それにしても、である。
取材を通して、予め抱いていた廣瀬氏の印象はガラリと変わった。
廣瀬:「40代って色々あって。病気もしたし、その頃、頭ぐちゃぐちゃになってるんですよね、私。でも、病気になっても周りの人が支えてくれて、この仕事辞めなくてもよくなって。助かって、今に至るんです」。
Dyson:「正直、お写真を拝見したときにスッとした感じの方なのかなと…」
石丸:「緊張して顔が強張ってるだけで。みんなに笑えと言われるんですが、余計に社長はひきつるんです」
廣瀬:「私は野放しにされた方がいいんです…」
Dyson:「元々、前向きにどんどん挑戦するタイプなんですか?」
廣瀬と石丸:「いやいや」
2人は口を揃えて否定する。
廣瀬:「それは別の人で。すごいのがいるんです」
Dyson:「どなたが?」
廣瀬:「母です。後ろ向きなことを言うと怒られるんです。『やってもみんでそんなことを』って。特に私は言われてます」
その噂の廣瀬氏のお母様がご登場。
「自遊花人」についてお話をうかがうと、やはりこちらも「最高の仲間」だと同意見だ。
お母様:「娘が一番幸せなことは、仲間がいるということです。常に良い仲間が集まってきてくれて。これ、私、自慢していいことだと常に思っています。 本音で話しながら、会社のことや社長(廣瀬氏)のこと、年老いた私のことも想ってくれる、愛を感じるんです」
Dyson:「本音で話すって難しいですよね、本当に信頼していないと言えないですから」
お母様:「そうです。会社は『人』だと思います。あまりいい人が集まらなかったら個人でやってる方がいい。一人で黙って作ればいいだけの話で。だから、本当に感謝ですよ。私と娘とだったらここまで来なかったと思います。対立するし喧嘩するし、意見も違いますから」
取材の最後は、さすが年の功。
お母様の素敵な言葉で締まった。
お母様:「やっぱり人ですね。よい方が集まってくださって。水引が結ぶご縁かなと」
こうして、2時間の取材が終了した。
最後に。
取材の途中で、なぜ「自遊花人」を取材しようと思ったのか、取材を受けて下さった方々にこぞって質問された。彼女たちの実際の言葉を借りれば、「どうして、うちなんかを…」という問いである。
正直、迷いがなかったといえばウソになる。
石川県の伝統工芸として認められているのは、他の水引屋だ。だから、これまでの伝統に重きを置けば、取材対象は「自遊花人」ではなかったのかもしれない。
ただ、逆に、伝統を第三者的な視点で受け止め、意識せずに「水引」の固定概念から脱却する。そんな方向性に、さらなる可能性を感じたのは「自遊花人」だった。
それこそ、会社の名前に使われている「自遊」という言葉。
肩肘張らず、遊ぶように水引と関わる。この言葉をそのまま体現した「水引」に、純粋に惹かれたのだ。
そして、取材を終えた今、自分の選択は間違いではなかったと思う。
「水引」を独学で発展させ、小物のみならず照明やパーテーションなど、インテリアの内装をも「水引」で表現するという斬新さ。オブジェとして見るだけの「水引」ではなく、生活の中に溶け込んだ「生きた水引」は、非常に魅力的だ。
その作品の原点はただ1つ。
「水引が好き」というシンプルな気持ち。
今回の取材で、じつに「楽しい」や「好き」という欲求ほど、シンプルでかつ強烈なモノはないと改めて実感した。
だからこそ、たとえ壁に当たっても、諦めずに前へ前へと進めるのだろう。
そして、もう1つ。
個人的にだが、今回の取材で思わぬ成果があった。
それは、いつの間にか薄れていた、書くことへの「初心」を再認識したコト。
文章を書くことが、ただ「好き」で、「楽しい」という純粋な気持ち。
それこそ、「わたしなんかが…」。
けれど、やはり私も同じ。
この気持ちは止められないのである。
参考文献
『和力―日本を象る』 松田行正著 NTT出版 2008年1月
基本情報
名称:自遊花人
住所:金沢市清川町7-9
公式webサイト: https://www.jiyukajin.net/