「ミキモト」のハイジュエリーデザインの原点ともいわれる、1937年のパリ万博に出品された帯留め「矢車」。 それを新たに解釈したコレクションから、今に受け継がれる「ミキモト」独自の様式美を動画とともにひもといていきます。
「真珠は宝飾品になってこそ価値がある」
こう考えた御木本幸吉翁は、真珠の養殖に成功した直後から、ヨーロッパに負けないジュエリーを自らの手で生み出すことを決意します。そのためには、技術を向上させるだけでなく、独自のデザイン開発にも力を注ぐ必要がありました。
そこで幸吉翁は、専属工場を設立するのとほぼ同時期に、工芸学校でデザインを指導していた淵江寛氏を招聘。デザインを専門に手がける「図案室(現・デザイン課)」を社内に設立します。職人にすべてが委ねられていた時代、それは画期的な試みでした。
淵江氏は、日本美術に源流をたどることのできる日本独自の様式美とヨーロッパ伝統の宝飾技法を巧みに融合し、“ミキモトスタイル”と呼ばれる唯一無二のデザイン様式を確立していきました。
パリ万博で絶賛。伝説のハイジュエリー「矢車」
その集大成ともいえる作品が、1937年のパリ万博に出品され、世界に「ミキモト」の名を知らしめたハイジュエリー「矢車」です。それは、帯留めのほかブローチやリング、髪飾りなど12通りに使うことのできる驚きの多機能ジュエリーで、その革新性だけでなく、格調高いデザインと高度な技術が会場の話題をさらいました。
パリ万博直後に欧州で買い取られたが、1989年にニューヨークの美術オークションに登場。「御木本真珠島」が落札し、日本に里帰りを果たした。
12通りに姿を変えた「矢車」。帯留め(左上)の中心部分をパーツにセットすると髪飾り(右下)にも。
12通りの使い分けを可能にする「矢車」のパーツ。専用ケースに完全な 状態で保管されていた。
2018年、その「矢車」が養殖真珠誕生125周年を記念し、現代的に再解釈され、新たなジュエリーコレクション「YAGURUMA」となって登場。アールデコ様式は踏襲しながらも、モノトーンの宝石づかいと近代的なセッティングにこだわった輝きは、優美でいてモダン。その洗練された意匠は、ジュエリーデザインもまた、時代に合わせて進化すべきものであることを示しています。
伝説のハイジュエリー「矢車」の要素 を分解し、現代的に再解釈してデザインされた新ジュエリーコレクション「YAGURUMA」。アールデコ様式の特徴である直線的なラインは踏襲しながらも、透かし細工で軽やかに。黒から白へと変化する真珠のグラデーションが、モダンな意匠にシックな華やぎをもたらす。 『YAGURUMA (ヤグルマ)』 ネックレス[黒蝶真珠×白蝶真珠×アコヤ真珠(約2.5~12mm)×ダイヤモンド計 8.58ct(クラスプ部を含む)×WG] ¥15,000,000(ミキモト)
伝統と挑戦。図案室から受け継がれるもの
「ミキモト」のデザイナーたちは、図案室が開設された当初から今日にいたるまで、日本画用の面相筆を用い、和紙に墨でデザイン画を描いてきました。精緻な線が描ける面相筆は、“ミキモトスタイル”のジュエリーの繊細な表現に適していたのです。そういった伝統は守りながらも、新たなことに果敢に挑戦していく──それこそが、常に未来を見つめ、道を切り開いてきた御木本幸吉翁の信条でした。「ミキモト」のハイジュエリーには、そんな創業者の情熱が今も息づいているのです。
「ミキモト」のデザイナーたちが愛用している面相筆。やわらかく繊細な線が描けるが、慣れるまでに半年以上を要するという。
「悪い案も出せないヤツに 良い案が出せるか」
1939年のニューヨーク万博に出品された『自由の鐘』と幸吉翁(右)。真珠で贅沢に飾られた鐘は、会場で評判を呼んだ。
先見の明がある御木本幸吉翁は、半円養殖真珠が誕生した1893年から、海外の万国博覧会に積極的に参加。1926年のフィラデルフィア万博では法隆寺の五重塔、1933年のシカゴ万博ではジョージ・ワシントンの生家などを真珠でつくり、現地の人々を驚かせました。展示作品が注目されるたびに「ミキモト」の名は新聞などのメ ディアで大きく取り上げられ、それが海外進出の一助になったことは言うまでもありません。博覧会が世界で盛んに開催された時代、話題作を出品し続けることは決して容易ではありませんでした。それでも幸吉翁は、自ら率先してアイディアを出したと伝えられています。「悪い案も出せないヤツに良い案が出せるか」という社員に向けた幸吉翁の言葉は、度重なる失敗にもくじけることなく真珠養殖を成功させた真珠王ならではの人生訓といえるでしょう。
文/福田詞子 撮影/唐澤光也(パイルドライバー) web構成/久保志帆子
※文中のWGはホワイトゴールド、ctはカラットを表します。