和時計は「大名時計」だった! 「時の鐘」で充分だった庶民の時間
和時計は、別名「大名時計」とも呼ばれています。扱いがとても難しい上に、非常に高価だった和時計は、主に大名家で公務に使われることを目的としたからです。では庶民はどうだったかというと、実は一般人がこの時計にお目にかかることはほとんどなかったと言われています。不定時法では太陽の動きで時刻を計れますし、曇や雨の日でも、「時の鐘」さえ聞こえれば、生活には充分だったからです。時の鐘とは、江戸の街で一刻に一回撞かれていた鐘で、時報のようなものです。17世紀には全国に広がり日本中で鐘が鳴っていたと言われています。
川越市に現存する「時の鐘」(小江戸川越観光協会)今でも、午前6時・正午・午後3時・午後6時の1日4回、川越に時を告げています!
時の鐘には「町の鐘」の他、「城の鐘」といって各藩の大名屋敷で政務時間を管理する目的で鳴らされた鐘、また「寺の鐘」といって仏事や勤行のために寺院で鳴らしていた鐘がありました。一般市民には必要なくとも、それらの鐘を正確な時間に鳴らすには、やはり機械式時計が必要だったのです。
忠臣蔵八景 二だん目の晩鐘(セイコーミュージアム)大名家には必ず、一日中時計の番をする時計係がいたそうです。
実用品を超えて・・・美術品の境地へ?!
和時計、またの名を大名時計は、大名屋敷で時間を管理するという立派な役割を与えられた、まごうことなき実用品です。しかし、一つ一つのパーツを全て人の手によって仕上げた時計師たちがもっとも注力したのは、機械としての正確性よりも、そのデザイン性だったと言われています。和時計の指針や文字盤、外装部の意匠は一つ一つ違います。そして、そのどれもが本当に美しいのです。時計師たちのプライドは、技術者としてというより、アーティストとしての優れた技巧にあったのかもしれません。こうして和時計は発展とともに、美術工芸品としての要素を強めていくことになります。
意匠の例(全て大名時計博物館)