ナイフで魚を捌く。海に囲まれている国の人間ならば、このスキルは必須のものだ。
が、人類の生活が豊かになればなるほど「ナイフ離れ」という現象が進んでいく。スーパーマーケットに行けば、肉も魚も切り身で売りに出ている。消費者はそれを買って調理すればいい。
ナイフを使う機会がない。故に、生涯で一度も魚の三枚おろしを習得する機会もない。
これを「深刻な事態」と捉えるか「時代の流れ」と捉えるかは、人によるだろう。ただし、前者を主張するなら大人だけでなく子供にもナイフを持たせてやる必要がある。「子供に刃物を触れさせない」という発想は、結果として「魚を捌けない大人」を増やしていく。
話題のサカナイフが進化!
その憂いを抱いているのは筆者だけではないようだ。
2年近く前になるだろうか。富山県に所在する株式会社TAPPから、『サカナイフ』という商品名のナイフを貸してもらったことがある。この時は和樂Webではないガジェットメディアの記事執筆だったが、そこでサカナイフの機能について正直に書かせていただいた。
もし問題のある製品だったら、筆者は最初から記事にしない。このあたりの行動原則はメーカーに対しても、そしてサカナイフが資金調達を行っていたクラウドファンディングMakuakeに対しても告げている。だが、サカナイフに関してはちゃんと記事に書いて配信した。筆者の事前予想を上回る、素晴らしい製品だったからだ。
誰でも簡単に三枚おろしができるように配慮されたブレード形状、そして子供にこそナイフを握ってほしいという心遣いがそこにあった。
そんなサカナイフが改設計されたと聞き、筆者は早速ながら試供品の配送をメーカーに依頼した。
ハイレベルのグラインド形状
ブレードと柄が一体化された『サカナイフ for kitchen』は、前作のサカナイフよりも大きくなった。
従来型の全長は柄を含めて21.6cm。それがfor kitchenでは26cmに延長されている。
サカナイフの切っ先は、魚の背と腹にトレースラインを入れるためのJ型刃になっている。そこからブレードの中腹まで薄い刃が続き、下半分にはセレーション(波刃)が施されている。
筆者が注目したのは、上記の「薄い刃」である。
驚いたことに、ホローグラインドで研削されているのだ。ホローグラインドとは、ブレードの両側から凹状に削る技術である。このブレードの断面を見れば、内側に抉れているはずだ。その分だけ刃が細く、繊細なものになる。もっとも、サカナイフの場合は内側への抉れが一目では分かりづらいほどの微々たる、そして絶妙なグラインドアーチだ。いや、もしかしたら単純に「ホローグラインド」と分類してはいけない、独特の技術かもしれない。
だとすると、筆者はとんでもないものを目の当たりにしているのか……?
筆者の見識が製造メーカーの技術に追いつかないことはしばしばあるから、こういう記述になってしまうのはどうかご容赦願いたい。しかし工業製品の論評における「とんでもない」や「こんなもの見たことない」という表現は、紛れもなくプラス評価の言葉である。
このナイフの制作を手掛けたのは、貝印株式会社。ナイフマニアでなくとも、誰しもが知っている有名企業である。メーカーナイフで内削ぎ式のグラインド(しかも下半分はセレーション)というのは、それ相応の生産技術と設備がなくてはならない。設計図を描いて渡せばどこのメーカーでも作ってくれる、というものではないのだ。
実績のある企業しかこれを量産できないのは、むしろ当然のことである。
超簡単に三枚おろし!
近所のスーパーマーケットでサバを買った。
今回は、このサバを三枚にしてみたいと思う。
まずは魚の腹と背にトレースラインをつける。この時に使うのは、先述のJ型刃。その後、セレーションの部分を使って魚の頭を落とす。サカナイフのセレーションは、背骨を簡単に断ち切ってしまう。そこにストレスは感じない。それが済んだら、内削ぎの刃で魚の身を横方向に割く。先ほどのトレースラインに沿ってやれば、とくに苦労なく魚の三枚おろしができるという寸法だ。もっとも、最初から三枚おろしに慣れているのであれば、J型刃でのトレースラインは必要ないだろう。実は筆者自身、J型刃にはあまり頼らなかった。
ある程度の経験があれば、一足飛びの使い方をしても構わないと筆者は考える。言い換えれば、ビギナーにとっても経験者にとっても使い勝手のいいナイフということだ。
薄切り用包丁も
もうひとつ、捌いた魚を刺身にするための『サカナイフNEXT』について解説しよう。魚用の包丁と言えば日本では柳葉包丁、西洋ではフィレナイフが使われているが、サカナイフNEXTはそのどちらとも判断できない形状の製品だ。これをフィレナイフというには、あまりに肉厚ではないか?
しかし、少し力を入れただけでたわんでしまうフィレナイフは、初心者には難しいものでもある。練度が上がれば「たわむブレード」のほうが有利なのだが、問題はそのレベルまで到達するのに相当な苦労がいるということだ。
敢えてブレードに厚みを持たせ、安定性を付加する。それでも魚の身の薄切りを実現させているのは、微細なセカンドベベルの賜物ではないかと筆者は考える。サカナイフNEXTは先述のサカナイフ for kitchenとはグラインドの方式は異なるが、刃の先端から恐らく1mm程度のスパンで角度がついている点は共通している。この部分がいわゆるセカンドベベルである。
これを量産品として製造できる技術は、やはり並大抵のものではない。
「趣味」としての料理
サカナイフ for kitchenとサカナイフNEXTは、クラウドファンディングMakuakeで出資を募っている。定価は税込1万32円ということだが、Makuakeではそれよりも割引された価格で提供されている。
さて、ここで「魚用包丁に1万円出せるのか?」ということを考えてみたい。
普段使いの包丁であれば、100円ショップに行けば入手できる。別にプロの料理人ではないのだから、100円ショップの包丁で食材を切っても生活に支障は出ないはずだ。
しかし、そのような料理は徹頭徹尾「作業」である。それ以外の意味はない。
対して、とっておきの1万円をはたいて買った包丁は、料理を「趣味」或いは「娯楽」にしてくれる。文化や文明は、人類が趣味に目覚めた瞬間から興るものだ。
筆者はナイフに限らず、モノを買う時は額面の価格や原価で判断しない。この製品にどれほどの付加価値があるのだろうか、という視点で考える。100円以上の付加価値を見出せない100円の包丁と、数万円分でもまだ足りないと想像できる付加価値を含んだ1万円の包丁、どちらを買うべきかと問われれば筆者は間違いなく後者を選ぶ。
刃物産業は、まさに付加価値の世界。サカナイフはそれを教えてくれる製品でもある。