「斧(おの)」と「鉞(まさかり)」は、一体どこがどう違うのだろうか?
鉞の場合は柄とブレードの接続部が刃の部分よりもくびれている、というのが一応の区切りである。しかし現実問題として、斧を日常的に使っている人が「これは斧、これは鉞」ときっちり呼び分けているとは筆者には考えづらい。そのあたりで斧と鉞、或いは手斧(ちょうな)、ヨキはだいぶ混同されているはずだ。
さらに、同じ鉞でも地域毎に形状が異なる。動物と同じで、刃物もその地域の様々な条件に沿った独自進化を達成するのだ。
そういう意味で、斧や鉞はナイフとはまた違った難しさがある。
黒い柄と割込工法
だが、難しいからと言ってそれをいつまでも避けているようでは、こちらの物書きとしてのレベルが上がらない。
今回は新潟県三条市の水野製作所が生産した鉞を紹介しよう。木製の黒い柄が美しい、この鉞。さすがにブレードも分厚い。ナイフではなく鉞だから、当たり前なのだが。この製品は、いわゆる割込工法である。英語では「Inlay technique」と呼ばれるが、ローカーボンの隙間にハイカーボンを入れ込む技術。肥後守も、この割込工法が用いられている。
ブレードの刃の部分はより硬いハイカーボン、背の部分は柔らかいローカーボンという位置関係だ。この工法は、鉞においても有効である。この鉞の重量は860g。片手で振るには、ちょうどいい重さかもしれない。少なくとも、筆者の手にはすぐに馴染んだ。
筆者はアメリカのアックスやトマホークなどにも接してきたが、それらに比べたら日本の鉞は製材作業に向いているというべきか。刃が直線的だから、とくに薪割りに使うには非常に勝手がいい。何より、カッコイイじゃないか!
メーカーの水野製作所は、越後三条打刃物の伝統工芸士水野勲氏が代表を務めている。
「伝統工芸士」設立の背景
伝統工芸士は国家資格だ。
日本各地の伝統工芸を保護するためにこの制度が新設されたのは、1974年。池田勇人首相の所得倍増計画が現実の光景になり、日本のGNPは飛躍的に向上した。一方でその富が日本各地に行き渡ったというわけでもなく、地方の若者は次々と都市部へ出稼ぎに行った。
米農家の場合は、田植えから収穫までは実家で過ごし、その後は次の田植えまで都会へ稼ぎに行くという年間サイクルが確立した。が、一度都会へ出た者がまた故郷へ戻ってくるとは限らない。東京にいたほうがより稼げると分かれば、無理して実家に戻る必要はない。
こうして地方から若者がいなくなった。
1972年から74年にかけての日本の首相は、田中角栄である。田中の掲げた「日本列島改造論」とは、平たく言えば日本国内の地域間経済格差をなくそうという試みだ。
そのためには、地方と東京をつなぐ交通インフラを整備しなければならない。しかし地方の伝統産業が衰退すれば、交通網を整備したところで出稼ぎ労働者は減るどころか増えるだけである。
国家資格としての伝統工芸士の設立は、当時の日本の社会課題だった「地方都市の活性化」が背景に存在する。
江戸の民家を支えた三条鍛冶
今の新潟県三条市は、かつて「和釘の産地」として知られていた。
徳川幕府治世下の江戸は、火災の多い都市でもあった。民家はどれも木造家屋だから、一度火災があれば高確率で灰になってしまう。
そのため、釘の需要は常にあった。産地である三条は、建築資材の供給地だったのだ。
同時に三条は、周辺地域から農具や工具を製造する技法を取り入れ、日本有数の金属鍛造都市に成長した。が、山陰地方がたたら製鉄による日本刀鍛造を起源にしているのとは違い、三条は武器ではない刃物の鍛造から端を発する。
三条打刃物の職人にとっての顧客とは、武士ではなく市井の町人や農民である。故に、三条打刃物を抱えて全国を旅する行商人も多かった。
三条市は「商人の町」と表現することもできる。
そんな三条打刃物が経済産業大臣から伝統的工芸品に指定されたのは、2009年。僅か10年前の出来事である。この町の刃物づくりがかけがえのない伝統産業だということを、ようやくながら国が認めたのだ。
アウトドアレジャー初心者にオススメ!
今回入手した水野製作所の鉞は、片手持ちだ。
都会に住む者にとって、鉞など日常的に使用する道具ではない。しかしそれでも、物置の中に鉞の1本は忍ばせておいてもいいのではと筆者は思案している。この鉞は薪割りを目的にする道具で、だからこその振り回しやすさ、意外なコンパクトさを実現している。現代人は「斧や鉞」と聞くと、両手持ちのやたらと大きい道具を連想しがちだ。しかし、そんな戦斧みたいな物体は昔の人に取っても非日常的な代物で、斧や鉞と言えば大抵は片手で扱う道具である。
ちょっとしたアウトドアレジャーを始めるために、まずは鉞を1本買ってみるというのは決して飛躍した選択肢ではないと思うが、いかがだろうか。