滋賀県甲賀市水口(みなくち)に、ミステリアスな洋剣がある。戦国大名・加藤嘉明を祀る藤栄神社に伝わる十字形洋剣だ。2013年、偶然この洋剣が文化財研究者の目にとまったことから衝撃の事実が明らかとなる。専門家による調査の結果、およそ400年前に日本刀の技術を応用してヨーロッパのレイピア(洋剣)を模造したものと判明したのだ。「水口レイピア」と名づけられた日本唯一の伝世洋剣は、瞬く間に大ニュースとなった。
水口レイピアを観に行ってみた
近江鉄道「水口城南駅」から徒歩2分。水口レイピアが展示されている甲賀市水口歴史民俗資料館へ訪れた。
1987年に藤栄神社から寄託され、加藤嘉明由来の宝物として同館に保管されている。館内の奥、中央に展示されているのが、水口レイピアだ。
水口レイピアは1951年に銃砲刀剣類に登録されている。決して存在が明るみに出ていなかった訳ではなく、公的に存在する洋剣だったが、本格的に調査されることもなく、長い間ひっそりと伝えられてきた。しかし、東京文化財研究所の小林公治室長と甲賀市教育委員会を中心とした調査によって、その歴史的価値が明らかとなったのだ。
日本刀の技術が駆使された洋剣
2013年から約6年にわたり、水口レイピアの調査が行われた。その結果、水口レイピアは、およそ400年前の日本刀の技術を応用してつくられたものであることがわかった。CTスキャンによると、一般的なレイピアと水口レイピアは、柄(つか)と剣身の接続部分の構造が、決定的に異なっている。
ヨーロッパでつくられるレイピアの場合、刀身を柄に刺し、ハンマーで叩くことで固定する。しかし、水口レイピアは高度なねじ構造によって柄と剣身を接続しているのだ。さらにSPring-8における放射光で刀身を透視すると、鉄を何度も折り重ねて打つ「折り返し鍛錬」と呼ばれる日本刀の鍛造と同じ技術が用いられていることも判明した。
超絶技巧で洋剣のデザインを再現
2017年には、世界有数のレイピアコレクションを誇るメトロポリタン美術館から、武器武具部門長のピエール・テルジャニアン博士が来日。現地調査を実施した。博士の見解は「水口レイピアのモデルとなったヨーロッパのレイピアは、1600年〜1630年につくられたものである。しかし、水口レイピアは実用性に欠ける面がある」という内容だった。
1600年前半、ルネサンス期の代表的な洋剣のデザインは籠柄をつけた長剣だ。貴族好みの華奢で豪華な柄のつくりは、水口レイピアとよく似ている。
しかし、水口レイピアの柄は、ヨーロッパのレイピアには決して見られない特徴がある。ヨーロッパのレイピアの持ち手の部分は、コイルを巻き装飾を行う。一方、水口レイピアの持ち手のコイル部分は銅の上にすべて彫刻で再現されているのだ。また、銅を洋剣の柄に使用する例は実戦向きでないため、世界でも見られず、水口レイピアが日本でつくられたことを決定づける証拠のひとつとなった。
誰が何のためにつくったのか?
水口レイピアの製造は、一流の技術を持った職人たちと膨大なコストを要したであろう。残念ながら、この剣にまつわる文献や資料は発見されておらず、誰が何の目的でつくったものか定かでない。しかし、地元にはこんな伝承もある。
江戸時代、甲賀市にあった水口藩。その初代藩主は加藤嘉明の孫であり、水口レイピアが伝わってきた藤栄神社は「藩祖」として嘉明を祀っている。豊臣秀吉に仕え「賤ヶ岳の七本鑓」の一人としても知られる加藤嘉明は、南蛮文化に強い興味を持ち、南蛮伝来の兜のほか、槍にまとうビロードも所有していたと伝えられている。これらのことから、水口レイピアは嘉明が豊臣秀吉から授かったものではないか? とも考えられていたが、1600〜1630年につくられたことが最近の調査で判明し、秀吉とは関係がない可能性がある。
謎多き水口レイピアが意味するのは、17世紀前半の日本において、ヨーロッパから伝来した洋剣を日本人が丹念に調べ上げ、その模作まで行なってきたという事実。職人たちが、異国の技術を自国の技術でどうにか正確に再現しようと努力した結果である。戦国武将が、西洋の武器研究のためにつくらせたのか? あるいは権力者が、その象徴のためにつくらせたのか…?
水口歴史民俗資料館での水口レイピアの展示は令和2年1月末まで。次回の展示は未定となっている。刀剣ファン歴史ファンのみならず、日本唯一の伝世洋剣をめぐる物語を妄想してみてはいかがだろう。鑑賞できる貴重な機会に、ぜひ足を運んでもらいたい。
水口レイピア 展示情報
展示場所:甲賀市水口歴史民俗資料館
展示期間:令和2年1月29日(水)まで
開館時間:10:00~17:00
休館日:木・金曜日、12月29日~1月3日
住所:滋賀県甲賀市水口町水口5638
入館料:大人150円 小・中学生80円