葛飾北斎の人となりを伝える、さまざまな決まり文句の一つに「長寿」があります。北斎の暮らし向きは決して豊かではありませんでしたが、健康にはことさら注意を払っていたようです。北斎の長寿は健康に対する日ごろの心がけが辿り着く当然の結果であったといえるでしょう。
平均寿命が約40歳と言われた時代に、北斎はなぜ90歳まで年を重ねることができたのか。国立研究開発法人国立長寿医療研究センター院長で、神経内科医でもある鷲見幸彦(わしみゆきひこ)氏に現代医学の視点でそのからくりを解き明かしていただきました。
もともと長生きの家系に生まれた?
――ちょっとご本人が来られませんので、代わって伺いますが、当時としては破格の寿命を保ちえた理由として考えられるのはどんなことですか。
鷲見:(以下略)実は、約40年という平均寿命にはちょっとした事情があるんです。どういうことかというと、当時は乳幼児死亡が目茶苦茶多かった。
――つまり、幼くして亡くなってしまうので計算上、平均寿命は短くなってしまう。
その通りです。だから、乳幼児期を乗り越えて、ある年齢まで生き抜いた人はそれなりに長生きしているんです。とはいえ、90歳は現代でも十分に長生きであるといえる。そう考えると、確かに当時としては驚異的な長さですね。
――北斎の生きた時代では平均寿命の倍近くです。医学的にはどう見ますか。
身も蓋もない言い方を許していただければ、北斎の家系は長生きだったのではないかと思います。つまり、遺伝子的な要因ですね。長生きの家系は本人はもちろん、周りも90歳とか95歳まで元気であることが疫学的に分かっています。疫学は健康を集団的に捉える学問ですから、信頼性が高いんです。
――北斎の家系はもともと、遺伝的に長生きだった? すごい仮説ですね。
寿命に関わる遺伝的素因を持っているかどうかが長寿を左右する要因の一つであるのは確かです。
感染症をすり抜ける免疫力のおかげ?
――遺伝的な素因が関係しているらしいということは分かりましたが、それ以外に考えられることはありますか。
これも遺伝的な話になりますが、北斎は感染症に強い体質だったんじゃないかと思います。昔はさまざまな感染症に対する抗生物質がなかったので、流行り病(はやりやまい)で人がバタバタ亡くなった。
文献によれば、江戸時代には痘瘡(とうそう)や結核、コレラなどの流行で多くの人が命を落としています。北斎が生きていたころはコレラが流行っていたはずです。
――感染症に強いということは免疫力が秀でているということですか。
北斎が特定の感染症に見舞われたという記録がないことから察すると、うまくすり抜けられたんだと思います。それが免疫力によるものだという可能性はありますね。初めに触れた、乳幼児の高い死亡率も、うまくすり抜けられなかった人が多かったからだともいえるでしょうね。
――免疫力の強さと長寿とはイコールで結べますか。
必ずしもイコールではありません。強さが逆に邪魔をする場合もあるからです。ひょっとしたら、北斎は子どものころになんらかの感染症にかかっていたかもしれません。そのときに得た耐性のおかげで大人になってから、かかりにくくなった可能性もあります。
――つまり、免疫を獲得しているというわけですね。
北斎の体の側の問題としてはそうですね。環境的なことを考えると、江戸という当時の最先端の都会暮らしが幸いだったかもしれません。農村であれば寄生虫や細菌といった感染要因がさらに日常的に存在しているわけです。結局そういうものからうまくすり抜けられたのは免疫力があったせいだろうと想像できます。
蕎麦と柚子によるマリアージュの恩恵?
――寿命に関わる遺伝子も感染症に強い体質も、持って生まれたものです。長寿を支えた要因として北斎の生活習慣から考えられることはありますか。
文献によると北斎は酒もたばこもやらず、質素な暮し向きであったようです。とりわけ、食生活では玄米や蕎麦を好み、脳血管障害で倒れてからは努めて柚子を摂取したとあります。一つずつ見ていきましょう。
まず、玄米には食物繊維が含まれています。栄養素としてビタミンB1もある。これが不足することで起こる脚気(かっけ)は心不全をもたらすことがあるので当時は非常に怖い病気でした。
――ビタミンB1は北斎が好んで食べた蕎麦にも豊富に含まれていますね。
はい。忘れてはいけないのはルチンという成分の存在です。毛細血管の強化に役立つからです。しかも、その効果はビタミンCを組み合わせることでさらによくなる。だから、柚子と一緒に摂るのが理想的なんです。
――柚子は60代の末期に脳血管障害で倒れたとき、柚子湯の形で摂っていたそうですから、確かに理想的な組み合わせですね。
決め手は含まれているヘズペリシンの存在です。この成分には血流を改善させる効果があるからです。ご存じかもしれませんが、脳血管障害は血管が詰まる「脳梗塞」と血管が破れる「脳出血」に大別できます。仮に脳梗塞だとすれば、回復後の経過を考えると、比較的小さな障害であったと思われます。
――その意味で、北斎の食生活は長寿に関わる理想的なものだったといえそうですね。
でしょうね。注目すべきは、好んで摂った玄米、蕎麦、柚子の「三点セット」がいずれも血管の健康に有利に働いたと考えられることです。どうやら北斎はこれらを若いころからではなく、脳血管障害で倒れてから努めて取り入れるようになったらしい。インターネットもSNSもない時代ですから、恐らくは民間療法を伝える口コミかなんかで情報を得たんじゃないでしょうか。
――「血圧が130を超えたら〇〇」と言いますから、やはり血管を健康に保つことが寿命を延ばすことにつながるのですね。
それはもう明らかです。北斎の場合、臨床的に見ると、障害を起こした場所が極めて小さかったことがよかったんだと思います。強運ですよ。大きさだけじゃなく、障害を起こした部位にも恵まれていた。
仮に、右手利きであれば、左側の運動野という部分を障害されると手が使えなくなるので利き手で絵筆を握ることができません。意欲も失せるので根気よく書き続けることもできなくなる。後頭葉は視覚を司るのでものがちゃんと見えなくなる。そう考えると、北斎は本当に運がよかったと思いますよ。
良質なたんぱくの摂取が健脚を支えた?
――北斎は現在の東京都墨田区から長野県小布施町まで片道250キロの峠越えの道のりを何度も往復したとされています。医学的にどうご覧になりますか。
医学というより一般論ですが、なんらかの形で良質なたんぱくを摂取していたんじゃないかと思います。想像を巡らせると、動物性は鶏卵と魚類。植物性は豆類でしょう。
廃用(はいよう)症候群といって、なんらかの事情で動かない状態が続くと筋肉や臓器の機能が低下することがあります。北斎の本職は座り仕事だから、本来は足腰が弱るはずなんです。
――にもかかわらず、トップアスリート顔負けの運動量をこなすことができた。
それを助け、健脚を支えたのが良質のたんぱく質だと思います。だから、普段動かない生活を送っていながら筋肉が落ちなかった。絵筆をとらない時間は結構近所を歩いていたかもしれない。
そういう日ごろの鍛錬がよい方向に働いていたのかもしれません。適度な運動は血液の循環にもいい。結果的に、これも長寿につながっていたと考えられます。
3万点もの作品を残せた集中力の源は?
――北斎が生涯にわたって3万点もの作品を描き続けられた集中力はどこに潜んでいたのだと考えられますか。
医学から離れるかもしれませんが、北斎は若いころから非常にたくさんのテクニックを身に着けようとしていたんじゃないかと思うんです。だからいろんな下地ができていた。性格的には変わることを恐れなかった。自分の過去の仕事にはこだわらない。要するに、ためらわずに自分を変えていける人だったんでしょうね。
そういう人って、一つの場所に踏みとどまらず、どんどん次のステップに進める。新しいことも積極的に試していく。だから、いくつになっても作品が増える可能性がある。それが結果的に膨大な作品を生む原動力になったということでしょう。
もちろん、根底には揺るぎない技術の土台があります。だから、過去の業績に捉われることはない。一部の芸術家あるあるだと思います。そういう人は概して多作です。西洋ならピカソ。音楽の世界ならストラビンスキーあたりでしょうか。
脳の特別な働きというよりも、もって生まれた能力のあり方だと思います。要は若い時からいろんなテクニックを身につけていることと変革を恐れないことです。
絵を描くことが脳の健康を促した?
――脳の働きという観点から北斎を考えると、どのような感想を持たれますか。
映画でも描かれているように、北斎はたくさんの弟子を取っています。弟子ですから、相手は当然自分よりも若い。そういう人と交わることで常に刺激を受け続けたことが脳の若さを保ったんじゃないかと思いますね。
絵師という仕事そのものが脳の健康に働きかけていることも見逃せないと思います。絵を描くためには脳をフル回転させる必要があるからです。繰り返しになりますが、対象をしっかり見ようと思ったら後頭葉を使わねばなりません。
非常に緻密な描写をしようと思ったら手の運動野が発達していなければ話になりません。何枚も何枚も根気よく長く書き続けようと思ったら、前頭葉がしっかりしている必要があります。
空間認知や立体表現は頭頂葉を使う。ことほどさように、絵を描くという営みは脳の働きを総動員させることなんです。だから、絵を描くこと自体が集中力の源泉になっているんですね。
――壁に飾ってある絵はカンジンスキーですね。お好みですか。
はい。絵は好きなんです。具象画より惹かれます。色使いとか形の捉え方とかが面白いからです。古典的な絵と違って、その人の見方によっていかようにも解釈できる点も具象画にはない楽しみ方だと思います。
――今日はお忙しいところ、ありがとうございました。