1945年8月15日の敗戦から、日本はのちの「自動車大国」としての道を進むことになる。それまで軍用機を作っていた技師が自動車メーカーでペンを執るようになり、また不整地が多かった日本の道路事情がプラスに作用して、耐久性に優れた数々の名車が誕生した。
ところが戦後20年ほどは、スポーツカーの分野で日本は欧米メーカーの後塵を拝していた。水平線の遥か向こうの国では、大衆車とは一線を画すデザインのスポーツカーが生産されている。それらが日本のサーキットにも持ち込まれ、驚異的なラップタイムを叩き出していた。
日本にも本格的スポーツカーがあって然るべきだ。
そんな憂鬱じみた思案が、『トヨタ2000GT』という形で見事に昇華したのだ。
もっと大きなクルマを
1965年10月、第12回東京モーターショーは参考出展のとあるクルマの話題で盛り上がった。
それまでの国産車にはなかった流線形ボディの2,000ccクラス車である。そのデザインはジャガー・Eタイプに似ているが、無論これは外車ではない。トヨタとヤマハの共同開発による製品だ。
この時代、日本は高度経済成長期の只中にあった。東京オリンピックが終わってから国民の生活が一気に豊かになり、同時に様々な耐久消費財が売れまくった。かつては「夢のまた夢」と言われていたマイカーも、珍しいものではなくなっていった。
1961年、トヨタは『パブリカ』というクルマの販売を開始した。このパブリカに関しては、当時のテレビCMを見ればどのようなコンセプトの製品なのかが一目瞭然だ。
名優・大坂志郎演じるお父さんが家族と共に行楽へ出かける。トランクにはパラソル、バスケット、浮き輪、スイカなどを次々と積み込み、家族4人を乗せて悠々と路地や悪路、幹線道路を走行する。つまりこれは「大衆車」であり、国民車構想の一環として開発された製品なのだ。
60年代前半まで、日本のモーター産業は「庶民のクルマ」の開発に全力を傾けていた。
しかし、年々可処分所得を増やしていく日本人はそれだけでは満足しなくなった。
1965年、トヨタはパブリカのパーツを流用した『スポーツ800』を市場投入。これは徹底的な空気抵抗の削減と軽量化を施された名車だったが、2気筒790ccのエンジンはお世辞にも強力とは言えなかった。
敗戦国が世界有数の経済大国へ駆け上がる最中、国民はもっとパワフルでもっと大きな国産スポーツカーの登場を望んでいたのだ。
永遠の憧れ
トヨタ社内で「280A」というコードネームのプロジェクトが開始されたのは、1964年のお盆明けからである。
そのプロジェクトにヤマハが参画したのは、同年12月。当時のヤマハは四輪車分野への進出に積極的だったが、様々な事情からそれがなかなか叶わずにいた。技術研究そのものは進められているから、せっかくの武器を無駄にはしたくない。
のちの2000GTは、トヨタとヤマハの共同作業の成果物である。生産は磐田の工場、即ちヤマハが受け持った。故にヤマハ発動機本社内のコミュニケーションプラザには、実物の2000GTが展示されている。そしてこの記事を書くにあたり、コミュニケーションプラザで2000GTの写真を撮影した。
現代人の目から見ても、見事なデザインである。角ばったボディのクルマが主流だった60年代では、文字通り異彩を放っていた。1988㏄直列6気筒のエンジンは、まさに「スポーツカー」の心臓に相応しい風格だ。
ただし、1967年に一般販売が開始された2000GTは庶民にとっては「高嶺の花」である。価格は238万円。67年の南海ホークス野村克也の年俸は1,500万円だ。同年秋にドラフト9位で阪神タイガースに入団した川藤幸三の契約金は500万円、1年目の年俸は72万円。ちなみに、大卒社員の初任給は2万6,000円がせいぜいである。
だが……いや、だからこそ2000GTは「永遠の憧れ」という唯一無二の符号を今でも保持し続けている。2000GTの美しい内装は、もはや伝説と化している。このあたりは楽器メーカーとしてのヤマハの力が作用していた。ピアノという、巨大な木工製品を製造する技術を最初から有していたからだ。木材の選定や加工は、楽器屋だからこそできる作業だった。このクルマの内装に使われているウッドパネルやウッドステアリングは、現代ではそれ自体が高値で取引されている。
しかし、クルマにとって最も重要なものは走行性能だ。
スピードトライアルで世界新記録樹立
一般販売が始まる前の1966年10月、2000GTはスピードトライアルに臨んだ。
これは瞬間的な速度ではなく、平均時速の記録を作るものだ。1万マイルを走り抜け、時間や距離毎の平均時速を割り出す。1万マイルを走るには優に3日以上かかる。もちろん、ドライバーはひとりではない。ピットインを挟みながら、合計5人のドライバーが入れ替わる。それを3日ぶっ通しで続けるのだ。2000GTは72時間(206.02km/h)、1万5,000km(206.04km/h)、そして1万マイル(206.18km/h)の平均時速世界新記録(排気量1,500~2,000cc)を樹立した。これらは日本車としては初めてのFIA公認記録である。そしてこの時のトライアルの様子は『世界記録への挑戦 トヨタ2000GTスピードトライアル』というタイトルで映画化もされた。そしてこれと同時期、2000GTは上述とはまた別の映画の収録に追われていた。
オープンカーバージョンがスクリーンで大暴れ
『007』シリーズの『007は二度死ぬ』は、日本を舞台にした作品である。
当時の西洋人から見た、やや曲解された日本人が登場するこの作品だが、2000GTはアキ(若林映子)が華麗に乗り回すオープンカーとして大活躍する。188cmの長躯を持つショーン・コネリーが乗っても窮屈ではないクルマにしてくれ、という要望から2000GTをオープンカーに改造したのだ。
劇中の2000GTにはテレビ電話が搭載されていた。ボンドはこのテレビ電話でタイガー田中(丹波哲郎)と会話をしていたが、よく見たらこの機器には「SONY」という文字が。007シリーズには「ミニ万博」という側面もある。『007は二度死ぬ』は、日本が伸びやかに成長していた時代をしっかり記録している映画だ。
そして2000GTは、日本の高度経済成長期の象徴になるべくしてなったのだ。
ヤマハ発動機コミュニケーションプラザ情報
住所:静岡県磐田市新貝2500
サイト:https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/
【参考】
「トヨタ2000GT」の試作から生産へ-ヤマハ発動機
ニューモデル速報 歴代シリーズ 生誕50周年記念 トヨタ2000GTのすべて(三栄書房)
ヤマハ発動機コミュニケーションプラザ