地図上で「おや?」と思うような地名を見つけたことはありませんか? 静岡在住の筆者の場合、それは浜松市天竜区の「空」でした。同じ天竜区内には市民の間で抜群の知名度を誇る「月」がありますが、まさか「空」まであるとは! しかも、天竜川を河口から遡ると「月」で「空」の順番に。天竜では月よりも空の方が遠いの!?
天竜では「空」は「月」よりも遠い!?
日本列島のほぼ真ん中を流れる天竜川は、長野県の諏訪湖に源を発し太平洋へ注ぐ一級河川。「月3キロ」の道路案内板の存在が脚光を浴びたことにより、知名度だけなら全国区となった「月」地区は、この天竜川流域にあります。
ある日、何気なく地元の浜松市内を流れる天竜川流域の地図を眺めていたときのことです。
月から北へ直線で約6キロ先にある秋葉ダム近辺の天竜川左岸で「空」(「戸倉空」)という地名を見つけました。
しかも、そのすぐ東側には「戸倉谷」という地名も。地図上での道路状況や等高線から推測すると、どうやら空は山道を登ったあたりの様子。
ということは「谷」は谷間のことで、空と対になっている!? さらに周囲には「雲折」や「雲名」という地名もあります。
この地名の由来は単純に考えると「山の上の方にあり、空に近いため『空』となった」ような気がしますが、果たして本当にそうなのでしょうか。しかも、空だけではなく谷に雲まで……。そこで空へ行く前に、地名の由来について調べることにしました。
地名の調べ方あれこれ
地名の由来には主に次のパターンがあります。
1)その土地の形状を由来とする
2)合併等によって2つ以上の地名を合成する
3)元々の地名から縁起の良い地名に変更する
4)かつて住んでいた職人やその職業名に由来する
5)アイヌ語に由来する(主に北海道や東北地方)
たとえば1)は、浜松市だと天竜区に「水窪(みさくぼ)」という地名がありますが、これはその土地がまわりよりもくぼんだ窪地(くぼち)であることからつけられています。
2)は東京都大田区が該当します。大田区は「大森区」と「蒲田区」が合併した際に、それぞれの名前から一文字ずつ取って「大田区」となりました。
3)に該当するのが、戦国時代に「北之庄」と呼ばれていた北陸の「福井市」です。「北」は象形文字で「相手に背中を向ける」ことを指し、それが「逃げる」「負ける」に繋がることから、縁起の良い「福」を用いた「福井庄」となり、現在の「福井市」に繋がっています。
4)は静岡市にある「鷹匠」が、そして5)には「札幌」が当てはまります。
※地名にはそれぞれ諸説あります。
しかし空についての由来は、どれにも当てはまらないようでした。後述する月の由来も、地元に伝えられてきたもの以外に、なにかあるのかもしれません。
手掛かりを求めたものの
そこで手掛かりを求めて地元の風土記や昔話のほか、龍山村史を読んでみることに。風土記は一見すると量が多いように感じますが、自分の読みたい箇所だけを探して読むので、実はそれほどではないんですよ。
結論から書くと、空と谷の由来について特に手掛かりはありませんでした。風土記にも昔話集にも村史にも登場しません。登場しないとなると、ますます知りたくなりませんか?
ただ戸倉と、その近くにある雲折の由来は分かりました。
まず戸倉ですが、行基菩薩がこの地方への訪問時に彫った浮屠(ふと / 仏像のこと)を納置するために蔵を建てたことによるようでした。浮「屠」の「蔵」から「とくら」に、そしてそれがいつしか「戸倉」になったのでしょう。「屠」の字は「屠(ほふ)る」に繋がるので、避けたのかもしれませんね。
戸倉のは近くに「雲折(くもり)」という地名があり、そこは浮屠の材料となった木材を切り出すための森があった場所でした。そこから「久しい森」→「久森」になり、いつしか「雲折」に変化した様子。どうして変化したのかまでは依然不明ですが、由来が分かると嬉しいものです。
でもでも、これだけでは物足りない。現地へ行って月や空の地形をこの目で確かめ、できればその由来を知りたい! 気になる気持ちが抑えられず、愛車のハンドルを握り、まずは手前の月へ行くことに。
「月」へLet’s go!
はい、こちらが数年前にインターネット等で一躍脚光を浴びた「月3キロ」の案内標識です。
そしてこちらが案内標識から3キロ先にある月です。この地に到着すると、ここが月であることを強調するかのように、あちこちに様々な標識等が設置されています。
それにしても、本当に月へ到着してしまった……。某アパレルメーカーの元社長もまだなのに、一般人の筆者が先に着くなんて……。
密かな喜びを胸に秘めつつ集落を歩き、とある坂道の上り口で「月」の地名の由来が彫られた石碑を見つけました。
由来には3つの説が浮上!
それにはこのように書かれていました。
この坂を五十米ほど登った所を「おやしき」と呼んでいる。
ここは南北朝の昔楠氏に仕えた源氏の一族鈴木左京之進が十二人の家子郎党をつれて落ちのびた屋館跡といわれている。
左京之進は楠正成の心の清らかさこそ中空にかかる月のようである吾等の心の在り方を地名にのこそうと村の名を月とつけたという。
ここまでが、インターネットで検索すると主に表示される1つめの説のようです。
続けて石碑には、もう一つの説が彫られていました。
また一説には「今宵纔是半釣影待到仲秋是十是」の古詩に因み今はわずか十二人の半釣であるがやがて満月のように発展することを願って月とつけたともいわれていてる。
竜川伊呂波加留多には「源氏の落人 月の里」とうたわれている。
ちなみに2つめの「古詩に因んでつけられた」説ですが、これは小倉市誌に登場する江戸時代の福岡小倉に生まれた法雲明洞が詠んだ「今宵纔見半釣影待到中秋是十成」という漢詩によく似ています。
さらに昭和63年6月30日付けの天竜市地方史研究会報「壬生乃里」第36号には
月(つき)つき(ツキ)は(ツカ)と同じように「小高い所」の意味である。台地、砂丘などに多い。また水涯を「都岐」(つき)「都計」と呼ぶ古い言葉より、それが月になったのかも知れない。
とも。いずれにしても、確かなことは分からないようです。
この辺りは船明(ふなぎら)ダム建設時の工事で、岸辺付近を中心に変わってしまった可能性があるとはいえ、天竜川右岸のやや小高い土地で、西側の山に向かって集落がある。そんな感じでした。
ロマンを取るなら1つめや2つめの説を。地形的考察では3つめの説、そんなところでしょうか。
重要ポイント……かもしれない対岸の集落
「月」から「空」までは直線で約6キロ。来た道をいったん戻り、国道152号線へ出てから天竜川をひたすら北上します。
その途中、国道よりも40~50メートルほど低地にある「鮎釣(あゆづり)」地区へ立ち寄りました。鮎釣りのシーズンともなれば、釣り人で賑わう天竜川。風土記にはこの土地の由来も載っていませんでしたが、たぶん昔から鮎がよく釣れる場所だったんだろうなあ。
「直接『空』へ行けばいいのに、どうして寄り道するの?」と思う方もいますよね。それはこの場所が彼の地の由来について要になるかもしれないから。ここは天竜川を挟む形で空の対岸(天竜川右岸)にあたり、縄文時代の遺跡が出土したほど古くから集落が営まれていた土地なんです。
集落(ムラ)を取り囲むように原(ハラ)が広がり、さらに原(ハラ)の外側には山(ヤマ)があり、その山(ヤマ)の向こう側に空(ソラ)が広がっている。集落(ムラ)は人工物、山(ヤマ)は自然、その中間部分の原(ハラ)は自然+人工物。そして空(ソラ)は死後の魂が行き着くあの世……、縄文人はそのように考えていたとされています。
これを鮎釣に当てはめると、ムラ(鮎釣地区)とヤマとの間にはもうひとつの自然物・カワ(天竜川)が流れています。すぐ上流に秋葉ダムが設けられている現在とは異なり、縄文時代の天竜川はもっと水量が多く水の流れも速かったでしょう。空地区を含むヤマは、そのカワの向こう側です。
鮎釣に住んでいれば、木の実や獣肉など山の恵みが欲しい場合、わざわざ川を渡らなくても集落西側の山へ行けばこと足ります。対岸の山へ危険を冒してまで行く必要はありません。現在は集落と天竜川との間に堤防が築かれ、さらに河原側が雑木林になっているため、鮎釣から空を見ることは難しい状態です。
堤防等の遮るものがなかった縄文時代に、自分たちが暮らしている土地からカワを隔てた先のヤマを、「ソラ(あの世)」と呼んでいたとしても不思議ではないと思いませんか? そしていつしか、それにぴったりな「空」の字を当てた!?
「空」へ行ってみた
空が見えた!!
鮎釣地区から対岸の空地区へ向かうには、集落のはずれにあるループ橋を通り天竜川に架かる竜山大橋を渡るのが最短ルートです。ループ橋は高低差のある土地を結ぶために作られた螺旋状の橋のこと。都内のレインボーブリッジや、伊豆の天城山中にある河津七滝ループ橋が有名です。
この鮎釣にあるループ橋は1回転することで約16メートルの高低差を解消し、道路の高さを竜山大橋と揃えます。橋の途中から左手前方に視線を向けると、切り開かれた山の斜面に点在する家屋とそれらをつなぐ道路が見えました。
あそこが天竜川流域の地図で見つけて以来、行きたかった空地区……!
ここまで来れば、あともう一歩。地図上では、天竜川左岸を南北に走る静岡県道から少し奥まっている戸倉谷地区を通って、空へ続く道路が確認できます。できれば空と対になっているかもしれない戸倉谷を経由して行きたい。
その思いが止められず、戸倉谷の地形を確認しつつ空へ向かうことに。
空へ行こうとしたけれど
静岡県道から左折し向かった戸倉谷は、やはり谷間の集落でした。カーブが続き杉木立等が多く、晴天時でも日があまり差さない谷間。地名の由来は地形から来ていると思われます。
戸倉谷からいくつかのカーブを抜けると「戸倉空線入口」の看板がありました。ここから坂道を登れば、そこは空です。
それにしても「空」の名を持つ土地だけあって、集落入り口から見上げた坂の勾配のキツそうなこと! さらに今まで走っていた道路よりも幅員が狭いっっ。筆者の運転技術では、対向車とのすれ違いもできないに違いない!
この坂を自力運転で登ることはできまい。
そう判断し「戸倉空線入口」の看板に書かれている「龍山ふれあいバス」を利用することにしました。
空はとても空に近かった
龍山ふれあいバスは月に数日間運行するデマンド(呼び出し型)タイプのコミュニティバスです。「バス」の名前はついていますが乗客がほぼいない過疎路線のため、経費の無駄を省くからか普通のタクシーでした。
どれくらい過疎路線かと云うと、ドライバーさんに「戸倉空線の終点までお願いします」と告げたところ、「何しに行くの? 誰も行かないよ?」と聞き返され、さらに「何もないよ」と念押しされたほど。「終点まで行くのが目的なんです」と答えて、いざ出発進行!
出発地点から戸倉空線終点バス停へは、戸倉谷を経由しないルートで約25分。竜山大橋から見た連続カーブを左右に曲がりながら坂道を登ります。
「ここが終点だよ」と案内された場所は行き止まりでまさに「終点」。その地を示すバス停標識は、ドライバーさんが知らない間に外れてしまい見当たりませんでした。
ただ行き止まりといってもドライバーさんの話によると、終点から左下へ下りる道はその先にある個人宅へ繋がっているとのこと。そして「その個人宅は今もあるけど、もう空き家で、家族が家の管理に通っている。もっと昔には、この辺りにも民家が数軒あったと思う」とも。
「戸倉空線入口」からここまでの間には、道路沿いに数軒の民家と小さな畑、そして雑木林の中にひっそりと、かつては民家の土台だったと見られる石垣がありました。
なかには「この家のためにバス停を作ったのに、もう今は住んでいないんだよね」というバス停「戸倉空中(とくらそらなか)」もありました。「くうちゅう」ではなくて「そらなか」。読み間違い必至のバス停です。でもここから乗る人はもういません。
それどころかドライバーさんによると「今、空地区に住んでいるのは1世帯だけ」。竜山大橋から見た時や、終点までの道のりの間にあった民家の大部分は空き家でした。
さて空の由来は……?
空地区に着いて思ったのは「空は空に近い」ということでした。南向き斜面で周辺のどの集落よりも高台にあり、天竜川対岸の山までは1キロ以上離れていることから、山間地特有の日照時間の少なさはそれほど感じないでしょう。
これはもしかしたら、地名の由来は単に地形的なものなのかもしれない。
いやでも、対岸の鮎釣から見た時の印象もあるし……。
鮎釣の標高は100メートル以下。いっぽう、空の終点は標高おおよそ310メートル。鮎釣からだと200メートル以上見上げることになるので、縄文人が「ソラ」と呼んでいた可能性も捨てきれな~い。
地名の由来を考えあぐねた筆者は、ドライバーさんに手掛かりを求めることにしました。すると「『空』という地名は屋号なんだよ。戸倉地区の一番奥にあるから『戸倉空』」という返事が。彼はさらに「白倉地区の一番奥には『白倉空』というところもあるんだよね」と。
屋号!!
そう言われてみれば、天竜区内にある筆者の母の生家は「谷に流れる沢沿いの集落の中で、一番奥にある」ため、「谷の奥(やのおく)」と屋号で呼ばれることもありました。
地名の由来は、それと同じ理由!?
地形的要因を多分に含んだ屋号を元に、土地の名前がついた。
縄文人の考え方にも惹かれますが、この地については屋号説の方がしっくりくると思いました。
白倉地区の「空」ですが、こちらは戸倉空から5~6キロ北西にあります。筆者が白倉空に惹かれなかったのは、地図上で見た際に「空っぽさ」を感じなかったことと、その周囲に「雲」や「谷」などの地名がなかったからです。
「月」の先に「空」があるのは、浜松市に合併する前の自治体が「月」は天竜市で「空」は磐田郡龍山村、と異なっていたこともあり、古い時代に名付けられた地名に統一性がなかったからかもしれません。とすると、これは偶然の産物?
そうそう、ずっと「とくらたに」と読んでいた戸倉谷ですが、ドライバーさんから「とくらや」と読むことを教えていただきました。
由来はもちろん、読み方ひとつ取ってみても知るものが多い地名。
市町村合併等で消滅していくものもありますが、日本全国にはまだまだ不思議な地名が残されています。これだから、地図を読むのは楽しいんですよね。
参考文献:
『縄文人の世界』小林達雄 著 朝日選書 1996年7月
『角川日本地名大辞典22静岡県』角川書店 1982年10月
『遠江国風土記伝』内山真龍 著、加藤 菅根・皆川 剛六 訳 歴史図書社 1969年