藤原彰子(ふじわらのしょうし/あきこ)は、平安時代に摂関政治で栄華を築いた藤原道長(ふじわらのみちなが)の長女。2024年大河ドラマ『光る君へ』では、女優の見上愛(みかみ あい)さんが演じます。
わずか12歳で一条(いちじょう)天皇の后となり、のちに後一条天皇・後朱雀(ごすざく)天皇という2人の子どもの母として政治を後見しました。国母(こくも)として国のために平和を願った彰子の生涯を、紫式部や定子との関係とともに辿ります。
生まれたときからのお后候補
彰子の母は、皇族の血を引く源倫子(みなもとのりんし/ともこ)です。摂関家の五男だった道長にとっては、逆玉の輿ともいえる格上の結婚相手でした。その血筋により、彰子は生まれたときから天皇の后となるべく育てられることとなります。
父・道長のねらいは、一条天皇と娘・彰子との間に生まれる親王(男子)、つまり次代の天皇の祖父となって権力を持つことでした。その目的を叶えるために、彰子は成人の儀である裳着(もぎ)を終えたばかりの長保元(999)年、12歳で一条天皇のもとに入内(じゅだい)します。
このとき、一条天皇は20歳。彰子の入内とちょうど同じ頃に、10代のはじめから連れ添ってきた中宮・定子(ていし/さだこ)が、敦康(あつやす)親王を出産しています。
道長は焦ったことでしょう。翌年には定子を皇后とし、彰子を中宮にするという強引な人事が行われました。中宮とは皇后の別称ですが、それを分けることで、彰子を定子と並ぶ第1位の后にしたのです。
▼そんな強引な道長さんはこんなお人。
平安のテッペンをとった男!藤原道長の人物像やしたことを解説
12歳の彰子は内気な「雛遊びの后」
当時の年齢の数え方は生まれた年を1歳として、元旦を迎えるごとに年を重ねていく数え年ですから、現在の年齢でいえば、一条天皇の后となったときの彰子は12歳よりも1~2歳年少だったことになります。
道長の栄華を中心に平安時代の歴史を綴った『栄花物語』によると、この幼すぎる后は「髪は背丈よりも長く、顔かたちは美しく、まだ少女というべき年齢なのに、落ち着いていて申し分のない姫君でいらっしゃった」とのこと。
一条天皇は「お側に寄ると自分が翁(老人)になったように感じる」と話し、まるで「御姫宮のようにかしづかれている」、つまり娘のように大切に育てていると記されています。
一条天皇がすばらしい笛の音を披露なさっているのに、姫君はうちとけぬご様子。「こちらを向いてご覧なさい」とやさしく声をかけられても、「笛は音を聞くものですもの、見なくてもよいでしょう」とそっけない。上様は「ほら、だからあなたはまだ幼いというのです。私のような70の翁をそのようにやり込めて、ああ恥ずかしいな」と戯れていらっしゃる。
『栄花物語』より
彰子には年相応の内気な一面もあり、一条天皇はそれも含めてかわいらしく思っていたということなのでしょう。
一条天皇は道長の顔を立てるために、しばしば彰子と過ごす時間を設けていますが、この時期にはまだ「雛(ひいな)遊びの后」と呼ばれる、男女関係をともなわない、ままごとのような夫婦だったと推測されます。
彰子の「サロン」と紫式部
一条天皇の後宮では、明るく知的な中宮・定子が『枕草子』の作者である清少納言を従えて、活気のあるサロン(社交の場)を開きました。
道長もまた彰子のために家柄のよい娘たちを数多く女房(貴族に仕える女性)に集め、サロンを作ろうとしています。のちには、『源氏物語』の作者として有名な紫式部を彰子の女房につけ、メンター(導き手)としました。
一条天皇は『源氏物語』を女房に朗読させて、作者の紫式部を「日本紀(にほんぎ/日本書紀のこと)を読んでいるに違いない。教養のある人だ」と評価したといわれています。道長は彰子が紫式部の影響を受けて、天皇の心をつかむような知的な女性へと成長することを期待していたのでしょう。
ライバル・定子が生んだ親王の養母となる
定子が亡くなったのは、彰子が中宮に抜擢されたその年、長保2年(1000)の暮れのことです。
彰子は、漢の明(めい)帝の馬(ば)皇后が、自分が生んだのではない皇太子を立派に育てあげ、賢后と讃えられたという中国の故事にならって、定子が遺した敦康親王の養母となりました。
中宮という立場であっても、年齢が若すぎる彰子にはまだ当面、一条天皇との子どもは望めません。道長には、彰子が敦康親王の養母になることで、次の天皇候補を身内にできるという思惑もあったでしょう。
親王を授かり、道長の栄華を確かなものに
彰子が一条天皇の子どもを出産したのは、寛弘5(1008)年、21歳になってからのことです。生まれたのは道長が待ち望んだ男子でした。のちに後一条天皇となる敦成(あつひら)親王です。彰子とお腹の子どもが呪詛されるのを防ぐため、周囲には妊娠したことを慎重に伏せていましたが、出産のお祝いは盛大すぎるほどに行われました。
一条天皇の御代において、道長はすでに長い間公卿のトップを独占していましたが、次代の天皇の祖父になるという夢には、このときやっと王手をかけることができたのです。
本当の意味で夫婦となった彰子と一条天皇の、この時期の親密さを示すかのように、彰子は翌年にもまた、のちに後朱雀天皇となる敦良(あつなが)親王を出産しています。
彰子が道長を怨んだ出来事
体があまり丈夫ではなかった一条天皇は寛弘8(1011)年、32歳の若さで崩御しました。病に倒れてから亡くなる前に三条天皇に譲位し、次の東宮に立ったのは彰子が生んだ敦成親王です。
一条天皇は、定子が遺した長男である敦康親王を東宮につけたいと考えており、彰子もその考えに賛成していました。しかし後ろ盾のない親王が東宮になれば、争いの元となるだろうと考えた周囲の反対により、叶えることができなかったのです。
譲位にともなって議論された敦康親王の処遇を、道長は彰子に隠そうとしたのでしょうか、すぐには伝えていません。そのために「后宮(彰子)は、丞相(道長)を怨み奉った」と、一条天皇や道長の側近だった藤原行成(ゆきなり)が日記に残しています。
後一条天皇が即位し、国母となる
敦成親王が後一条天皇として即位したのは長和5(1016)年。29歳になった皇太后の彰子は、9歳の天皇に付き添って玉座である高御座(たかみくら)に座りました。
そして天皇の生母であり、国の母という意味の国母(こくも)として、幼い天皇の政務を後見していきます。堅実な性格の彰子は、公卿たちからも賢后と信頼される存在でした。内気な少女だった頃の面影はもう、ありません。
道長が「この世をば わが世とぞ思う…」という有名な「望月の歌」を詠んだのは、道長の娘であり彰子の妹でもある威子(いし/たけこ)が、後一条天皇の后になったことを祝う宴の席でのことです。しかしこのときには、道長の体力はすでに欠け始めており、実質的に婚姻の采配をしたのは太皇太后(たいこうたいごう/先々代の帝の皇后)となった彰子だったのです。
女院となって国の平和を祈る
彰子が髪を削いで出家したのは万寿3(1026)年、39歳のとき。幼くして即位した後一条天皇も大人となり、安心して仏門に入ることができたのかもしれません。
太皇太后から上東門院(じょうとうもんいん)となった彰子が、写経した経本に添えて寺院に納めたとされる自筆の御願文(ごがんもん)には、「我が国の君(天皇)平らかに、民安らかならむ……」と平和を祈る言葉が綴られています。
しかし女院となったのちに、彰子は後一条天皇に先立たれ、その後を継いだ次男の後朱雀天皇を後見することになります。さらに後朱雀天皇にも先立たれて、孫の後冷泉天皇の御代になっても、相談役として朝廷で存在感を保ちました。
2代の国母として、その後も天皇の祖母という立場で国を見守り、平和を願い続けた彰子は、当時としては珍しいほどの長寿を全うし、承保元(1074)年に87歳で崩御しました。
*平安時代の人物の読み仮名は、正確には伝わっていないことが多く、敬意を込めて音読みにする習慣があります。
アイキャッチ:紫式部日記絵巻(模本)出典:ColBase
参考書籍:
『藤原彰子』著:服部早苗(吉川弘文館)
『藤原彰子』著:朧谷寿(ミネルヴァ書房)
『一条天皇』著:倉本一宏(吉川弘文館)
『日本の古典を読む11 大鏡 栄花物語』(小学館)
『藤原行成「権紀」』著:倉本一宏(講談社)